【Part 2】絶対零度の部屋と、偽物の居場所
自室である1401号室の重いドアを閉めた瞬間、私は玄関の冷たい三和土にへたり込む。
ストッキング越しのコンクリートの冷気が、じんじんと体温を奪っていく。
『たまたま事務所に雇われただけの、ただの部外者だろ』
氷のように冷たく、けれど決定的な真実を突いたルイの声が、耳の奥で何度も何度もリフレインしている。
肩を抱きしめる。薄暗い玄関の中で、自分の呼吸音だけがひどく耳障りに響く。
「……部外者、か」
乾いた笑いが漏れる。
痛いほど図星だった。私は彼らの痛みを分かった気になって、「一緒に頑張ろう」なんて無責任な言葉を投げかけていた。
でも、彼らが背負っている『売れなければ捨てられる』という恐怖の当事者は、あくまで彼ら自身だ。私は安全な場所から、ただ「可哀想な子どもたち」の世話を焼いて、自己満足に浸っていただけなのかもしれない。
(私はただ……自分の空っぽな穴を、埋めたかっただけなんだ)
ひだまり保育園が閉園になり、居場所を失った私。
誰かに必要とされたくて、誰かの世話を焼きたくて。彼ら三人の危うさに乗じて、無理やり『保育士と子ども』の構図を当てはめていただけ。
彼らにとって、それはどれほど鬱陶しく、薄っぺらく見えただろう。
翌朝。午前八時。
私は鉛のように重い身体を引きずって、隣の1402号室の前に立つ。
マスターキーを差し込む手が、微かに震えている。
カチャリ、と鍵を開け、中に入る。
「おはよう……」
絞り出すような声で挨拶をするが、返事はない。
むわっとした男部屋特有の匂いはそのままなのに、空気はまるで誰も住んでいない廃墟のように冷え切っている。
リビングは昨日の朝と同じように散らかっているが、今日はそこに『生活の熱』が一切感じられない。
その時、奥の廊下からキャスターの転がる音が聞こえてきた。
「……透くん?」
シルバーのキャリーケースを引きずりながら現れた透は、私を見るとあからさまに顔をしかめ、舌打ちをした。
グレーのパーカーのフードを深く被り、すでに両耳にはイヤホンが刺さっている。
「ちょっと待って、その荷物……」
「見れば分かるだろ。出てくんだよ」
透は私の制止を振り切るように、ズカズカと玄関に向かって歩いてくる。
「ダメだよ! 社長はまだ三週間の猶予をくれたじゃない! 次のショーケースで……」
「あんたさぁ、本当に鬱陶しい」
透が立ち止まり、冷ややかな瞳で私を見下ろす。
その目には、昨日までの皮肉めいた色はなく、ただ純粋な『拒絶』だけが浮かんでいた。
「あんたのその前向きな言葉、聞いてるだけで息が詰まる。どうせダメになるって分かってるのに、無理やり希望持たせようとすんなよ」
「透くん……っ」
「俺はもう、誰かと一緒に歌うのはごめんだ。これ以上、傷つきたくない」
彼はそれだけを言い捨てると、キャリーケースを乱暴に持ち上げ、玄関のドアを開ける。
「待って、お願いだから……!」
私が伸ばした手は空を切り、バタン!という無情な音とともに、透の背中はドアの向こうへと消えてしまった。
「……嘘、でしょ」
呆然と立ち尽くす私の耳に、今度はリビングの奥からバタバタという慌ただしい足音が飛び込んでくる。
「ごめん、ひなちゃん!」
陽斗だ。彼は黒いキャップを目深に被り、リュックサックを片手に提げたまま、私と目を合わせることなく玄関へと突進してくる。
「陽斗くんも、どこに行くの!?」
「俺……俺、どうしていいか分かんない。ここにいたら、息が詰まって死にそう」
「逃げちゃダメだよ! 話し合おう、ね?」
私が必死に彼の腕を掴もうとするが、陽斗はそれをすり抜けるようにして靴を突っ掛ける。
「無理っしょ……ルイくんのあの顔見たら、もう一緒にステージなんて立てないよ。ごめん、探さないで」
「陽斗くん!!」
私の叫びも虚しく、陽斗もまた、逃げるようにしてマンションを飛び出していってしまった。
バタン、という音が、再び重く室内に響く。
(……二人が、いなくなった)
信じられない。たった一晩で、あんなに強烈な光を放っていた三人の歯車が、ここまで粉々に砕け散ってしまうなんて。
私は震える足でリビングを通り抜け、一番奥にある大きな木製のドア――ルイの部屋の前に立つ。
ノックをする手は、氷のように冷たかった。
コン、コン。
「……ルイくん、起きてる?」
返事はない。
私はゆっくりとドアノブを回し、隙間から部屋の中を覗き込む。
遮光カーテンが半分開けられた部屋の真ん中で、ルイは私服姿のまま、ベッドの端に腰掛けていた。
スマートフォンをいじっているわけでもなく、ただ虚空をじっと見つめている。
その横顔は、彫刻のように美しいけれど、生気というものが一切感じられない。
「ルイくん。透くんと陽斗くんが、出て行っちゃった」
私は部屋に一歩足を踏み入れ、声を絞り出す。
しかし、ルイは顔を向けない。瞬きすらしていないように見える。
「お願い、二人を迎えに行こう。ルイくんがリーダーなんだから、あなたが声をかければきっと……」
「……出てけよ」
底冷えのする、低い声。
ルイは私を見ようともせず、ただ空間に向かって言葉を投げ捨てる。
「もう終わったんだよ。俺の邪魔をするなら、お前も今すぐ消えろ」
「終わってない! まだ三週間ある! あなたの本当のパフォーマンスを、あんな不完全燃焼で終わらせていいの!?」
私は一歩、彼に近づく。
「触るなッ!!」
怒声とともに、ルイが近くにあったガラスの灰皿を思い切り壁に向かって投げつけた。
ガシャアァァンッ!!
