1 始まりと出会い
1話辺り1万字以上あるので暇な時に読んでください
むかし、むーかしスイーツランド――通称キャンディ王国がありました。
スイーツ、キャンディ。その名前の通り、この国は甘いものに取り憑かれていました。朝食はマシュマロのスープ、昼食はキャラメルで固めた肉、夕食はシュガーコーティングの野菜。聞くだけで胃が凭れそうになりますが、国民全員が「甘さこそ正義」と信じ、苦味という概念すら忘れかけている程の甘党であり、舌に甘さを塗り込むために生きているような国でした。
初代王様の名前は、シュガー・ザ・ファースト。
王都の広場にある銅像は、頭のてっぺんから爪先までが真っ白な粉砂糖でコーティングされて、冠は溶けたキャラメルででき、時おり滴り落ちてくる甘い滓をありがた~くお皿で受け止め食べるのが、民たちの僥倖とされていました。
さて、そんな国では貴族の子女たちは甘いお菓子を作れることが教養とされていました。
その中でも、超絶美少女のルシエラ・フォン・グランシェール、十七歳。
キャンディ王国名門貴族の令嬢であり、お菓子を誰よりも愛しています。
学業もお菓子作りも右に出るものはいないと謳われた正に、才色兼備の美少女です。
ルシエラの作るお菓子は完璧でした。
ふわふわのスポンジは、口に入れた瞬間に溶けるような軽やかさで、舌の上で優しく崩れて、滑らかなクリームは、ヴァニラビーンズをたっぷり使った濃厚な甘さが、まるで絹のようになめらかに喉を通り過ぎていくのです。 輝くようなグラサージュは、透明感のあるピンクのグラニュー糖で仕上げられ、光に当たるとキラキラと虹色に輝き、飾り付けられたフルーツは、砂糖漬けのチェリーが宝石のように赤く輝き、ブルーベリーは紫の真珠、キウイはエメラルドの欠片のようでした。
何よりルシエラが作るお菓子は、ただ甘いだけではありません。
一口食べただけで、幸せが全身に広がるような魔法がかかっていると言われていました。貴族たちは、彼女の新作発表があるたびに宮殿のサロンに集まり、息を潜めてその芸術品を眺めるのが好きでした。
その才を見込まれ、王子クラウスとも婚約し、ルシエラの人生は、チョコレートのように甘く輝く、はずでした。
順風満帆であったルシエラに魔の手が忍び寄りましたとさ。
彼女はなんと、キャンディ王国を追放されてしまうのでした……。
どうなるルシエラ。
どうするルシエラ。
「……バカバカしい。ああっ!! 思い出しただけでもムカムカしてきたっ!!」
怒声を上げたのは、ルシエラだ。
ルシエラが今、歩いているのは柔らかなマシュマロの上でも、甘いチョコレートの上でもない。
砂漠だ。
辺り一面砂である。もしこれが黄金色に煮詰められたキャラメルだったなら、どれほど幸福であろうか。
ギラギラの陽光を受けてとろりと艶めき、甘い香りを漂わせながら足元に広がっていたなら、きっと歓声を上げて飛び込んでいたに違いない。
けれど現実は、舌を潤す甘さなど欠片もなく、乾ききった砂が果てしなく続いている。
ざっ、ざっと足を一歩踏み締める度に、砂粒が靴へ入り込み、熱を孕んだ粒子が容赦なく体力を奪っていく。
時折、ポツンとサボテンがあるだけで、生物の気配はない。
もしそれがケーキの上で愛らしく居座るメレンゲドールだったなら、どれほど良かっただろうか。
ふわりと焼き上げられ、砂糖の粉をまとった人形のように並んでいれば、この殺風景な景色にも少しは心が慰められたに違いない。
だが、やはり現実に見えるのは、乾ききった棘だらけの植物だけで、愛嬌の欠片もなく、砂漠の中で黙り込むように突っ立っているばかりだ。
何故、こんなことになってしまったのだろう――……。
