第19話 消えた名前
レナの兄の名前は、クラウゼ公爵家の記録には正確に残っていた。
だが、それ以外の場所では——やけに薄かった。
* * *
ヴァルターは、宮廷の下働き採用記録を閲覧した。
公爵家から宮廷への採用はそれほど珍しくない。
引退した使用人が余生を宮廷の仕事で過ごす例も、縁故採用も、ある。
レナの兄の採用記録は存在した。
採用日、担当業務(物資管理補助)、配属先(保管区域関連)。
ヴァルターは「配属先」の欄を見て、静止した。
「保管区域関連」。
これは皇族区画の保管室に近い区域の作業を指す場合が多い。
公爵家の印章管理室で働いていた者が、宮廷でも保管関連の業務に就いた。
偶然か、それとも意図的にそこへ配置されたのか。
* * *
次に、ヴァルターはその兄の退職記録を探した。
退職——という言葉が正しければ。
帝国暦四百七十八年。
没、という記録がある。
死因の欄を確認する。
「事故死(構内における転落)」
簡単な記述だった。
場所は「第四保管棟の階段」。
調書や詳細記録へのリンクはない。
ヴァルターは担当書記の署名を確認した。
名前はある。
だがそれ以上の情報がなく、現在その書記が在職しているかどうかも、今の段階では分からない。
* * *
「転落」という死因には、特に不自然な点はない。
保管棟の階段は狭く、薄暗い。
荷を持ちながら転落する事故は、過去にも複数報告されている。
だが——
ヴァルターは周辺人物の記録を当たった。
その日、同じ時間帯に第四保管棟にいた者の記録。
空白だった。
作業者の配置記録がある欄に、その日だけ何も書かれていない。
清掃者、運搬担当、確認員——通常は複数の者が配置される棟に、記録上は誰もいなかったことになっている。
* * *
死亡した日、証人がいない状況が作られていた。
これが意図的なものかどうか、今の段階では証明できない。
記録が最初から存在しなかったのか、後から削除されたのか。
ただ、消えている、という事実だけがある。
* * *
ヴァルターはレナのことを考えた。
彼女は兄の死を、どう思っているのか。
「事故死」として受け入れているのか。
それとも——何かを疑っているのか。
だとすれば、彼女の怯えは別の種類のものかもしれない。
「ヴァルターが怖い」だけでなく、「自分が何かに巻き込まれている」という、もっと根深い恐れがあるかもしれない。
あの書類の件——廊下で落とした、性質の違う一枚。
宮廷の侍女が持つには妙な書付。
人名らしきものが並んでいた。
あれは何だったのか。
まだ分からない。
* * *
調査の途中で、ヴァルターはもう一つの記録を見つけた。
レナの兄が没した翌月、第四保管棟の一部が「改修」名義で封鎖されている。
期間は三ヶ月。
改修の内容については、外壁補修と書かれているだけで、具体的な工事記録がない。
封鎖と改修が、転落事故の直後に行われた。
事故の証拠が改修の中で消された、という見立ては、単純すぎるかもしれない。
だが、あまりにも都合よく重なっている。
* * *
ヴァルターは記録から目を離した。
これ以上ここから読み取れることは少ない。
レナの兄の死は、偽造書簡の準備段階で何かに関与し、消された可能性が高い。
だが、それを証明するための直接的な証拠はない。
証人もいない。
記録は削られている。
残る手段は——レナ本人から話を聞くことだ。
だが今のヴァルターとレナの関係で、彼女が素直に話すとは思えない。
それより今、最優先にすべきことがある。
偽造書簡の原本の場所だ。
* * *
ヴァルターは調査を進め、一つの場所に行き着いた。
断罪に使われる証拠は、宮廷司法機関が管理する。
司法機関の書庫は正殿の南棟にあり、現時点では「断罪予定の証拠物」が保管されているはずはない——正式な手続きが始まっていないからだ。
しかし。
断罪が「計画的」なものであれば、証拠は既に作られ、保管されている可能性がある。
その保管場所が、正規の司法機関の管轄外にあるなら——宮廷内の私的な保管室か、あるいは特定の派閥の管理下にある場所か。
宰相府には、独自の資料庫がある。
ヴァルターは手帳に書き込んだ。
「宰相府の資料庫を確認する」
そしてその下に。
「偽造書簡の原本は、そこにある可能性がある」
次の行動が決まった。




