【Part 3】隠されたカルテと、夜の迷子
テーブルの上に無造作に積み上げられた、分厚い紙の束。
入社初日、社長から渡されていた『タレント個別ファイル』。
「どうせただのプロフィールだろう」と流し読みして、ずっと部屋の隅に放置していたそれを、私は震える手で引き寄せる。
部屋の明かりはつけていない。
薄暗い室内に、デスクライトの青白い光だけが丸く落ちている。
乾いた紙をめくるカサリという音が、静まり返った部屋にひどく大きく響く。
(……なんで、気づかなかったんだろう)
一枚目。白瀬透のページ。
履歴書の家族構成欄には、両親の名前がない。代わりに『祖母』という文字が、機械的なフォントで印字されている。
備考欄に小さく記された、前の事務所の担当者からの引き継ぎ事項。
『両親の離婚に伴い、双方が親権を放棄。祖母の元へ引き取られるが、高校進学と同時に家出。音楽以外の一切のコミュニケーションを拒絶する傾向あり』
「……っ」
息が詰まる。
両親から、親権を放棄された。つまり、一番愛してほしかったはずの大人から「いらない」と突き放されたということだ。
透がいつも耳の奥深くにイヤホンを押し込んでいる理由。それは、音楽を愛しているからじゃない。
自分を拒絶する世界からの音を、完全にシャットアウトするための『耳栓』だったんだ。
ページをめくる手が、微かに震える。
二枚目。橘陽斗。
明るく人懐っこい彼の履歴書は、その笑顔の裏側にある事実を無慈悲に曝け出している。
『母子家庭。母親は夜間勤務のため、ネグレクト(育児放棄)状態。深夜の繁華街を徘徊しているところをスカウト。承認欲求が極めて高く、常に誰かの関心を引こうとする』
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「ひなちゃん、ひなちゃん」と、無邪気に私の周りを跳ね回っていた陽斗。
彼が空気を読まずにふざけたり、SNSの反応を異常に気にしたりするのは、そうしていないと『自分がここにいること』を誰にも認めてもらえない恐怖からだ。
一人になった瞬間の、あの迷子のような顔。あれこそが、陽斗の本当の姿。
そして。
最後の一枚。神城ルイ。
彼のファイルだけ、他の二人よりも分厚い。
経歴欄に記された文字をなぞる私の指先が、ピタリと止まる。
『七歳で子役・キッズモデルとしてデビュー。多数のCMや雑誌の表紙を飾り、トップモデルとして活躍』
『しかし、十五歳の声変わりと急激な成長期に伴い、需要が激減。当時の所属事務所(大手)から一方的に契約を打ち切られる』
『その後、数年間はオーディションに落ち続け、自暴自棄に。周囲の大人への不信感が極めて強い』
――売れなきゃ捨てられる俺たちの恐怖が、お前に分かってたまるか。
ルイのあの悲痛な叫びが、鮮明に脳内にフラッシュバックする。
彼は、知っているのだ。
大人たちが寄せてくる「期待」が、どれほど残酷に手のひらを返すものかを。
チヤホヤされ、頂点に持ち上げられ、そして「もうお前は可愛くない」「商品価値がない」と、ゴミのように切り捨てられた過去。
「……みんな、同じじゃない」
目頭から熱いものが込み上げ、視界がぐにゃりと歪む。
涙がぽたぽたと落ちて、履歴書の黒い文字を滲ませる。
透も、陽斗も、ルイも。
全員が、一番信じたかった大人から『見捨てられた』経験を持っている。
だから、誰も信じない。期待しない。
期待して裏切られるくらいなら、最初から自分たちで関係を壊してしまった方がマシだと思っている。
あのハリネズミのような威圧感も、氷のような冷たい態度も、すべてはもう二度と傷つかないための『防御本能』。
(私と、同じだ)
理不尽な大人たちの事情で、大好きな保育園を奪われ、居場所を失った私。
二度と傷つかないために、「仕事だから情なんて持たない」と自分に言い聞かせていた私。
彼らと私は、鏡合わせのようにそっくりだ。
「……部外者なんかじゃない」
私はデスクをバンッ!と叩き、勢いよく立ち上がる。
椅子が後ろに倒れてガチャンと音を立てるが、気にも留めない。
涙を手の甲で乱暴に拭い、私は部屋の隅に放り出していたバッグを掴み取る。
(迎えに行かなきゃ。あの子たちを、暗闇の中に一人にしておけない!)
