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1-2

 その夜、ルシエラは使い古された麻のシーツに身を包み、泥のように深い眠りに落ちていた。

 硬すぎるベッドにいちいち文句を言うのもバカらしいと思い、もう何も言わなかった。

 甘い夢を見た。

 かつての煌びやかな現実――……。

 見渡す限り、宝石のような琥珀糖と、ピンク色のマシュマロが敷き詰められた世界。隣には、優しい微笑みを浮かべたクラウスが座っている。

『ほらルシエラ。君のために作ったんだ。味見をしてくれないか。あ~ん』

 クラウスが銀のスプーンを差し出す。

 甘い吐息、とろけるようなチョコレートの香り。

 ルシエラは幸福感に包まれ、そのスプーンを迎え入れようと、口を開いた。

「ルーシー! 起きてっ! さすがに寝過ぎだってっ!」

「んんっ……!? クラウス、あぁん……じゃなくて、もう朝なの……」

「朝じゃないよ。もう夜になっちゃうよ。ルーシーってば、丸一日寝てたんだよ?」

 バサッ、と豪快に毛布を剥ぎ取られ、ルシエラは渋々と身体を起こす。目の前にあったのはクラウスの端正な顔ではなく、ピムの顔だ。よく見れば、エリオットと同じ翡翠の瞳であることに、ルシエラは気付いた。

「…………ピム」

「なに?」

 丸一日寝ていた、その言葉は本当であろう。

 身体の節々が痛み、寝過ぎたせいで頭もズキズキと痛みを訴えている。

「あなたいくつ?」

「二十」

 年上か…とルシエラは心の内で呟いた。

「ルーシー、顔洗って下に降りてきて。アニキの変わりにここでのルールを説明するからさ」

「ルール……?」

 ピムの背を見送ってからルシエラは重い身体を引きずり、廊下の突き当たりにある手洗い場へと向かった。

 蛇口を捻ると、驚くほど冷たい水が飛び出す。

「冷たっ……!」

 思わず声を上げたが、その冷たさが、甘い夢の残り香と寝ぼけた頭を強引に覚醒させてくれる。

「これにも慣れないとね…」

 顔を洗い、手ぬぐいで乱暴に水分を拭き取ると、鏡に映る自分の顔を睨みつける。

「ひっどい顔っ!」

 

 古びた階段をギィと鳴らしながら、一階の食堂へと降りた。

 そこに、エリオットの姿はなかった。

「あ、降りてきたね」

 カウンターで、野菜を刻んでいたピムが人なつこい笑みを向けてくれた。

「あいつは…?」

「ああ、アニキなら仕事に出たよ。隣の街までね。数日は帰ってこないかなぁ」

「そう」

 素っ気なく答えながら、目についた椅子に腰を下ろす。

「それじゃあ、早速だけどここのルールを説明するよ」

「ルールってなによ、いきなり」

 包丁を置いたピムが、ルシエラの前にサラダの山盛りを差し出した。

「だってどうせここに居座るつもりでしょう。行く当てないなら、ここにいるしかないからねっ」

「勝手に決めないでよ…」

 と言いつつも、ピムの言う通り期限の一泊はもう過ぎており、お言葉に甘えるつもりではあった。

「で、ね。ここに居候するなら、掃除も皿洗いもしっかり出来ないとね」

「失礼ね。そのくらい出来るわよ」

「うん。それからここに来るお客さんには失礼のないようにしてね。それと、夜の外出はまだ危ないから禁止。明日色々と案内してあげる。それからあ、これが一番大切なことっ」