歯車が狂ったのは、キャンディ王国でも指折りの名家シュガーローズ公爵家の令嬢――トレンシュワ・フォン・シュガーローズの異変が起きてからだ。
元から学園内でもライバル関係であった二人だ。
トレンシュワもまた、ルシエラとは違った完璧さを持つ者である。トレンシュワは「究極の甘さ」を武器にしていた
燦然と輝く金色の髪に、紫水晶の瞳、白く透き通る肌――。
ルシエラとはまた違った、美少女である。
トレンシュワの作るお菓子は、まさに甘さの極致だった。マシュマロを雲のように軽く仕上げ、砂糖を雪のようにふんわりと降らせ、蜂蜜を黄金の川のようにとろりと流し、口に入れた瞬間に脳天まで甘さが突き抜けるような、強烈で純粋な甘さの爆発を生み出す。
一口食べた者は思わず目を瞬かせ、「これ以上甘いものなど存在しない……!」と跪くほどだったという。
ルシエラの甘さが優しく包み込む幸福なら、トレンシュワは甘さで殴りつけるような快楽であろう。
トレンシュワは、その圧倒的な甘さゆえに甘さの女神と称されていた。
一方でルシエラは、優しく幸福を広げる味わいから祝福の天使と呼ばれていた。
甘さで人を跪かせる女神と、甘さで人を包み込む天使。
二人は同じ菓子を極めながらも、まるで正反対の存在として並び立っていたのである。
『皆チョコレートが好きだと思っていたのよっ! 大好きでしょうっ!? 甘いのがっ!!』
追放される直前、ルシエラが叫んだ最後の言葉が頭の中で幾重にも反響していく。
とてもバカバカしい話だが、ルシエラはチョコレートが苦いという珍妙な罪状で追放されたのだ。そして何より、彼女のスイーツが苦いと最初に言ったのは、婚約者である王子クラウスだった。
事件は、クラウスとの婚約パーティーで起こった。
王宮の大広間で盛大な舞踏会が開かれていた。
絢爛なシャンデリアさえも飴細工でできていて、光を浴びる度に虹色の輝きを放ち、床には砂糖を散らした絨毯が敷かれ、足を踏み入れるたびに甘い香りが立ち上る。 来賓たちは皆、極彩色のドレスやタキシードをまとい、口元は常にもごもごと動き、これでもかと甘さに溺れていた。
その中に、トレンシュワの姿もあった。
鮮やかな金色の髪をふんわりと揺らし、紫水晶の瞳を妖しく輝かせながら、彼女は銀のトレイを手にクラウスへと歩み寄って来たのだ。
「あら、トレンシュワどうかしたの?」
ルシエラはクラウスの手を握りしめたまま、威嚇するように問いかける。
「ふふ、クラウス王子にルシエラ王妃。本日はわたくしをご招待頂きありがとうございます。僭越ながら今日という特別な日に、新作のスイーツを持ってまいりましたの。是非ご賞味頂きたく……」
トレイの上に載っていたのは、金粉が振りかけられた生チョコレートだった。キラキラと宝石のように輝き、溶ける前に早く食べてくれとアピールするように甘い香りを漂わせている。
一見すれば、普通の生チョコレートだ。ルシエラとて容易く作れる品物である。
「まあ、トレンシュワ。あなたの新作にしては随分と地味ね?」
「確かにそうかもしれませんわ。ですが、ルシエラ王妃。お菓子は見た目もそうですが、やはり味がすべて……。そうですわよね、クラウス王子」
トレンシュワが、クラウスに微笑みかける。その笑顔には、どこか勝ち誇ったような雰囲気があった。
「ああ……。その通りだ。見た目も大事だが、やはり味だ。美味しくなければつまらないからな」
「クラウス、お腹が空いているのなら私の……」
クラウスがトレンシュワに微笑み返した。
そうして、ルシエラの手を離して躊躇いもなく、生チョコレートをぽいっと口に放り込んだのだ。
