第31話 婚約者として失格
アンネリーゼとの一件から二日が経った。
ヴァルターは引き下がった。
言い訳もしなかった。怒りもしなかった。反論もしなかった。
それが、問題だった。
* * *
アンネリーゼはその日の夕方、一人で考えていた。
窓辺に腰掛け、庭園の夕暮れを見ながら——実際には、ヴァルターのことを整理しようとしていた。
あの時のヴァルターの反応が、引っかかっている。
「承知しました」の一言で頭を下げた。
以前のヴァルターなら、絶対にそうしなかった。
自分が正しいと信じることを押し通すのが、あの男の習性だ。
孤児院の件も、侍女の配置換えも、どれも彼は自分の判断が正しいと信じてやっていた。
だから、反論されても動じなかった。
だが今回は——言い返さなかった。
それは「従った」のではなく、「引いた」のだ。
その違いが気になる。
* * *
「平民を使って私の周りを探っている」と言った。
それに対して、ヴァルターは弁明しなかった。
もし本当に探っているなら、弁明は難しい。
だが——弁明する必要がない状況もある。
何かを守るために、あえて言い返さない時。
それはどういう時か。
アンネリーゼは窓の外を見たまま、その問いを頭の中で転がした。
* * *
もし、あの男が探っているのが自分の「弱み」ではなく——
別の何かだとしたら。
そしてそれを説明すれば、アンネリーゼが危険にさらされるとでも思っているなら——
あえて言い返さない、という選択はあり得る。
アンネリーゼは、自分でその考えに至った瞬間に、少し息が止まった。
馬鹿馬鹿しい、と思った。
あの男が、誰かを守るために動くとは考えにくい。
そんな人間ではない。
だが——
「今日は随分と静かですのね」
「承知しました」
あの言葉の使い方が、以前と違う。
* * *
「……考えすぎかしら」
声に出して、アンネリーゼは首を振った。
窓の外で、夕暮れが終わりかけている。
ヴァルターを信じる理由はない。
だが、単純な「悪意で動く男」という像も、少しずつずれてきている気がした。
それが彼の計算なら——さらに警戒が必要だ。
それが計算でないなら——何かが根本から変わっていることになる。
どちらにせよ、目を離すべきではない。
* * *
同じ夕刻、ヴァルターは自室の机に向かっていた。
アンネリーゼとの一件を書き留めようとして、止まった。
記録に何を書く。
「失敗した」とだけ書いても意味がない。
代わりに、一行だけ書いた。
「信頼なしに行動すると、すべてが疑念の材料になる」
正しい行動も、正しい理由も、この場所では意味をなさない。
信頼という土台がなければ。
その土台を、ヴァルターはどうしても作れない。
それが、今の自分の限界だった。
* * *
だが——
アンネリーゼの目は、何度か揺れている。
初めて会った茶会の時。
保管庫の件を問い詰めた時。
その揺れは、単純な嫌悪ではない。
ヴァルターにはそれが分かる。
何かを、測っている目だ。
だからといって、今すぐ何かできるわけでもない。
ただ、完全に信頼を失ってはいないかもしれない、という可能性だけを、今夜の記録に書き加えた。
「殿下は、まだ見ている」
それだけが、今の段階で言えることだった。