「なによ」

「アニキが帰ってくるまで、甘いものはもうないんだ」

「は?」

 思わず身を乗り出していた。

 王国の厨房なら、一分間で消費する量にも満たない。

「この辺じゃ、甘味料はお金と同じくらい貴重なんだよ。昨日、ルーシーが試作だって言って色々使いすぎたから、もう次の仕入れまでお預け」

「エリオットもそんなこと言ってたわね…。私には理解出来ないわ」

 貴重品――その言葉の意味が理解出来ないでいた。

 ほんの少し前までは、砂糖は水のように、空気のように、ありふれたものだった。道端の石ころを拾うより簡単なくらいすぐ近くにあった。

「砂糖も蜂蜜も野菜も小麦も薪も塩も。ここでは全部、誰かが命がけで運んできたり、汗水垂らして作った貴重品なんだよ。無駄遣いは厳禁。わかった?」

 ルシエラの指先が、虚しくテーブルの木目を撫でていく。

 ざらりとした木の感触が、この世界の厳しさを物語っているようでもあった。

「じゃあ、私はお菓子をずっと作れないのっ!?」

「ん~それはアニキの仕入れ次第だけど、いつでもお好きにどうぞとは言えないかな」

「なっ…な、なんですって……」

「でも、お菓子が作れるなら他のものだって作れるはずだよ。というわけで、まずは溜まってる洗い物から片付けてもらおうかなっ!」

「はあっ?」

 厨房の裏に連れて行かれると、そこには油でギトギトになった鉄鍋があった。

「昨日ルーシーはここを使ったよね。だから、働いてもらうよっ!」

「な、なによそれ……」

 追放されてから何度も口にしてきた言葉だ。

「ルーシー。砂のベッドがいいの?」

「うぐぐ…」

 それを言われてしまえば、頷くしかないのが現状である。

 ルシエラは絶望的な気分になりながらも、渋々と袖を捲り上げていく。

 甘いだけの世界は終わったのだ。

 今は、この苦い現実を咀嚼し、糧にするしかない。

「いいわっ! やってやるわよっ!……甘さがなくても生きていけるんだからっ……!!」

「うんその意気だっ!」

 ピムの快活な笑い声が、ルシエラを奮い立たせていく。

 ――そうよっ! 私は負けないわ…っ! クラウスを…国を取り戻すの…っ!! 

 ユレイヴ、それが砂漠の町の名である。

「ずーっと昔には、この辺りにも当たり前にチョコや砂糖もいっぱいあったんだってさ」

「ふーん。じゃあ地下でも掘れば出てくるかしらね」

 油と格闘しながらルシエラは、ふんと鼻を鳴らし、ピムの言葉に耳を傾けていく。

「あはは。面白いねっ! やっぱりキャンディ王国は地下にチョコとかあったりするの?」

「まあ似たようなものね」

 実際、温室には一年中カカオが実り、噴水からは果汁が溢れていたのだ。

 しかし、今そんなことを言ってもピムにはお伽話にしか聞こえないだろう。  

 ルシエラは行き場のない苛立ちをぶつけるように、粗末な石鹸で鍋を擦る。    

 冷たい水。

 こびりついた煤。

 手のひらを刺すような鉄の匂い。つい数日前まで、この指先は砂糖菓子を飾るためだけにあった。

 今、その爪の間には黒い汚れが入り込んでいる。

「はあ、私の綺麗な手が台無しだわ……」

「でも手は動いてるね。感心感心」

「で、今はどうして甘いものがないのよ? ギラギラの日差しに枯れたの?」

「どうしてもなにも……キャンディ王国が奪ったからだよ」

「はあっ~~~~~ッ!?」

 何気ないピムの発言に、ルシエラの口からは奇天烈な声が出てくる。鍋を洗う手を止め、湿気で張り付いた前髪を腕で払い、翡翠色の瞳を睨むように見つめた。

「何よそれ」

「何って事実じゃん。まあ、大昔のことだからルーシーが気にすることはないよ」

「だからっ! 奪った、って何よっ! 歴史書には、世界中の『甘さ』は、最もそれを正しく扱えるキャンディ王国に献上される。それが世界の調和だって、私は教わってきたわっ! 人聞きの悪いこと言わないでちょうだいっ!?」

