【Part 2】奇跡の数秒間と、ガラスの城
「……っ」
フローリングの硬い感触が、腰から背中にかけて鈍い痛みを走らせる。
倒れ込んだ私の視線の先には、怒りで肩を上下させるルイの黒いスニーカーがある。
リハーサル室は、シンと静まり返っていた。
スピーカーから流れ続けているダンスミュージックの重低音だけが、空気の読めない心臓の鼓動のように、無機質に部屋を震わせている。
「……ひなちゃん、大丈夫!?」
真っ先に駆け寄ってきたのは、陽斗だった。
彼は床に膝をつき、私の肩を支えようと両手を伸ばしてくる。その手は少し震えていて、金色の前髪の奥から覗く瞳には、明確な怯えが浮かんでいた。
「触んな、陽斗」
ルイの低く冷たい声が、陽斗の動きをピタリと止める。
「自業自得だ。俺たちの領域に、土足で踏み込んでくるからこうなる」
ルイは私を見下ろしたまま、冷酷に言い捨てる。
その横で、透は壁に背中を預けたまま、まるで路傍の石でも見るような無関心な瞳でこちらを一瞥し、すぐに視線を外した。
(……痛い。腰も痛いけど、それ以上に)
彼らの間にある、絶対的な断絶。
誰も誰のことも信じていない。手を取ろうとしない。
その事実が、突き飛ばされた物理的な痛みよりもはるかに深く、私の心を抉る。
「……大丈夫。一人で立てるから」
私は陽斗の手を優しく押し退け、フローリングに手をついてゆっくりと立ち上がる。
じんじんと痛む腰を庇いながら、真っ直ぐにルイの目を見つめ返した。
「口出しするなって言われても、私は引かないよ。あなたたちがステージで大恥かくのを、黙って見てるなんてできない」
「……はっ、頑丈な女」
ルイは鼻で笑い、苛立たしげに前髪を掻き上げる。
その時だった。
『――♪〜』
突然、空気を切り裂くように、透の口から鋭く、そして信じられないほどクリアな高音が放たれた。
スピーカーから流れている曲の、一番盛り上がるサビのメロディ。
マイクを通していない生の声なのに、リハーサル室の隅から隅まで、ビリビリと空気を震わせて響き渡る。
「……っ」
息を呑む。
先日のリハーサル室で聞いたハミングとは、次元が違う。
退屈そうに投げやりな態度をとっていた彼の中に、これほどの熱量と、圧倒的な『音の暴力』が潜んでいたなんて。
ピッチは狂いなく正確で、それでいて感情を揺さぶるような切ない倍音が混じっている。
誰もが、その声に耳を奪われずにはいられない。
「……透」
ルイの目が、驚きに微かに見開かれる。
透は目を閉じ、首の筋を立てて歌い続けている。
彼の声は、まるで「俺はここにいる」と世界に向かって叫んでいるように聞こえた。言葉では誰とも繋がろうとしない彼が、音楽の中だけで、自分の存在証明を叩きつけている。
その声に呼応するように、動いた影があった。
キュッ!!
鋭いスキール音が、フローリングに響く。
陽斗だ。
彼は先ほどまでの怯えた表情を完全に拭い去り、透の歌声に合わせてステップを踏み始めていた。
重力を感じさせない、羽のように軽やかな身のこなし。それでいて、一つ一つの動きにはバネのような力強さが宿っている。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
普段のヘラヘラした態度はどこへやら、今の陽斗の瞳は、獲物を狙う肉食獣のように鋭く研ぎ澄まされている。彼のダンスは、単なる振り付けの枠を超え、音楽そのものを体現しているかのように自由で、爆発的なエネルギーに満ちていた。
透の圧倒的な歌唱力。
陽斗の生命力に溢れたダンス。
二つの才能が、この閉鎖空間で激しく火花を散らしながら交差する。
そして。
その中心に、彼が立った。
神城ルイ。
彼は静かに息を吐き出すと、二人を統率するかのように、鏡のど真ん中――センターポジションへと滑り込む。
その瞬間、空気が変わった。
彼が動くだけで、周囲の空間すべてが彼の支配下に置かれるような、絶対的な引力。
指先の角度、視線の配り方、顎の上げ方。
そのすべてが、計算し尽くされたように美しく、それでいて暴力的なほどの色気を放っている。
彼がセンターに立つことで、透の歌声も、陽斗のダンスも、彼を引き立てるための最強の『武器』へと昇華されていく。
(……揃った)
私の全身に、ブワッと鳥肌が立つ。
むわっとした汗と香水の匂い。床が軋む音。空気を震わせる歌声。
バラバラだった三つの強烈な個性が、今、奇跡のように一つの巨大なエネルギーの塊となって、私に襲いかかってくる。
(これだ。これこそが、この三人の本当の姿……ッ!)
