第24話 静かな観察
レナはできるだけ目立たないように廊下を歩いた。
今日も、ヴァルターの動向を確認する任務がある。
任務、というほどのものではない。
殿下に「さりげなく見ておいて」と言われただけだ。
だが今のレナにとっては、それが仕事の中で最も緊張する部分だった。
* * *
レナがヴァルターを観察し始めて、五日が経つ。
分かったことが、いくつかある。
まず、最近のヴァルターは確かに静かだ。
以前のヴァルターは、廊下を歩くだけで空気が変わった。
使用人が道を開け、文官が目を伏せ、侍女たちが息を止めた。
今も、周囲は同じように反応する。
だがヴァルター本人が、それに無関心になっている。
道を塞いでいる者がいても、わずかに歩みを緩めて通り過ぎるだけだ。
以前なら一言二言、冷たく言い放つはずの場面で、沈黙したまま消える。
* * *
不気味だった。
怒鳴られないのに、怖い。
圧力をかけられないのに、緊張する。
レナは自分でも、その感覚の理由がよく分からなかった。
あるいは——何もしないことが、「何かをする前の静けさ」に見えるからかもしれない。
* * *
ある日の午後、レナは東廊下でヴァルターと行き合った。
いつものように壁側へ寄り、頭を下げた。
足音が近づく。
通り過ぎる。
特に何もなかった。
だが顔を上げた時、ヴァルターの背中が遠ざかる瞬間——彼が一度、振り向かずに足を止めた気がした。
止まって。
そしてまた歩き始めた。
それだけだった。
なぜ止まったのか。
レナには分からなかった。
* * *
翌日、ヴァルターが使用人通路の近くを歩いているのを見た。
正殿と東棟の間の、廊臣があまり使わない経路だ。
なぜそこを歩いているのか。
レナは距離を取りながら、そっと後をつけた。
ヴァルターは特定の目的地に向かっているように見えた。
使用人通路の入り口近くで、立ち止まる。
誰かと話すわけでもなく、書類を確認するわけでもなく——ただ、聞いている。
音を。
通路の奥から聞こえる、荷の運搬音と使用人たちの会話を。
レナはその光景を見て、背筋が冷えた。
* * *
(なぜ、あの人はそんなことを)
殿下への報告をまとめながら、レナは考えた。
宮廷の内側の音を聞こうとしている。
使用人の動線を把握しようとしている。
それが、一体何のためか。
自分を追い詰めるためか。
あるいは——別の何かのためか。
レナには、答えが出なかった。
* * *
記憶が浮かんだ。
兄が、死ぬ前の頃のことだ。
あの時も、宮廷は静かだった。
何かが動いているのに、表面だけが穏やかな時期があった。
誰も大きな声を上げず、誰もおかしいと言わず、それでいて何かが少しずつ変わっていた。
そしてある日、兄は死んだ。
事故だと言われた。
レナはその言葉を信じたくなかったが、信じないための言葉を持っていなかった。
* * *
今も、宮廷は似た空気を持っている気がした。
ヴァルターの静けさが、その空気を体現しているのか、それとも別の何かが動いているのか。
レナには分からない。
ただ一つだけ確かなのは——今の宮廷に、何かがある、ということだ。
そしてその「何か」の中心に、自分の兄の名前が関係しているかもしれないという、根拠のない予感があった。
レナは報告書を書きながら、その予感をどこにも書かなかった。
書けなかった。
まだ、何も分かっていないから。