「あッ!? ちょっとっ!? く、クラウスっ……!?」
止める暇さえなかった。
「どうですか、王子」
「……っ! これは……!!」
刹那。
クラウスは目を大きく見開き、口元を手で押さえた。
その反応は、ルシエラの知るものではなかった。
普段のクラウスなら、穏やかに微笑みながら、どんなお菓子を口にしても余裕を崩さない。驚いたとしても、王族らしく品位を失うことなど決してない男だ。
けれど今、クラウスの肩はわずかに震え、瞳は信じられないものを見たかのように見開かれている。まるで身体の内側から何かが突き上げてきたような、抑えきれない衝撃を堪えている顔だった。
ルシエラの胸がざわりと波立つ。
こんな表情、見たことがない。
「クラウス!? どうしたのっ!? まさか……毒…!?」
「いや……この味はっ! ……なんて、なんて甘いんだっっ!!」
「へ?」
クラウスの言葉に、ルシエラは思わず首を傾げてしまった。
チョコレートが甘いのは当たり前だ。
だから余計に、甘いことを当たり前のように口にするのが不思議でならなかった。
「極上の甘さだっ! 口に入れた瞬間には、蕩ける感覚と共に芳醇な香りが口内に広がっていく……。まるで自分がチョコレートと共に溶けていくように……甘さがずっと舌に残っているっ! こんな甘い生チョコレートは初めてだっ!」
「そ、そんな……まさかっ!」
喉がひゅっと嫌な音を鳴らす。
キャンディ王国において、「甘い」は最高級の賛辞だ。
美しい花を見れば甘いと言い、心地よい音楽を聴けば甘いと言い、恋人への愛情すら甘さで測る。
甘さとは幸福であり、豊かさであり、絶対的な価値そのもの。
だからこそ、クラウスの口から放たれた称賛は、決して軽い言葉ではなかった。
それは王国中の菓子職人たちが追い求める頂点。
胸の奥がざわつく。
かつて婚約を結んだ日。彼はルシエラの焼いた菓子を口にし、微笑みながらこう言ったのだ。
「ルシエラ、やはり君の甘さこそが至高だ。この噛み締める度に、口の中がまろやかな幸福に包まれる感覚……キャンディ王国に相応しい甘さだよ」
それは単なる感想ではない。
クラウスが、ルシエラを生涯の伴侶として選んだ証。
甘い――その一言は、彼女へ贈られた婚約の言葉そのものだった。
だからこそ今、別の女のお菓子に向けられるその賛辞が、胸を鋭く抉る。
まるで、あの日の約束ごと奪われてしまったかのように――。
甘いのは当たり前。甘くて当然。
それでもクラウスは、まるで奇跡を見つけたかのような顔をしていた。
「まあ、そのようにお褒め頂き光栄ですわ。ぜひ、王妃様もどうぞ。わたくしたちの仲でしょう?」
トレンシュワが勝ち誇ったように、口元の笑みを深め、嫌みったらしくトレイを差し出してくる。
「ど、どうも…」
――クラウスが嘘を言っているとは思えないわ……。
クラウスを一瞥すれば、ルシエラのことなど忘れているかのように、無我夢中といった様子で、生チョコレートを口に放り込み続けていた。まさに貪り食うという表現が相応しい姿だった。
「……クラウス。はしたないわ」
クラウスの手を掴み、躾のなってない子どもに言い聞かせるようにぴしゃりと言い放つ。
「……っ! ああ、すまない。つい我を忘れてしまったよ」
「全く……クラウスったら。あなたの妃は私でしょう? 他人のスイーツにうつつを抜かすなんて…義父上が知ったら追放ものよ」
「ふふ、これは失礼しましたわ。では、クラウス王子。お口治しにルシエラ王妃のチョコレートもお召し上がりになってはどうかしら?」
「そうだな」
トレンシュワの言いなりになっているクラウスに、ルシエラの苛立ちは募っていくばかりだ。
