【Part 4】地下道のカナリアと、外されたイヤホン
泣き疲れて歩けなくなった陽斗の背中を支え、なんとかマンションの1402号室へと連れ帰る。
エアコンの温度を上げ、シャワーを浴びさせた後、私は彼にホットミルクの入ったマグカップを手渡した。
「……ひな、ちゃん」
ソファの上で毛布に包まった陽斗が、両手でマグカップを握りしめたまま、上目遣いで私を見る。
その目はまだ赤く腫れているが、公園で見つけた時のようなどこかへ消えてしまいそうな危うさは、すでにない。
「ゆっくり飲んで。落ち着いたら、少し寝なさい。私は透くんを探してくるから」
私が立ち上がろうとすると、陽斗が慌てて私のエプロンの裾を掴む。
「……っ、俺も行く!」
「ダメ。陽斗くんはここで待ってるの。ここはあなたたちの『おうち』なんだから、誰かが留守番してなきゃダメでしょ?」
私がわざと子どもを諭すような口調で言うと、陽斗は唇を噛み締め、ゆっくりと手を離した。
「……透、帰ってくるかな。俺のせいなのに」
「あなたのせいじゃない。あのステージが壊れたのは、全員の心がバラバラだったからだよ。だから、もう一度くっつければいいの。絶対に連れて帰るから、待ってて」
陽斗の金色の髪をくしゃりと撫でて、私は再び冷たい夜の街へと飛び出した。
午前零時。
終電を逃した酔客がまばらに歩く、深夜の新宿。
私はスマートフォンの画面を何度も確認するが、透からの返信はもちろん、既読すらつかない。GPSも切られているようだ。
「……透くん、どこにいるの」
息を切らし、足が棒になるまで歩き回る。
キャリーケースを引きずって、彼が向かう場所。
『俺は俺のやり方で、歌える場所を探す』
その言葉をヒントに、ライブハウスの周辺や、深夜でも入れるネットカフェを片っ端から覗いてみるが、銀灰色の髪は見当たらない。
(違う。彼は、隠れたいんじゃない)
ふと、透のカルテの言葉が頭をよぎる。
『音楽以外の一切のコミュニケーションを拒絶する』
彼は、人と関わりたくないからイヤホンをしている。
でも、なぜ彼は『歌う』のか。
本当に一人がいいなら、部屋の隅で誰にも聞こえないようにハミングしていればいいはずだ。
それなのに、彼はあのリハーサル室で、私に声を聞かせた。昨日のライブでも、不完全ながらも観客の前に立った。
(透くんは……本当は、誰かに自分の声を聞いてほしいんだ)
見捨てられ、誰にも必要とされなかった彼にとって、『歌』は自分が世界に存在していることを証明するための、唯一のSOSのサインだ。
「……音響がよくて、人が立ち止まる場所」
私はハッとして、駅の東口から続く長くて広い地下連絡通路へと向かって走り出した。
地下通路は、外の冷気からは遮断されているものの、コンクリートの冷たい空気がどんよりと滞留している。
蛍光灯が等間隔に並び、無機質な白い光を落としている。
終電が終わり、シャッターの閉まった地下街は、歩くたびに自分の足音が不気味なほど響き渡る。
その通路の、一番奥。
薄暗い柱の陰に、ポツンと置かれたシルバーのキャリーケース。
その上に座り込んでいる、グレーのパーカーの影を見つけた。
「……透くん!」
私は弾かれたように駆け寄る。
透は両耳にイヤホンを突っ込み、深くフードを被ったまま、膝の上で組んだ両手をじっと見つめている。
近づいていくと、彼の口元が微かに動いているのが分かった。
『――♪〜……っ』
声には出していない。ただ、口パクで、あるいは喉の奥だけで、メロディを紡いでいる。
誰にも届かない、透明な歌。
「透くん」
私は彼の目の前に立ち、その名前を呼ぶ。
しかし、イヤホンで外界の音を遮断している彼には聞こえない。
私は少しだけ躊躇した後、手を伸ばし、彼の左耳のイヤホンを指先でそっと引き抜いた。
「……ッ!」
ビクッと肩を跳ねさせ、透が顔を上げる。
その目は、突然の侵入者に怯える野生動物のように大きく見開かれている。