「んーそうは言われても…こっちの本にはキャンディ王国が攻めてきてチョコや職人たちを奪った……って書いてあったけど」

 指の間につまった煤が、急に気になり始めた。

 ルシエラがこれほどまでに激昂したのは、単なる愛国心からではない。クラウスのこともあるからだ。

 彼には、人を惹きつける魅力はあっても、複雑な利害を調整する政治の才能が絶望的に欠けている。だからこそ、自分が隣に立ち、外交の舞台で立ち回るつもりだった。

 だが、もし自分たちが信じてきた歴史が、外の世界では略奪の記録として語られているのだとしたら。

 おそらくこの認識のズレは致命的な枷になるだろう。

「先祖は泥棒だった」と突きつけられる屈辱など、ルシエラの自尊心が許さなかった。

「……いい、ピム。歴史っていうのはね、知性の乏しい人間が自分たちの不幸を他人のせいにしたくて書き換えることもあるのよ」

 ルシエラは自分に言い聞かせるように強気な言葉を紡いだ。

「うん。まあもうずっと昔の話だし、ここが生きづらい場所なのは事実だしね。ほら、手が止まってる。その鍋を洗わないと、明日の朝の仕込みができないからさ」

「……わかってるわよっ!」

 ルシエラは再び、冷たい水の中に手を突っ込んだ。

 指先の感覚が麻痺していく。

 自分が信じてきた世界と、この剥き出しの砂漠の現実。

 どちらが本当で、どちらが嘘なのか。

 あるいは、どちらも本当で、どちらも残酷なだけなのか――。

「こんなこと言っておいて、言うのもなんだけど、わたしたちはユレイヴの人間じゃないんだ」

「ふーん」

「故郷は砂漠を越えて、もうちょっと西にあるんだ。砂漠よりかは住み心地はいいよ」

「ふーん」

 ルシエラは、まるで自分の中にこびりついた甘い欺瞞をこそげ落とすかのように、力の限り鍋を擦っていく。

「朝食は一緒に作ろうか」

「いいわよ。ただし……朝食の時、もっと詳しく話しなさい。この国の、その間違った歴史認識について、私がたっぷり修正してあげるから」

「うん。キャンディ王国のこともいっぱい聞かせて欲しいなっ」

 鍋を洗い終える頃には、ルシエラの指先は冷たさで感覚を失い、真っ赤に腫れぼったくなっていた。

「終わったわ……どう? ピカピカでしょう?」

 綺麗にした鍋を、ルシエラは自慢げにピムへと見せつける。

「おーすごいっ! お疲れ様。ありがとねー。じゃあ、お待ちかねの夕飯にしちゃおうか」

 差し出されたのは、昨日と同じスープであった。  

「……これしかないの?」

「んー作るの簡単だからねー。あっ、でも味変はしてるからっ! 飽きないと思うっ!」

「あじへん…?」

 エリオットもピムも、知らない言葉をよく話す。

「まあいいわ…今は食べられるだけでありがたいんだから…」

 ルシエラは深い溜め息と共に、再びスープを口にする。

 次の瞬間、舌の上で、経験したことのない衝撃が弾けた。

 昨日とは全く別のものである。

「~~~~~――っ!? な、何これ、あっつ!? あ、熱いわ! お水! 早くっ!!」

 全く予期していなかった出来事に、自ら水を求めてしまう程であった。

 チクチクとまるで、舌を針で刺されたかのような痛みにも似た感覚――喉を通り過ぎたのは灼熱そのものだった。

「あはは、熱いんじゃなくて、それは辛いんだよ」

「か、から……からい……??」

 差し出された水を一気に飲み干して、身体の熱を鎮火させていく。泣きたくもないのに、じわりと目尻に涙が勝手に浮かび上がってしまう。

 焼けるような刺激。

 鼻腔を突き刺すような鋭い芳香。

 砂糖の甘み、クリームのまろやかさ、果実の爽やかさ。

 それらすべては、食べる者を穏やかに包み込むために存在している。

 だが、このスープはどうだ。

 舌を刺し、胃を叩き、強制的に身体を覚醒させるような、攻撃的なまでの主張をしているではないか。

