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 ドサリ、と柔らかな感触が全身を包み込んだ。

 目を開けると、そこは見慣れた天蓋付きのベッドの上だった。

「…いた、くはないわね…ここ、私の部屋…?」

 スンと鼻腔をくすぐるのは、砂漠の砂埃でも、宿場のスパイスの刺激でもない。

 壁紙に染み付いたバニラ・エッセンスと、クローゼットから漂うサシェの甘い、あまりにも甘ったるい香りである。

 つい数週間前までは、これこそが当たり前の空気だと思っていた。安らぎそのものだったはずの香りが、今のルシエラには、胃の奥をじわりと圧迫するような重苦しさに感じられた。

「…懐かしいわね。でも、なんだか……不思議な感じ。胸焼けがするわ」

 ルシエラはキョロキョロと、暗い自室を見渡していく。

 カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされた部屋は、以前と変わらぬ贅を尽くした調度品で溢れている。 けれど、何かが決定的に違っていた。

 この屋敷は、常に甘いお菓子を作る活気に満ちていたはずだ。

 深夜であっても、厨房から砂糖を煮詰める音が聞こえ、使用人たちが忙しなく立ち働く気配があった。

 なのに、今は。

 耳が痛くなるほどの冷たい静寂が、屋敷全体を支配している。

「お父様? お母様……?」

 ルシエラは作業着を脱ぎ捨て、クローゼットの中から動きやすい服装へと着替えてから寝室の扉を開けた。

 両親や使用人の名前を呼びながら、廊下を伝って歩くが、誰の姿もない。 床に積もった薄い埃たちが、主の不在を物語っている。

「誰もいないの…?」

 両親の寝室へ向かうと、そこはもぬけの殻だった。

 クローゼットは開け放たれ、大切にされていた宝石箱や、代々伝わるスイーツのレシピ本も消えている。

 唯一鏡台の隅に、一枚の紙片が置かれているだけであった。

 父の筆跡だった。

『ルシエラ。お前を救えなかった無能な親を許してくれ。苦いという大罪……グランシェール家はもはやこの国に居場所はない。ことが収まるまで地下へと行くことにした』

「…なによこれ…家を、捨てたってこと?」

 ルシエラの手から、紙片が力なく零れ落ちていった。

 両親は生きている。けれど、この甘い城は、すでに死んでいた。

「ふふ……あははっ! 面白いわ、本当に……! バカバカしいっ!!」

 静かな廊下に、ルシエラの乾いた笑い声が響き渡る。

 悲しみよりも先に、冷徹な怒りが脳を焼き尽くした。

「でも、私は逃げないっ! トレンシュワ……あなたはクラウスだけじゃなくて家族の誇りまで奪って……っ!!」

 ルシエラは自らの顔を鏡で見つめた。砂漠の太陽に焼かれ、少し逞しくなった自分の姿。

 かつての甘さこそ正義と信じて疑わなかった無垢な令嬢は、もうどこにもいない。

「いいわ。誰もいない方が魔女の物を探すには好都合だわ」

 ルシエラは闇に沈んだ屋敷の奥へと再び歩き出していく。


「う〜ん……困ったわね。な〜んにもわからないわ……」

 粉塵の舞うキッチンで、ルシエラは苛立ちを隠さずに立ち尽くしていた。

 愛用していた銀のボウルも、特製のバニラポッドも、すべてはかつての栄華の残骸だ。

 書斎の奥に隠された秘密の戸棚まで抉るように探したが、出てくるのは砂糖の相場表や、家系図といった退屈な記録ばかりで、肝心の物は見当たらない。

「そもそも魔女の国の物ってなんなのかしら……」

 一度エリオットの元に戻ってに聞いてみるのも手かもしれない。

「……」  

 腕輪に触れようとした指先を引っ込める。

 ――いいえ、これは私の戦いよっ! しっぽ巻いて逃げてきたなんて思われたくないわっ!

 弱気になった自分を奮い立たせるように、パシンっ! と頬を張る。

「考えるのよ、ルシエラ。魔女の国の物……怪しいのはやっぱりトレンシュワよね……。次にクラウス……」

 ルシエラは窓の外を見上げた。

 遠く、夜の闇に浮かび上がるのは、パステルカラーの光に彩られたキャンディーの城。

 あの中には、きっと今も温かいココアの泉が湧き、トレンシュワがクラウスの隣で、あの魔法のチョコを振る舞っているかもしれないのだ。

「手がかりがあるとしたら、あのお城の中よね。でも……」

 手首の腕輪を見つめ、ルシエラは躊躇した。

 ここはまだ自分の家だ。

 だが、王城は別だ。

 今の自分は追放された身。

 見つかれば、次は砂漠への追放どころか、頭からキャラメル煮にされても文句は言えない。

 不用意に飛んで、警備兵の真っ只中に着地したら……。

 脳裏をよぎるのは、砂漠で味わったあの水の虚無。

 ピムのスープのピリッとした痛み。そして、エリオットがくれた抹茶の、あの深く気高い苦味。

「過酷な味を知った私が、今さらこの甘っちょろい国の衛兵ごときに怯えるなんて。笑わせないでっ」

 ルシエラは目を閉じ、王城の構造を思い描く。

 正面から入る必要はない。クラウスと何度も忍び込んだ、温室近くの裏口。

 あそこなら、警備の隙があるはずだ。

「トレンシュワ。あなたがその魔法でどれだけ国を汚しているか、私が暴いてあげる。お菓子を愛する者の誇りに懸けて!」

 覚悟を決め、ルシエラは腕輪に意識を集中させていく。

 腕輪がルシエラの意志に応えるように、冷たく、鋭い光を放ち始めた。

 

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