22
目の前の景色が歪み、次にはもう甘ったるい湿気が肌にまとわりついた。
ワープした先は、王城の北側に位置するスイーツ花の温室だった。
ここはルシエラにとっての宝物庫であった。
スイーツの飾り付けに使うエディブルフラワーを摘みに、毎日のように訪れていた場所だ。
ガラス張りの天井からは柔らかな月光が差し込み、シュガーリリーや、蜜ハニーローズが咲き乱れる極彩色の楽園――。
「ふぅ……。なんとか侵入成功ね」
耳を澄ます。
人の気配はなく、警備がいないことを教えてくれた。
「さて、と……これからどう動くべきか
……」
ぶつぶつと独り言を唱えながら、ルシエラの指先は無意識に、一番近くに咲いていた琥珀糖のスミレを一輪摘み取っていた。
ワープで疲弊した身体を癒やすため、そして思考を整理するために、慣れ親しんだその花びらを口に放り込む。
しかし――。
「……っ!? な、なによこれ」
かつての琥珀スミレは、噛んだ瞬間にパリンと軽快な音を立て、中から上品な花の香りが混じった蜜がじゅわっと溢れ出したはずだ。
なのに、今のこれはどうだ。
食感はまるで湿気た飴のようにネチャついて歯にこびりつき、あの高貴な香りが微塵も感じられない。
「ま、不味い……。品質が信じられないほど落ちているじゃない……。トレンシュワもクラウスもちゃんと水やりしてるのかしらっ!」
今度は隣のバニラ・オーキッドの茎を齧ってみる。
だが結果は同じだった。
ただ後を引くような、くどい甘さとは言えない何か。喉の奥にいつまでも残る不快なベタつき。
手に持っていた残りの花を地面に叩きつけていた。
砂漠で本当の水や苦い味を知った舌は、以前よりもずっと鋭敏になっている。
だからこそ、この異常な味に気がついた。
かつては宝石箱のようだったこの場所も、今や不純物だらけの保管庫だ。
ルシエラは足音を殺し、温室から続く王城の裏通路へと滑り込む。
目的地は王宮厨房。
そこはこの国の甘さの総本山であり、何か異変があれば必ず形となって現れる場所だ。
厨房へと続く長い回廊に差し掛かった時、前方の階段付近から低い話し声が聞こえ、咄嗟に柱の影に身を隠す。
「……はぁ、またこれか。最近の支給品はどれも甘さが足りないんだよなあ」
階段に腰掛けているのは、二人の見回り役だった。
彼らは手元にある小さな紙包みから、クッキーをボリボリと貪っている。
――まったく平和ボケね…。
心の内で詰りながら、兵たちの声に耳を傾ける。
「だからこそ、トレンシュワ様やクラウス王子がくださる究極の甘さが余計に身に染みるんだよなあ……」
もう一人の兵士が、大切そうに懐から一粒の飴玉を取り出した。それは夜闇を吸い込んだような、鮮やかな紫色であった。
――あんまり美味しそうには見えないけど……。
兵士がその飴を口に放り込む。
「ああ〜この甘さっ! たまらねえっなあっ!」
ルシエラは影の中で唇を噛んだ。
兵士たちの様子が明らかにおかしい。
ただ甘さを愉しんでいるのではない。
まるでスイーツという名の劇薬を摂取している中毒者のような悦惚を浮かべている。
――あの紫色の飴……。ただの甘味料じゃないわね。
温室の花が枯れ、国全体の甘さの質が落ちている一方で、トレンシュワが作る甘さだけが異様な『甘さ』を保っている。
その矛盾の答えが、徐々に形を成していく。
味覚の独占。
トレンシュワは魔女の魔法を使い、国民の舌を「普通の甘さ」では満足できないように、あるいは感じられないように作り変えているのだ。
トレンシュワが配る強烈な甘さだけが唯一の救いになるように仕向け、国全体を甘さの飢餓状態に陥れている。
「そういうことね……なんて卑劣なの。甘さで人を幸せにするどころか、甘さで人を家畜のように飼い慣らすつもりなのかしら…」
トレンシュワは何らかのの魔法を使って、本来の豊かな甘さを奪い、代わりに支配のための毒を与えている。