「な、なんで……あんたが、ここに」
「探したよ。こんなところで何してるの。風邪引くよ」
私は努めて平坦な声で言い、彼と同じ目線になるようにコンクリートの床にしゃがみ込む。
「……俺に関わるなって言っただろ。帰れよ」
透は奪われたイヤホンを取り返そうと手を伸ばすが、私はそれをサッと隠し、首を横に振る。
「帰らない。透くんも一緒に帰るの」
「ふざけんな。俺はもう、あんな泥舟には乗らない。俺は一人で……」
「一人で、どうするの?」
私が彼の言葉を遮ると、透は言葉に詰まり、視線を泳がせた。
「ここで、誰にも聞こえない声で歌い続けるの? それで、誰かがあなたのことを見つけてくれるの?」
「……っ」
「本当は、イヤホンなんてしたくないんでしょ」
私の静かな指摘に、透の細い肩がピクリと震える。
「自分の歌を、誰かに聞いてほしい。誰かに『お前はここにいていい』って、認めてほしい。でも、期待して裏切られるのが怖いから、自分から耳を塞いで、一人で生きられるふりをしてるだけじゃない」
「黙れ……!」
透が声を荒らげ、私を真っ直ぐに睨みつける。
その瞳には、今までのような冷たい皮肉はない。傷口を直接塩で撫でられたような、剥き出しの痛みが浮かんでいる。
「あんたに俺の何が分かる! 親にすら捨てられた俺の気持ちが、あんたなんかに分かってたまるかよ!」
地下通路に、彼の悲痛な叫び声がビリビリと反響する。
「期待したって無駄なんだよ! どうせ最後はみんな、俺を置いていく! だから最初から、誰のことも信じない方がマシなんだ……!」
それは、彼の心の奥底に封印されていた、血の滲むような本音だった。
私はしゃがみ込んだまま、彼の目をじっと見つめ返す。
そして、ゆっくりと手を伸ばし、今度は彼の右耳に刺さっていた残りのイヤホンも、優しく引き抜いた。
「あ……」
外界の音が、彼の中に一気に流れ込む。
蛍光灯のジーッというノイズ。遠くを走る車の微かな振動。そして、私の真っ直ぐな声。
「……確かに、私はあなたのご両親じゃない。あなたの過去の痛みを、本当の意味で肩代わりすることはできない」
私は引き抜いた両方のイヤホンを、自分のエプロンのポケットにしまう。
「でもね。私はあなたを見捨てない。あなたが何度逃げようとしても、こうやって何度でも探しに来る。絶対に、見つけてみせる」
「……なんで」
透の声が、情けなく震える。
「あんたは……俺の親でもないのに。ただのマネージャーなのに、なんでそこまで……」
「私が、あなたの歌を聴きたいからだよ」
一切の嘘偽りない、私の本心。
「あなたの声が、もっとたくさんの人に届くところを見たい。あなたがステージの真ん中で、誰の目も気にせずに思い切り歌う姿が見たい。……だから、一緒に帰ろう」
私は彼に向かって、両手を差し出す。
床に座り込む子どもに、「おいで」と手を広げるように。
透は私の差し出した手を、信じられないものを見るような目で見つめている。
彼の中で、強固に築き上げられていた『絶対的な孤独の壁』が、音を立てて崩れていくのが分かる。
「……っ、う……」
やがて。
透は両手で顔を覆い、膝の間に深く顔を沈めた。
「うぅっ、あぁぁ……っ」
くぐもった泣き声が、誰もいない地下通路に響く。
彼は子どもみたいにしゃくり上げながら、これまでの人生で流せなかった分の涙を、すべて吐き出すように泣き続けた。
私は黙って彼の隣に座り、冷たいパーカーの背中を優しく撫で続ける。
彼の涙が枯れるまで。彼がもう一度、自分の足で立ち上がるまで。
(これで、二人)
暗い地下道で、私は透の震える背中を抱きしめながら、最後の一人のことを考える。
一番分厚い鎧を着て、一番深く傷ついている、あの孤高のリーダーのことを。
神城ルイ。
あなただけは、私が真っ向から叩き壊して、その奥にある本音を引きずり出してやる。
静かな決意が、私の胸の奥で熱い炎となって燃え上がり始めていた。