夜の十時。
冷たい夜風が、コートを着ていない私の肌を容赦なく叩く。
私はスマートフォンの画面を握りしめ、息を切らして都内の繁華街を走り回っている。
「……はぁっ、はぁっ……どこにいるの、陽斗くん……!」
繁華街のネオンサインが、チカチカと網膜を刺す。
ルイと透がどこに行ったのかは見当もつかない。でも、陽斗だけは心当たりがあった。
彼のファイルにあった『深夜の繁華街の徘徊』という言葉。それに、彼は昨日のライブの失敗を誰よりも重く受け止めている。
一人で遠くに行けるような器用さは、彼にはない。
大通りから一本外れた、街灯の少ない裏路地。
落書きだらけのシャッターが並ぶその奥に、小さな児童公園がある。
私は祈るような気持ちで、その公園の入り口に飛び込んだ。
ギー……ギー……。
錆びたブランコが揺れる、不気味な音が聞こえる。
暗闇の中、街灯のわずかな光の下。
ブランコに座り、膝を抱え込んでいる金色の髪の影が見えた。
「……っ、陽斗くん!」
私は弾かれたように駆け寄る。
名前を呼ばれた陽斗が、ビクッと肩を跳ねさせて顔を上げる。
「ひな、ちゃん……?」
その顔を見て、私は思わず息を呑んだ。
薄汚れた黒いパーカー。金色の髪はボサボサで、顔は涙と埃でぐちゃぐちゃになっている。
何より、その目は完全に生気を失い、まるで捨てられた子犬のように虚ろだった。
「なんで……俺のことなんか……」
陽斗が、ガチガチと歯を鳴らしながら掠れた声で呟く。
「なんでって、探しに行くに決まってるでしょ! こんな夜中に一人で……バカっ!」
私は彼に駆け寄り、そのまま勢いよく、冷え切った彼の身体を両腕で力強く抱きしめた。
「え……っ」
陽斗の身体が、一瞬硬直する。
むわっとした冷気と、微かな土の匂い。彼の体温は恐ろしいほど低く、ブルブルと小刻みに震え続けているのが伝わってくる。
「……ひなちゃん、俺」
「喋らなくていい」
「でも、俺が全部ぶち壊して……ルイくんも、透も、もう俺のことなんか……」
「いいから、黙って!」
私は彼を抱きしめる腕の力を、さらに強くする。
自分の体温を、彼の冷え切った心臓に直接流し込むように。
「私がいらないって言うまで、勝手にいなくならないで」
「……っ」
「誰もあなたを見捨てない。私が、絶対に見捨てないから」
その言葉が落ちた瞬間。
陽斗の中で張り詰めていた最後の糸が、ぷつりと切れる音がした。
「あ……あぁっ……うわぁぁぁぁんッ!!」
陽斗の両腕が、私の背中にすがりつくように回される。
子どものような、大きな、大きな泣き声。
彼は私の肩に顔を埋め、今まで我慢していたすべての感情を吐き出すように、声を上げて泣きじゃくった。
夜の冷たい公園。
私は彼の背中を、一定のリズムでトントンと優しく叩き続ける。
大丈夫。もう誰も、あなたを一人にしない。
(あと、二人)
陽斗の熱い涙を肩に感じながら、私は暗闇の向こう側を真っ直ぐに睨みつける。
必ず見つけ出す。
彼らが何重に鎧を着込んでいようと、どれだけ冷たい言葉で拒絶しようと。
私が全員、力ずくでも引っ張り戻してやる。
私たちの本当の『反撃』が、この夜の闇の中から始まろうとしていた。