ピムが言っていた歴史上の奪われた甘さを、トレンシュワは今、自分の国の民に対して行っているのだ。
今のルシエラには分かる。
甘さの価値は、それが甘くないもの……苦味や辛味、あるいは淡い水の味を知ってこそ、初めて宝石のように輝くのだということが。
「見せてあげるわ。そんな魔法で塗り固めた偽物の支配、私が本物の調和でぶち壊してあげる。トレンシュワ、いいえ、魔女っ! あなたの本当の顔を、国民の前で暴いてあげるから!」
談笑するばかりの兵士の目を盗み、ルシエラは柱の影から滑り出し、厨房へと駆け出していく。
厨房に着くなりルシエラは迷うことなく巨大な保冷庫の重い扉を開け放った。
溢れ出してきたのは、冷気と共に漂う、逃げ場のないほど濃縮された砂糖の飽和臭だ。
「……確かめさせてもらうわ。今のこの国が、何を美味しいと呼んでいるのか」
棚に並ぶ試作品の数々。
最初に手にしたのは、マカロンである。
躊躇いもなく口に放り込む。
かつてトレンシュワが作っていたマカロンは、外側は儚いほど繊細に砕け、中はしっとりと素材の風味が広がるものだった。
しかし、これは違う。
「……っ、硬いわね、これ」
歯を押し返すような不自然な弾力。そして、噛みしめた瞬間に溢れ出したのは、芳醇なアーモンドの香りではなく、脳を直接殴りつけるような暴力的な糖分の塊だった。
「ただの砂糖の塊とも呼べないわ……。香りを立たせるための引き算が全くされていないわ」
吐き捨てるようにそれを飲み込むと、次はボウルに入れられた試作中のガナッシュを指ですくい取った。
ツヤは完璧だ。
見た目だけなら、世界一のショコラティエが作ったと言っても通じるだろう。
だが、舌に乗せた瞬間、ルシエラは顔を顰めた。
「脂っぽくて、ベタつく……。カカオの気高い苦味をすべて殺して、強引に甘さで蓋をしている。これじゃ、泥を食べているのと変わらないわね」
さらに、冷蔵庫の奥に鎮座していた トレンシュワ特製・ロイヤルゼリーのタルトに手を伸ばす。
それは兵士たちが持っていたあの飴と同じ、禍々しいまでの光沢を放っていた。
一口齧った瞬間、ルシエラの視界がぐらりと揺れる。
「……っ!!」
強烈な刺激。
甘い、という概念を超えた、神経を逆撫でするような痺れが走る。
その瞬間、ルシエラの脳裏にクラウスの笑顔や、王宮の幸せな思い出が、脈絡もなく、多幸感と共に溢れ出してきた。
ルシエラはすぐさま口の中のものを飲み込んだ。
砂漠で「無」を味わい、エリオットの抹茶で「清冽な苦味」を知ったこの舌は、このスイーツに隠された依存の魔術を鋭敏に察知していた。
「素材への敬意も、食べる人への思いやりも欠片もない。ただ、自分なしではいられないように相手を支配したいという……浅ましい欲望の味ね」
ルシエラは、保冷庫の中のスイーツを次々と味見をしては毒を吐いていく。
「こんなものでキャンディー王国を支配するなんてトレンシュワ、あなたは……!」
「あら、見窄らしいネズミが一匹そこで何をしているのかしら?」
背後から、凛と凍てつくような甘い声が響いた。
振り返らなくとも分かる。
トレンシュワだ。
「下品な味付けね」
振り返ると、最高級のマシュマロシルクで仕立てられたパジャマを纏ったトレンシュワが冷たい微笑を浮かべ、立っていた。
そのパジャマは、トレンシュワの燦然と輝く金髪を際立たせるような、淡いミルキーピンク色。
まるで本物のマシュマロを薄く引き伸ばして編み上げたかのように、表面はしっとりとして、月光を浴びて真珠のような光沢を放っている。
袖口と裾には、砂糖菓子でできたフリルがたっぷりとあしらわれ、彼女が動くたびに、甘く、けれどどこか人工的なバニラの香りが夜の空気と共に漂った。
それは、見る者すべてに柔らかさと無垢を連想させる、完璧な装い。
だが、そのパジャマに包まれたトレンシュワの瞳だけは、毒を孕んだ蛇のように冷たく、ルシエラを射抜いている。




