【Part 1】最後通告と、冷たい「部外者」
あの日から一夜明けた、午前十時。
都内の一等地にある、スターリー・プロモーションの最上階。
全面ガラス張りの社長室は、冷房が肌を刺すほど強く効いていて、まるで巨大な冷凍庫の中に閉じ込められているような錯覚に陥る。
「……酷いものだったね。控えめに言って、最悪のステージだ」
マホガニーのデスク越しに、社長が氷のように冷たい声を落とす。
分厚い遮光ブラインドの隙間から差し込む白い光が、デスクの上に投げ出されたタブレット端末を無機質に照らしている。
画面に表示されているのは、昨夜のライブ直後からSNSで拡散されている、彼らへの辛辣なコメントの数々だ。
『ダンスも歌もバラバラ。学芸会以下』
『ルイくんは顔だけ。周りのメンバーが足引っ張りすぎ』
『放送事故レベル。チケット代返してほしい』
文字という形を持った暴力が、私の網膜を容赦なく焼き尽くしていく。
胃の奥が雑巾のように硬く絞り上げられ、冷や汗が背中を伝う。
私の斜め前に一列に並んで立っている三人――ルイ、透、陽斗の背中は、石像のように固まったままピクリとも動かない。
「チケットは確かに完売した。君たちの顔と、事前のプロモーションの成果だ。だが、あんな泥水を見せられた客は、二度と君たちのチケットを買わない」
社長は本革の椅子に深く背中を預け、手元のコーヒーカップをソーサーにカチャリと置く。その小さな金属音が、静まり返った部屋に爆音のように響き渡る。
「……申し訳、ありませんでした」
私が深く頭を下げると、社長の鋭い三白眼が私を射抜く。
「君に謝罪は求めていない。私が求めているのは、彼らが『商品』として使い物になるかどうか、その一点だけだ」
社長はふぅ、と短く息を吐き出し、立ち上がる。
窓際に歩み寄り、眼下に広がる東京のコンクリの海を見下ろしながら、死刑宣告のように冷徹な言葉を口にした。
「三週間後。音楽業界の関係者が集まる、合同のショーケースライブがある。そこで、うちの看板として恥ずかしくないパフォーマンスを見せろ」
社長が振り返り、三人の背中を冷たく見据える。
「それが、君たちに与える『ラストチャンス』だ。そこで結果を出せなければ……君たちのプロジェクトは、即刻解散とする。以上だ」
解散。
昨日から覚悟していたはずのその二文字が、実際の音声となって鼓膜を打った瞬間、私の膝からスッと力が抜けそうになる。
「……失礼します」
ルイが、低く押し殺した声で短く言い捨て、踵を返す。
陽斗と透もそれに続き、重苦しい足取りで社長室を後にする。
私は慌てて一礼し、分厚い扉の向こうへと消えていく彼らの背中を追う。
チン、という電子音とともに、関係者専用エレベーターの銀色の扉が開く。
私たちが乗り込んだ狭い箱の中は、息が詰まるほどの沈黙に支配されていた。
ワイヤーが擦れる微かな振動音だけが、耳障りに響き続ける。
誰も、口を開かない。
それぞれの視線は宙を彷徨い、決して交わろうとはしない。
(……どうしよう。何を、言えばいい)
マネージャーとして、彼らを鼓舞しなければならない。
次がある。まだ三週間ある。諦めるな、と。
でも、私の喉はカラカラに乾ききっていて、気の利いた励ましの言葉一つすら浮かんでこない。
『地下二階です』
無機質なアナウンスとともに、エレベーターが第一レッスン室のあるフロアに到着する。
扉が開き、重たい空気ごと吐き出されるようにして、私たちは薄暗い廊下へと足を踏み出す。
その時だった。
「……俺、もう抜けるわ」
ポツリと。
冷たいコンクリートの壁に反射して、透の声が響いた。
前を歩いていたルイと陽斗の足が、ピタリと止まる。
「えっ……」
私の口から、間抜けな声が漏れる。
「は? 透、今なんて……」
陽斗が振り返り、信じられないものを見るように目を丸くしている。
透は首にかけたイヤホンのコードを弄りながら、視線を伏せたまま淡々と続ける。
「だから、もう辞めるって言ってんの。どうせ三週間後に解散なら、今辞めても同じだろ。こんな泥舟、これ以上乗ってたって時間の無駄だ」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 辞めるって……本気で言ってんの!?」
陽斗が慌てて透に駆け寄り、その細い肩を掴もうとする。
しかし、透は虫を払うように冷たくその手を振り払った。
「触んな。……お前らと馴れ合って、一緒に沈む気はねぇんだよ。俺は俺のやり方で、歌える場所を探す」
「透……っ! なんでそんなこと言うんだよ! まだチャンスはあるっしょ!?」
必死にすがりつこうとする陽斗の声を、透の冷ややかな目が完全に拒絶している。
その二人のやり取りを、壁に背中を預けて見ていたルイの口元が、ゆっくりと歪む。
「……はっ。逃げんのか、負け犬が」
地を這うような、ドス黒い声。
ルイが壁から背中を離し、ゆっくりとした足取りで透へと歩み寄る。
「てめぇ、あのステージでビビって声も出せなかったくせに、一番に尻尾巻いて逃げるのかよ。ダッサ。お前みたいな臆病者、どこ行ったって通用しねぇよ」
「……っ!」
ルイの容赦ない嘲笑に、透の顔面がカッと赤く染まる。
彼が一番気にしている『ステージでのミス』を、一番触れられたくない形で抉り出されたのだ。
「あんたに言われる筋合いはない……! 周りが見えなくて全部ぶち壊したのは、あんただろ!」
透が怒りに任せて、ルイの胸倉を掴み上げる。
「やってみろよ。てめぇのその細腕で、俺を殴れるもんならな」
ルイは掴みかかられても全く動じず、見下ろすように冷酷な笑みを深める。
一触即発。
昨日リハーサル室で起きたのと同じ、いや、それ以上に危険な空気が廊下に充満する。
「やめなって!! 二人とも!!」
陽斗が泣きそうな声で叫ぶが、二人の耳には全く届いていない。
(止めなきゃ……!!)
