第39話 乾杯のあとで
夜会が終わったのは、夜半頃だった。
馬車に乗って宮廷へ戻る途中、ヴァルターはまだ腹部の違和感を感じていた。
「ほんのわずかに口をつけた」だけのはずだった。
一口にも満たない量だ。
しかし——
* * *
会が始まってから、ヴァルターは食事に徹底的に注意した。
立食形式の料理は、共通の皿から取られた、複数の人間が手をつけているものだけを選んだ。
飲み物は、一度だけ杯を持ったが口をつけなかった。
問題は乾杯だった。
エルンド伯爵がテーブルの正面に立ち、場の締めを宣言した。
「皆様のご健康と帝国の繁栄に——」
全員が杯を掲げた。
ヴァルターも掲げた。
「乾杯」の声と共に、全員が飲んだ。
ヴァルターも、口の端に杯を当て——ほんのわずかに傾けた。
* * *
会話の流れを読んで、乾杯の中身を事前に確認できればよかった。
だが、杯は席についた時点で既に注がれており、個別に確認する機会がなかった。
他の参加者が同じ杯から飲んでいるなら、毒の可能性は低い——そう判断した。
だが「全員が同じもので乾杯した」という保証は、実際にはない。
杯の中身が一人ずつ違う可能性。
あるいは極めて微量の毒を使っている可能性。
ほんのわずかなら、平均的な人間には影響が出ない量でも——体質によっては出る場合がある。
* * *
馬車の中で、違和感が少しずつ形を持ち始めた。
腹部の底に、鈍い熱がある。
吐き気ではない。
だが、胃の奥に何かが溜まっているような感覚。
ヴァルターは深呼吸した。
気のせいかもしれない。
今夜の緊張と消耗のせいかもしれない。
普段より食事を控えていたから、わずかな飲み物でも身体が敏感に反応しているだけかもしれない。
* * *
だが宮廷に近づいた頃に、頭が揺れ始めた。
揺れているのは馬車だが、視界が馬車の動きと合わない。
正確には——視界だけが、一拍遅れているような感覚。
「……」
ヴァルターは窓の外を見た。
夜の帝都が流れている。
灯りが点っている。
普通の光景だ。
だが、その光が少し滲んで見えた。
* * *
馬車が止まった。
「宮廷に着きました」という従者の声が、遠くに聞こえた。
ヴァルターは立ち上がろうとした。
足が、一瞬だけ言うことを聞かなかった。
壁に手をついて、立ち上がった。
* * *
毒だ。
感情ではなく、判断として、そう確認した。
量はわずかだった。
だから即効性ではない。
だが今、確実に体内で何かが動いている。
解毒の手段が必要だ。
今の宮廷で、誰かに助けを求めることができるか。
できない。
誰を信頼すればいいか分からない。
そして、毒を飲まされたと言えば、「どこで飲まされたか」という話になり、夜会の場が問題になる。
それは——エルンド伯爵家への疑念を生む。
それが正しい疑念かどうかも、今の段階では判断できない。
* * *
ヴァルターは歩き始めた。
廊下を歩く。
従者が付いてきているが、何も言わなかった。
自室まで、あと少しだ。
足下が確かならば、まだ歩ける。
血を吐いたのは、自室の扉を開けた後のことだった。
袖に口を当て、こらえようとしたが——間に合わなかった。
少量の血が、袖に滲んだ。
ヴァルターはそれを見た。
(これは——毒だ)
疑いが確信に変わった瞬間、視界が大きく傾いだ。




