第40話 誰にも知られず死ぬ
床が近い。
ヴァルターは膝をついた時、どこかでそれを他人事のように確認していた。
倒れた、のではない。
崩れた、に近い。
壁に手をついて保ったが、膝は床に着いた。
* * *
身体が重い。
手足に力が入らない。
だが意識はある。
自室だ。
扉を開けた直後に、血を吐き、立っていられなくなった。
従者のオットーが部屋の前にいたはずだが、声をかけなかった。
声が出ない、というより——声を出したくなかった。
助けを呼べば、毒だと分かる。
毒だと分かれば、どこで飲んだかが問われる。
今夜の夜会が問題になる。
それが今の自分に何をもたらすか——
考えられる。
それだけ、まだ意識は動いている。
* * *
床に手をついたまま、ヴァルターは振り返りを始めた。
この周回で、自分はどれほど動けたか。
告発文の存在を知った。
偽造書簡が「完成途中」であると知った。
皇族の判断力鈍化に関する記録が消されていると知った。
「香を絶て」という言葉を見つけた。
レナの兄の死が本筋に繋がっていると確認した。
廃業商会と香料の流れが一本線になりつつあった。
それだけの情報を得た。
しかし。
* * *
毒殺されている。
夜会で、わずかな量を飲んだだけで。
どれだけ慎重に動いても、どれだけ善人のふりをしても、どれだけ距離を置いても——
消される側に自分はいる。
それは変わらなかった。
「振る舞いを変えれば助かる」は、嘘だった。
* * *
視界が揺れる。
天井が遠い。
ヴァルターは床に横たわりながら、静かに考えを整理した。
今回の失敗の本質は何か。
善意が裏目に出た、ではない。
行動が読まれた、ではない。
根本的な問題は——自分が最初から「消される予定の駒」として扱われていることだ。
断罪は結果ではない。
目的でもない。
誰かがこの帝国で大きな何かを動かそうとしており、その過程でヴァルターが邪魔か、あるいは都合よく使える「スケープゴート」として設計されている。
だから、行動を変えるだけでは逃げられない。
設計そのものを壊さなければ。
* * *
次が来たら——
ヴァルターは思った。
次のループが来たら、もう「助かることを目的」にしない。
帝国に何が起きているのか。
誰が設計しているのか。
香と皇族の異常はどう繋がっているのか。
それを解明することを優先する。
自分一人が生き延びることより、崩壊の根本を止めることを目的にする。
* * *
体が冷えてきた。
床が冷たい。
灯りが遠い。
意識の端に、一つの光景が浮かんだ。
断罪の場。
アンネリーゼの蒼い目。
刃が落ちる直前に、その目が揺れた。
悲しんでいた。
あの一瞬だけが、真実に見えた。
彼女は、このループで最後まで信じなかった。
だが、揺れていた。
次のループでは——
何かが、変えられるかもしれない。
* * *
視界が暗くなる。
意識が薄れる。
ヴァルターは最後に、静かに確認した。
(また、やり直しだ)
感情なしに、ただそれだけを思った。
床に横たわったまま、彼の意識は消えた。
* * *
次に目を開けた時。
天井は白かった。
見慣れた天井。
見慣れた自室。
窓の外から、春の朝の光が差し込んでいる。
ヴァルターは喉に手を当てた。
温かい。
生きている人間の温度だ。
机の上の暦を確認する。
帝国暦四百八十二年、春の第二月、十六日。
またあの朝に戻っていた。
星見の夜会の翌朝に。
ヴァルターは静かに起き上がった。
今度は、もっと深く踏み込む。
最初から、そう決めて。