私はバッグを床に放り出し、二人の間に飛び込む。
そして、透の腕を力一杯引き剥がし、ルイの前に両手を広げて立ちはだかった。
「そこまでにして!! ここは会社だよ! 誰かに見られたらどうするの!!」
腹の底から絞り出した怒声。
私の介入によって、透は舌打ちをして一歩後ろに下がる。
「……どけよ、水瀬」
ルイが、私を真っ直ぐに睨み下ろす。
その瞳の奥には、昨日までの苛立ちを通り越した、絶対的な『拒絶』の壁が聳え立っている。
「どかない。仲間同士で傷つけ合って、それで何が解決するの!? 逃げるとか、負け犬とか、そんな言葉で相手を殴って……虚しくないの!?」
私は呼吸を荒らげながら、必死に訴えかける。
これ以上、彼らが互いを壊し合うのを黙って見ていることなんてできない。
彼らの心はもう、ギリギリまで擦り切れているのだから。
「私たちはチームでしょ! まだ三週間ある! バラバラのまま終わるなんて、絶対に許さないんだから……ッ!」
「チーム?」
私の言葉を遮るように、ルイの口から短い嗤いがこぼれる。
彼は私の顔をじっと見つめ、そして、氷の刃のような声で、ゆっくりと言い放った。
「勘違いすんな。俺とお前は、チームでも仲間でもなんでもねぇよ」
「え……」
「たまたま事務所に雇われただけの、ただの『部外者』だろ」
ドクン、と。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
呼吸の仕方を忘れたように、肺の奥がひゅっと鳴る。
「……部外、者」
「お前に俺たちの何が分かる。売れなきゃ捨てられる俺たちの恐怖が、明日自分の居場所があるかも分からねぇ焦りが、お前みたいに安全な場所から見下ろしてるだけの部外者に、分かってたまるかよ」
ルイの言葉は、私の急所を正確に突いていた。
私は彼らと同じステージには立たない。痛みを共有しているふりをして、結局のところ、私はただの『世話係』でしかないのだ。
昨日、ステージの袖で彼らの崩壊を見ていた時。
私は何もできなかった。彼らを救い上げることも、一緒に泥を被ることもできなかった。
「俺たちのことに、これ以上首を突っ込むな。お前のその薄っぺらい同情が、一番吐き気がする」
ルイはそれだけを言い捨てると、私の肩をドンッと乱暴に突き飛ばし、そのまま足早に廊下の奥へと消えていく。
突き飛ばされた反動で、私はコンクリートの壁に背中を打ち付け、ずるずると床に座り込む。
「……あーあ。もう、終わりだ」
透が冷え切った目で私を見下ろし、踵を返す。
彼もまた、ルイとは反対の方向へと歩き去っていく。
「ひな、ちゃん……俺、俺たち……」
残された陽斗は、私の前に立ち尽くし、迷子になった子どものようにオロオロと視線を彷徨わせている。
でも、今の私には、彼に差し出す言葉も、力強く握り返してやれる熱も、何一つ残っていなかった。
「……ごめんね、陽斗くん。少し、一人にさせて」
私は力なく首を振り、床に落ちた自分のバッグを拾い上げる。
『お前には関係ない。ただの部外者だろ』
ルイの声が、呪いのように頭の中で反響し続ける。
痛い。
突き飛ばされた肩よりも、壁に打ち付けた背中よりも。
胸の奥、彼らを繋ぎ止めようと必死に伸ばしていた手が、根本から切り落とされたような、絶望的な痛みが全身を支配していく。
薄暗い地下の廊下に、私の情けない呼吸音だけが落ちていく。
私は完全に、心が折れる音を聞いた。




