【Part 4】決壊のステージと、死に絶えた楽屋
(……崩れるッ!)
祈るような私の願いは、無惨にもステージの強い照明の熱に溶かされて消えた。
陽斗のステップが、焦りから完全にリズムを見失う。
修正しようとすればするほど、彼の持ち味だったバネのような軽やかさが失われ、動きがカクカクと不自然に強張っていく。
そして、その最悪の連鎖は、ステージのど真ん中で決定的な形となって現れた。
激しいターンの直後。
陽斗の黒いスニーカーが、自分の落ちた汗で足を滑らせる。
「……っあ!」
マイクを通して、短く情けない声が会場に響く。
ドサッ!
陽斗がバランスを崩し、ステージの硬い床に尻餅をついた。
「え……?」
「陽斗くん、大丈夫!?」
最前列の観客から、悲鳴にも似た戸惑いの声が上がる。
陽斗は一瞬何が起きたのか分からないという顔をして、床に座り込んだまま完全にフリーズしてしまう。
その瞬間。
イヤホンモニターから聞こえた異音と、客席の動揺に完全にパニックを起こした透の喉が、ヒクッと引き攣った。
『――♪〜、……っ、あ……』
マイクを握る透の手が白く染まる。
しかし、彼の口から放たれるはずの伸びやかな高音は、空気を震わせる前に掠れ、そして完全に途切れてしまった。
スピーカーから流れるのは、カラオケの伴奏のような無機質なバックトラックだけ。
「……嘘でしょ。歌って、透くん……!」
私は袖から身を乗り出し、爪が手のひらに食い込むほど両手を強く握りしめる。
しかし、透は俯き、自分の世界――音の鳴らない孤独な殻の中へと、完全に引きこもってしまった。
その地獄のような光景の中央。
神城ルイだけが、一切のリズムを崩すことなく、完璧なステップを踏み続けている。
しかし、彼の纏っているオーラは、先ほどまでの観客を魅了する色気ではない。
絶対零度の、純粋な『殺意』に近い怒りだった。
ルイの鋭い視線が、床に座り込む陽斗と、歌うことを放棄した透を交互に射抜く。
その整った顔が、修羅のように恐ろしく歪む。
そして、マイクを持った手をだらりと下げた彼から、あってはならない音が漏れた。
『――チッ』
スピーカーを通して、その冷酷な舌打ちが、三百人の観客の頭上から降り注いだ。
水を打ったような静寂。
先ほどまで酸欠になりそうなほど熱狂していたライブハウスの空気が、急激に凍りつく。
観客は、ステージ上で繰り広げられる『崩壊』を目の当たりにして、ペンライトを振る手すら止めてしまっている。
「……最悪だ」
私の口から、絶望の吐息が漏れる。
残りの二曲は、まるで終わりのない拷問のようだった。
立ち上がった陽斗は完全に萎縮し、振りを間違えないようにするだけの機械的な動きになっている。
透の声は最後まで本来の輝きを取り戻すことはなく、蚊の鳴くような掠れ声でメロディをなぞるだけ。
そしてルイは、彼らを完全にいないものとして扱い、自分一人だけのステージを冷酷にこなしていく。
バラバラの三つの影が、空々しい照明の中で交わることなく蠢いている。
曲が終わり、最後のポーズが決まっても、客席からの歓声はまばらで、どこか気を遣ったようなパラパラという拍手だけが響いていた。
「……ありがとうございました」
ルイがマイクを通さずに吐き捨て、一番にステージ袖へと捌けてくる。
「ルイくん、タオル……」
私が差し出した白いタオルを、ルイは乱暴に手で弾き飛ばした。
バサッ、と乾いた音を立ててタオルが床に落ちる。
彼は私を一瞥すらせず、重い足音を立てて楽屋へと消えていく。
続いて戻ってきた陽斗は、肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で私の横を通り過ぎた。
最後にやってきた透は、顔面を蒼白にさせ、首から下げたイヤホンを強く握りしめている。
私は床に落ちたタオルを拾い上げ、胃の奥に鉛を飲み込んだような重苦しさを抱えたまま、彼らの後を追う。
バンッ!!
地下の狭い楽屋に、パイプ椅子が壁に激突する派手な音が響き渡る。
「……ふざけんなよ」
地を這うようなルイの声。
冷房が効いているはずの楽屋は、三人の汗の匂いと、息が詰まるような殺伐とした空気で満ちていた。
「俺のステージを、よくもあんな泥水みたいにぶち壊してくれたな」
ルイが、部屋の隅で膝を抱えて縮こまっている陽斗の前に立ち塞がる。
見下ろす瞳は、氷のように冷たく、残酷だ。
「ごめ……っ、俺、滑っちゃって……頭真っ白になって……」
「言い訳すんな。てめぇが勝手に走って、勝手に自滅したんだろ。目立ちたがりの素人が」
ルイの容赦ない言葉の刃が、陽斗を滅多刺しにする。
陽斗は両手で顔を覆い、しゃくり上げるようにして息を呑んだ。
「……ルイくんこそ、何様なの」
不意に。
壁際で俯いていた透が、顔を上げずに低く呟いた。
「あ?」
ルイが鋭く振り返る。
「俺のステージ? 笑わせんな。あんたが周りに合わせようとしないで、自分だけ目立とうとするから全体のバランスが狂ったんだろ」
透の言葉には、感情の起伏はない。
しかし、その冷え切った事実の指摘が、ルイの怒りの導火線に完全に火をつけた。
「てめぇ……途中で声も出せなくなった欠陥品の分際で、俺に説教かよ」
ルイが猛然と透に歩み寄り、その胸ぐらを乱暴に掴み上げる。
「ッ! 二人とも、やめて!!」
私は咄嗟に駆け寄り、ルイの腕を両手で掴む。
「終わったこと責めても仕方ないでしょ! 今は冷静になって……」
「お前は黙ってろッ!!」
怒声とともに、ルイの腕が激しく振り払われる。
その力に逆らえず、私は数歩後ずさり、壁に背中を強く打ち付けた。
「っ……」
痛みに顔をしかめる私を、ルイは冷徹な目で見下ろす。
「これがお前の言う『最強』かよ。お花畑の脳みそで、適当な夢見んな。こいつらはただのゴミだ」
ルイは透の胸ぐらを突き飛ばすようにして離し、吐き捨てるように言った。
「……どうせこれで終わりだ。解散だろうが何だろうが、好きにしろ」
バンッ!!
ルイは自分のバッグを乱暴に掴み取ると、扉を蹴り開けて楽屋を出て行ってしまう。
残された部屋には、陽斗の押し殺したような泣き声と、荒い息を吐く透、そして、壁際で立ち尽くす私だけが取り残された。
(……終わった)
私は、ジンジンと痛む背中を壁に預けながら、ゆっくりと床に座り込む。
才能と崩壊の境界線。
私たちは、最悪の形でその境界線を踏み越え、真っ逆さまに地獄へと落ちてしまったのだ。
「……っ、うぅ……」
陽斗の泣き声が、狭い楽屋に虚しく響く。
透は何も言わず、ただ虚空を見つめている。
彼らを繋ぎ止める術を、私は何一つ持っていなかった。
「……私じゃ、ダメだったんだ」
膝の上で握りしめた拳に、ポツリと熱いものが落ちる。
保育士としての経験も、絶対に見捨てないという決意も。
あの絶対的な『孤独の壁』の前では、無力な羽虫のように弾き飛ばされてしまった。
暗く沈んだ楽屋の中で、私は初めて、彼らのマネージャーを辞めることを、本気で考え始めていた。