クラウスは口元をナプキンで拭うと、来賓たちに振る舞われていたルシエラのチョコレートケーキをつまみ上げた。
ひょい、パク。
時間にして数秒。
「っ……!!」
するとまたクラウスの顔が強張った。
「あら? どうなさったのかしら?」
トレンシュワだ。
「……いや……」
彼は口ごもりつつ、ゆっくりとケーキを咀嚼していく。 その額から汗が一筋流れ落ちていた。
先ほどの生チョコレートとは正反対の表情――。
「どうしたのよ…クラウス…」
クラウスはいつもお菓子を満面の笑みで頬張るのだ。様子が可笑しいことは、ルシエラにもすぐに分かった。
「……なんというか、これは……苦いな。そう、苦いんだ」
「え?」
婚約者の口から漏れた信じられない言葉に、ルシエラの目が見開かれる。
「このチョコは苦い」
それはよく通る声だった。
「そうだ、このスイーツは苦いんだッ!!」
婚約者の叫び。
会場中の視線が、ルシエラたちに注がれていく。
「なッ!? なにを言っているのよクラウスッ!!」
パーティの楽しげな雰囲気が、たった一言で冷たいものへと豹変した。
皆、口々に話し出す。
「おい……今『苦い』と言わなかったか?」
「まさか…王子が…?」
「誰のお菓子が苦いんだ!?」
「お菓子が苦いなんてそんなありえないっ!」
「あら、まあまあ……」
トレンシュワの微笑が、ルシエラの耳朶に深く染みこんでくる。
「我が国は甘さで成り立っているのですから。甘くないものは、必要ありませんわね。ねえ、ルシエラ王妃」
「ふざけないでっ! 私のチョコレートが苦い訳ないでしょうっ!」
クラウスが口にする前から振る舞われていたものだ。他の来賓たちは苦いなんて一言も言ってはいない。
「だかなルシエラ。君のチョコレートケーキは確かに苦いんだ」
クラウスが追い討ちを掛けるように、決定的な一言を放つ。
「な、ッ!? なに言っているのよっ、クラウスッ!! そんな訳ないでしょうっ!!」
「ルシエラ様のお菓子が苦いのかっ!?」
「王妃のお菓子が苦いなんてありえないっ!!」
来賓たちは好き勝手に物を言い、呪いのような言葉をルシエラへ投げつけていく。
婚約パーティーは、苦いの一言で混乱のままに幕を閉じた。そして、クラウスとの婚約が破棄されたのは、その晩のことであった。
「苦いチョコレートを王子に強要した罪」で、ルシエラは追放された。
眠たげに罪状を読み上げる廷臣の声が、未だにルシエラの耳に張り付いていた。
『被告ルシエラ・フォン・グランシェールは、クラウス殿下に苦味を強要し、さらにはトレンシュワ公女の菓子を毒と貶し――』
新しい婚約者となったトレンシュワが、クラウスと並んで手を振っているのを、ルシエラは遠目で眺めることしか出来なかった。
だが、不思議と涙は出なかった。
ルシエラは薬指の指輪を見つめる。
白い指先で輝くのは、宝石でも金銀でもない。
キャンディ王国の至宝、誓いのシュガーリング。
特別な魔力を持つ飴細工で編まれたその指輪は、互いの愛が本物である限り、どれほどの熱に晒されても決して溶けることはない。
逆に、心が離れれば瞬く間にドロドロと崩れ落ちるまさに絆の温度計……。
指輪はまだ溶けてはいない。ならば、クラウスの心は取り戻せるはずだ。
心の奥底で静かな炎を燃やしながら、ルシエラはキャンディ王国に背を向けた。
干からびた風を手で払い、ルシエラは深いため息を吐き出した。
「……あつい」
艶やかであった髪も今はパサパサに乾き、張りのあった肌も今は乾燥し、カサカサであった。
砂漠を超えれば人がいる、とだけ聞いた。持たされたのはお菓子のみ。灼熱と相性の悪いチョコや生クリームはとっくにダメになってしまっている。