「……信じられない。こんなのが食べ物とは思えないわっ……!」

「食べ物というよりかは、調味料かなあ? それはね、スパイスって言うんだよ。甘いだけの国とは正反対かもね」

「すぱ、いちゅ…スパィス……」

 文句を言いながらも、ルシエラはもう一度味を確かめるように、二口目を運んでいた。

「うぐぐぐッ……!」

 不思議なことに、その痺れるような感覚の奥に、肉の旨みや野菜の瑞々しさが、今まで以上に鮮明に感じられるような気がした。

 ルシエラは、まだジンジンと痺れる舌を慎重に動かし、もう一度スープの表面を見つめる。

 赤い点のような、あるいは黒い粒のようなものが、煮込まれた野菜の隙間に浮いている。これがスパイスという凶器の正体なのだろうか。

 塩、スパイス。

 ルシエラは自分が居た世界の狭さを改めて突き付けられた。

「ねえ……これと塩は何が違うのよ?」

 同時に、昨日知ったばかりの塩の味を思い出す。

 思い出すだけでも、うぇっとなる。あれは、失敗作の味だ。

「んー? そうだなあ。塩はまろやかな感じで、スパイスの刺激…この辛味は、もっと鼻をツンってさせたり、体の中が熱くなったりする、かなあ? つまり、熱いか熱くないかだねっ!」

「はあ?」

 ピムの説明はいまいちピンと来ない。

 ピムもスープを口に運び、満足げにうんうんと頷く。

「塩もスパイスもどっちも必要な味なんだよっ! 辛味はね魂を叩き起こすものなんだよっ!」

「魂を叩き起す……?」

 ルシエラは、三口目のスープを恐る恐る口に含んだ。

 昨日作った塩まみれのクッキーはただただ不快で、拒絶したくなる味だった。とてもピムの言うまろやさはなかった。

 けれどこのスパイスは……鋭い刺激の後に、自分の血が指先まで巡り、冷え切っていた体が内側から燃え上がるような感覚を連れてくる。

「……目が覚める。確かに、そうね」

 ルシエラの瞳に、複雑な光が宿った。

 甘さが、人を陶酔させ、無知という名の微睡へと誘うものだとしたら、このスパイスは過酷な現実を生き抜くための劇薬であろう。

「……気に食わないわ」

 鼻を赤くしながらも、再びコップの水を飲み干していく。

「なんで?」

「ええ。気に食わないけど……認めざるを得ないわね。この世界には、私の知らない『味』がまだたくさん転がっているんだわ」

 まだジンジンと痛む舌を動かし、言葉を紡いでいく。

「……野蛮だわ。食べ物で無理やり身体を熱くさせるなんて」

 冷水で感覚のなかった指先に、ドクドクと脈打つような熱が戻っている。煤で汚れた爪の間まで、確かな生命力が通い始めていた。

「気に入った?」

「全然っ! でも、知る権利はあるわねっ」

 負けず嫌いのルシエラの魂にも、火がつきはじめる。

「あなたが知っている味を、もっと見せなさい。それはただの粒なのか、粉なのか、それとも葉っぱなのか。種類も、産地も、効能も全部よっ!」

「あはは! ルーシーは本当に勉強熱心だね。いいよ、明日の朝食の仕込みの時に、厨房の中全部ひっくり返して見せてあげる。……でも、その前に」

 ピムが悪戯っぽく笑う。

「ちゃんと全部食べてね」

「……わかってるわよ! これくらい、どうってことないっ!」

 戦いを挑むようにスプーンを握りしめる。

 涙目で鼻をすすりながらも、スープを口に運び続ける。

 砂漠の夜風が吹き抜けるなか、小さな宿屋の中で、スパイスの鮮烈な香りと、ルシエラの意地っ張りな息遣いが満ちていくのである。

「…というか、ルーシーってなによ。私にはルシエラという高貴な名前があるのよっ! 勝手に変な呼び名を付けないでちょうだい」

「んー親愛の証だよっ! ねっ、ルーシー! これから色んな味に挑戦していこうねっ!」


 


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