第20話 すり替えられた証拠
宰相府の資料庫に忍び込むのは、簡単ではなかった。
正面からは入れない。
宰相府の管轄に、公爵家の権限は及ばない。
ヴァルターは三日かけて、入り込む口を探した。
宰相府に出入りする商人との繋がり。
資料庫の管理文官の行動パターン。
夜間の警備の交代時刻。
そして、資料庫の北側に、使用人通路から通じる補修用の小扉があることを突き止めた。
鍵は定期的に交換される——だが、交換後の数日間は旧型の合い鍵が保管室に残る慣習がある。
ヴァルターはその合い鍵を、強引ではなく合法的な形で一時的に手に入れた。
公爵家の別件の補修作業を口実に。
* * *
深夜。
使用人通路を抜け、北側の小扉へ向かう。
鍵が合った。
扉が、音もなく開いた。
* * *
資料庫の内側は暗かった。
ヴァルターは手の中の小灯りを最小限に絞り、棚の間を進んだ。
宰相府の資料は年代別に整理されている。
直近のものほど、奥の棚にある。
書簡の保管場所を探す。
断罪に使われる書簡は、「証拠物」として別扱いされるはずだ。
特別な封をされているか、別の棚に分けられているか。
ヴァルターは棚を一つずつ確認した。
第三棚。第四棚。第五棚——
あった。
封をされた書簡の束が、他の文書とは分けて保管されていた。
赤い紐で結ばれ、封蝋がある。
蝋の印は、司法機関の印だ。
* * *
ヴァルターは封を破らないよう、慎重に書簡を確認した。
複数の書簡が束になっている。
一通ずつ、宛名と日付を確かめる。
処刑の罪状に使われるはずのものが、既に揃っていた。
辺境への金の流れを示す帳簿の写し。
薬湯記録の「改竄版」とされる文書。
皇族への不敬を記録した調書。
そして——
最後の一通。
ヴァルターは手に取った。
クラウゼ家の私印が押されている。
筆跡は——確かにヴァルターのものに見えた。
帝位簒奪を示す書簡。
* * *
だが、何かが違う。
ヴァルターは記憶の中の書簡と、目の前のものを比べた。
処刑の時に提示されたものと——文面が、微妙に違う。
言葉の選び方が一ヶ所、変わっている。
断罪の場で読み上げられた内容と、ここにある書簡の内容が、ほんのわずかに異なる。
(まだ、調整されている)
ヴァルターの胸が冷えた。
書簡は完成していない。
誰かが今もなお、より完璧な形に向けて調整を続けている。
それは何を意味するか。
敵は——ヴァルターが動き始めたことを知っている。
だからこそ、書簡の内容を今のタイミングで修正している。
自分の行動が、既に読まれている。
* * *
ヴァルターは書簡を元の場所に戻し、束を結び直した。
持ち出すことは選ばなかった。
持ち出せば、こちらが手に入れたと分かる。
今この瞬間、敵はヴァルターが資料庫に入ったことを知らない——かもしれない。
ならば、知られていない状態を維持した方がいい。
ヴァルターは棚から離れ、小扉の方向へ向かった。
* * *
扉に手をかけた、その瞬間。
背後に、気配があった。
人の気配だ。
ヴァルターは振り向いた。
資料庫の入り口——正面の扉——の影に、人が立っていた。
灯りがない中でも、その輪郭は分かった。
長身。
動きのない姿。
そして——ゆっくりと、穏やかに笑う気配。
「それを探していたのかい、ヴァルター」
声が、暗がりの中で静かに響いた。
カインだった。
* * *
ヴァルターは動かなかった。
動揺も、驚きも、表情には出さなかった。
だが内側では——冷えた確認が走っていた。
なぜここにいる。
どうして分かった。
カインは笑ったまま、一歩だけ前に出た。
「そんな顔するなよ。別に怒ってるわけじゃない」
「……何の用ですか」
「用、か。そうだな——」
カインは少し間を置いた。
その間の長さが、いつものカインとは少し違う気がした。
「ただ確認したかっただけだよ。お前が何を探しているのかを」
「確認できましたか」
「概ね、ね」
カインは資料庫の中を見回すように目を動かしてから、また笑った。
「書簡を見たんだろう。どう思った」
ヴァルターは答えなかった。
「まだ完成してないのが分かったか」
その一言で、ヴァルターは何かが確定したと感じた。
* * *
カインは書簡が「まだ完成していない」ことを知っている。
それは——彼が書簡の作成に関与しているか、あるいは経過を把握している立場にあるか、どちらかだ。
「カイン」
「なに」
「あなたは、どちら側ですか」
カインは数秒、黙った。
それからゆっくりと、いつもより静かな笑みを浮かべた。
「それは——難しい質問だな」
答えは、なかった。
カインは扉から身を引き、道を開けるような身振りをした。
「今夜はもう行きなよ。ここにいる理由がなくなっただろう」
ヴァルターは一瞬だけカインを見て、扉の方へ歩いた。
* * *
廊下に出て、扉が閉まった。
ヴァルターは足を止めず、使用人通路を戻った。
頭の中で、今夜の出来事を整理する。
書簡は「まだ調整中」だった。
敵は今も動いている。
そしてカインは——あの場所を知っていた。
カインが断罪の計画に関与しているのか。
それとも、関与しながらも何かを迷っているのか。
「どちら側か」という問いに、彼は答えなかった。
その沈黙が、答えかもしれない。
ヴァルターは暗い通路を歩きながら、一つのことを確信した。
敵はヴァルターの行動を、ただ観察しているだけではない。
最初から、これを想定している。
自分が動けば動くほど、敵も合わせて調整する。
それが分かった今、ヴァルターには二つの選択がある。
止まるか。
あるいはもっと速く、もっと深く、踏み込むか。
答えは、決まっていた。
夜の使用人通路を歩きながら、ヴァルターは唇を薄く引いた。
第一章は、ここで折り返す。
問題の全貌は、まだ見えていない。
だが確かに、見えてきている。