ビスケットも水分を奪ってくるので、ルシエラにとってスイーツに殺されるのも同然であった。
着ているのも通気性の悪いドレスに、薄っぺらいローブのみだ。
喉はカラカラで、もう足は棒のようだ。
「あぁ…いや…私…こんな所で…干からびて死ぬの……? ミイラみたいに…? そんなの絶対いやよ……っ」
強い意志とは裏腹に、もう身体はボロボロである。足が縺れて砂漠の上へと倒れ込んでしまう。
「ぅう…」
じわじわと砂の上で焼かれていく。
唇に砂粒がついた。
「ルシエラ」
その時である。
聞き慣れた、甘い声が聞こえた。
重い瞼をゆっくりと開くと、そこには、陽炎の向こうから歩み寄ってくるクラウスの姿があった。
王宮の大広間で着ていたような絢爛な姿ではない。白いシャツの袖を捲り、少し汗をかいた、砕けた姿だ。
その手には、銀のトレイが。
「……クラウス?」
ルシエラは掠れた声で呼びかけた。
ああこれはきっと幻だ。
分かっている。
でも、彼に触れたい。
彼に甘えたい。
クラウスはルシエラの傍らに跪くと、優しく頭を抱き上げた。
「すまない、ルシエラ。君をこんな目に遭わせてしまうなんて……」
クラウスの瞳には、かつてのような愛おしげな光が宿っている。
クラウスがトレイをルシエラの前に差し出した。
そこには、ガラスの器に盛られた、真っ白なシャーベットがあった。
「これを。君のために作ったんだ」
ルシエラは、夢心地のままに手を伸ばした。
シャーベットを一口掬い、口に入れる。
冷たい。甘い。
それは、レモンの香りが微かに香る、さっぱりとした甘さだった。ルシエラがかつて、クラウスのために作った、思い出の味だ。
トレンシュワの作った、あの脳天まで突き抜けるような「究極の甘さ」とは違う。優しく、心に染み渡るような、幸福の味だ。
「……美味しい……、クラウス……」
ルシエラの目から、涙が溢れ出した。砂に落ちた涙は、一瞬で蒸発してしまう。
「君のお菓子は、苦くなんてない。世界で一番、甘くて美味しい」
クラウスは、ルシエラの涙を指で拭った。
その指先は、ひんやりと冷たく、心地よかった。
「愛している、ルシエラ。必ず、迎えに行くから」
「ああ……クラウス……バカな人……トレンシュワの手から私がぜったいにっ……あ、あっぃ……わ、ね…」
クラウスの顔が、近づいてくる。
ルシエラの瞼がゆっくりと降りていく。
そうして、次に感じたのは、熱い砂の感触だった。
「……」
手のひらが虚しく砂の上で藻掻く。砂が爪の隙間に入り込むが気にしている余裕はなかった。
クラウスの姿も、シャーベットもない。
目に見えるのは、どこまでも続く砂漠と、容赦なく照りつける太陽だけだ。
ルシエラは、乾いた唇を舌で舐めてみるが、唾液も乾いていた。
シャーベットの味は、まだ残っている。でも、それは記憶が作り出した、儚い幻だ。
「ああ…も、もうダメ……さ、さいごに……水を……」
乾ききった唇を震わせながら、掠れた声を絞り出した。
喉は焼けるように痛く、舌は張り付いて動かない。
こんな最期なんて嫌だ――そう思いながらも、身体はもう限界だった。
せめて最後に甘い味が欲しい。
例えば幼い頃から慣れ親しんだ、透き通るあの黄金色の果汁。冷たく冷やされたアップルジュースが喉を滑り落ちる感覚を、ルシエラはぼんやりと思い出していた。
口いっぱいに広がる果実の甘み。
舌に残る優しい香り。
それだけで、少しだけ幸せな気持ちになれた。
ルシエラは無意識に手を伸ばしていた。
その先に、人影が見えた。
――クラウス……。
指輪は今もなお、完璧な装飾を保ったままルシエラの指に鎮座している。
バシャァアンっ!!