鋭い破砕音が部屋中に響き渡り、粉々になったガラスの破片が私の足元に散らばる。
「……っ」
私は悲鳴を飲み込み、その場に立ちすくむ。
「……俺は、誰のことも信じねぇ。誰とも組まねぇ。一人でやる」
ルイはゆっくりと立ち上がり、私を冷酷な瞳で射抜く。
「お前みたいな『部外者』に、俺の人生引っかき回されてたまるか」
それは、昨日と同じ言葉。
でも、今の私には、それに言い返すだけの言葉も、気力も残っていなかった。
彼らを包み込もうとしていた私の両手は、ただ宙を掻くことしかできない。
「……ごめんなさい」
私は震える声でそれだけを呟き、足元のガラスの破片を避けるようにして、後ずさる。
そして、逃げるようにして1402号室を飛び出した。
自分の部屋に戻り、ベッドの縁にへたり込む。
エアコンの風が、かいたばかりの冷や汗を撫でていき、全身がブルブルと震える。
(……終わった。全部、壊しちゃった)
私が無理に彼らをまとめようとしたからだ。
彼らの痛みを理解した気になって、土足で心の中に踏み込んだからだ。
私は、マネージャー失格だ。いや、それ以前に、人と深く関わる資格なんてないのかもしれない。
フラフラと立ち上がり、クローゼットの奥から小さな段ボール箱を引っ張り出す。
その中に入っているのは、保育園を辞める時に持ち帰ってきた私物だ。
一番上にある、色褪せたウサギのアップリケがついたエプロン。
そして、その下から出てきた一枚の写真。
『ひだまり保育園 卒園記念』と書かれたその写真には、満面の笑みを浮かべるダイキくんたちと、その後ろで優しく微笑む私の姿が写っている。
写真の表面を、指先でそっと撫でる。
ツルツルとした無機質な感触。
あの温かい体温も、甘い匂いも、もうここにはない。
「……また、逃げるの?」
誰もいない部屋に、ぽつりと声が落ちる。
保育園が閉園になった時、私は子どもたちから目を背け、新しい場所へ逃げ込んだ。
そして今、傷つくのが怖くて、またこの場所から逃げ出そうとしている。
部屋の隅に置かれた、まだ荷解きも終わっていない私のキャリーケースが、ひどく無様に私を笑っているように見えた。
『俺たちはな、どうせ売れなきゃすぐに切られる、寄せ集めのゴミなんだよ』
『俺はもう、誰かと一緒に歌うのはごめんだ。これ以上、傷つきたくない』
『俺、どうしていいか分かんない』
彼らの不器用な叫びが、脳裏にフラッシュバックする。
鎧の奥底で震えていた、本物の彼らの姿。
(見捨てられた子どもは、大人を信じられなくなる)
かつて、児童心理学の授業で習った一節が、ふと頭をよぎる。
彼らは、見捨てられる前に、自分から関係を壊そうとしているのだ。
期待して、信じて、裏切られる痛みに耐えられないから。
ポタッ。
写真の上のダイキくんの笑顔に、水滴が落ちる。
私は、泣いていた。
自分が部外者扱いされた悲しさからじゃない。
彼らの孤独の深さを、本当の意味で理解してしまったからだ。
「……バカみたい。仕事だから情なんて持たないって、決めてたのに」
私は手の甲で乱暴に涙を拭い、段ボール箱を閉じる。
そして、ベッドの上に放り出していたスマートフォンを手に取った。
『仕事』としてではなく、『私』として。
彼らの痛みの奥底に、もう一歩だけ踏み込む覚悟を決めるために。