「揃えば、最強じゃない……!」
私の口から、歓喜の声が漏れる。
このままいけば、ライブは絶対に成功する。観客は彼らから目を離せなくなり、熱狂の渦に巻き込まれるはずだ。
私は夢中で、彼らの完璧なパフォーマンスを目に焼き付けようとする。
しかし――。
その『奇跡』は、わずか十数秒で無惨に崩れ去った。
ドンッ!
「……痛っ!」
陽斗の大きな動きが、センターにいたルイの肩に激しくぶつかった。
バランスを崩したルイが舌打ちをし、ステップが止まる。
それに釣られるように、透の歌声がプツンと途切れ、リハーサル室には無機質なBGMだけが虚しく響き続ける状態に戻ってしまった。
「てめぇ、どこ見て踊ってんだよ! 邪魔だ!」
ルイが肩を抑えながら、陽斗に向かって怒鳴りつける。
「ごめん! でもルイくんが急に動くからじゃん!」
「俺のタイミングが正解だっつってんだろ!」
「はぁ? なんでいつも自分が正しいと思ってんの?」
「なんだと……!」
再び、一触即発の空気が部屋を満たす。
さっきまでの魔法のような時間は完全に消え失せ、残ったのは、お互いの才能を潰し合うような醜い口論だけ。
(……ダメだ。やっぱり、ダメだ)
私は愕然として、言い争う彼らを見つめる。
個々の才能は、恐ろしいほどに研ぎ澄まされている。
でも、彼らには『他者を受け入れる』という、最も基本的な土台が決定的に欠落しているのだ。
自分の音だけを信じる透。
自分の感覚だけで動く陽斗。
そして、自分以外を徹底的に見下し、支配しようとするルイ。
彼らはまるで、それぞれが鋭すぎる刃を持ったガラスの破片だ。
近づけば近づくほど、お互いを傷つけ合い、血を流し、最後には砕け散ってしまう。
「……もういい。今日はこれで終わりだ」
ルイが苛立たしげに壁を蹴り上げ、自分の荷物をひったくるようにしてドアへと向かう。
「おい、待てよ! まだ時間……」
透の静止の声も無視して、ルイは防音扉を乱暴に開け放ち、廊下へと消えていった。
「……あーあ。最悪」
陽斗が床に大の字に寝転がり、天井を見上げて深くため息をつく。
透は何も言わず、再びイヤホンを耳に押し込み、一番暗い部屋の隅へと歩いていく。
私は、ポツンと取り残された部屋の中央で、自分の両手をぎゅっと握りしめる。
手のひらには、彼らの『奇跡の数秒間』を見せられた時の興奮が、微かに汗となって残っていた。
(あの光を、もう一度見たい。……絶対に、見たい)
崩壊の危機に直面しながらも、私の心の中には、抗いようのない熱い感情が渦巻いていた。
このバラバラのガラスの破片を繋ぎ合わせることができたら、一体どんなに美しい景色が見られるのだろう。
迫り来る単独ライブまで、あと一ヶ月。
才能と崩壊の境界線で綱渡りをするような、私たちの本当の『地獄』が、ここから始まろうとしていた。