「ぎゃッンっ!? ぷ、はっぁ…ッ!!」
朦朧としていた意識が、冷水によって一気に現実へと引き戻されていく。顔面にぶっかけられた水は、鼻に入りこみ激しく咽せてしまう。
「よし、生きてるな」
頭上から降ってきたのは、知らない男の声だ。
顔についた水滴を拭いながら、ルシエラは目の前の男を睨み付ける。
「なにするのよっ! 乙女の顔にいきなり水をぶっかけるなんて! げほッ…! ごほっ、ごほっ!」
ルシエラは上体を起こして、抗議の声を上げた。
「悪いな、お嬢さん。干からびかけてたもんで、手っ取り早く目を覚まさせようと思ってな。ほら、飲め。今度は口からだ」
ウエスタンハットを被り、いかにも旅慣れているといった風貌の男が、木製の水筒を差し出してきた。
「…!! み、水っ!!」
喉の渇きは限界だった。
「い、いただくわっ…!!」
ひったくるように水筒を手にすると、無我夢中でその中身を喉へと流し込んでいく。
生き返る。生きている――……。
灼熱に焼かれていた身体が、芯から潤いを取り戻していく。
パサパサだった舌がしっとり潤い、乾ききった喉が柔らかく膨らむ。
全身の細胞が甘い液体を吸い上げたように、干からびていた肉体が、スポンジのようにしっとりふんわりと力を取り戻していく。
しかし――。
半分ほど一気に飲み干したところで、ピタリとルシエラの身体が硬直する。
そして、目の前の男に問いかけた。
「……これ、なに? はじめて飲むわ。味がしないなんて不思議な飲みもののね」
「あ? 何言ってんだ? ただの水だろ。干からびかけでバカになってんのか?」
男の目は、まるで可哀想なものを見るかのようだった。
「水ぅ? これがあ? おかしいのはあなたの方じゃなくて? 水はもっと甘いわっ!!」
抗議の声に、男は面倒くさそうに頭を抱えた。
「お前なあ……。仮にも命の恩人だぞ、俺は。水つうのは本来味なんてしないんだよ、キャンディ王国のお嬢さん」
「そ、そんなバカなことあるわけないでしょう! 味がしない液体なんて、そんなのただの虚無よっ。 何かの間違いだわ!」
「なら、水筒は返せ。そんなに元気ならもういいだろう」
男が手を差し出してきた。
「……っ!」
ぐびっ。
ルシエラは水筒の中身を一気に飲み干してから、男へと空の容器を返す。
「おい」
「それはそれ、これはこれよ」
砂の絨毯から立ち上がり、ルシエラはローブにまとわりつく砂を払っていく。
「所であなたはどうして私がキャンディ王国の者だって分かったのよ? 自己紹介なんてしないわよ?」
「そりゃ、水が甘いなんて常識のないことを言うのはあのアホな国しかないからな」
「水は甘いものよっ!」
ルシエラの叫びが、広大な砂漠に響く。
腰に手を当て、パサパサの髪を砂で汚しながらも気高く胸を張る。
キャンディ王国の水は、蜂蜜を溶かしたような甘露である。
男はウエスタンハットを少し上げ、ため息をついた。日焼けした精悍な顔に、苦笑いが浮かぶ。三十歳前後だろうか。旅人らしい革のコートが風に揺れる。
男は空の水筒を戻し、ルシエラの様子を上から下まで眺めた。
「じゃあ、俺はもう行く。キャンディ王国なら南西に進んで行けば辿り着くぞ」
男は、ルシエラが迷子になっていると思ったのか、南西を指さして背を向けた。
「ちょっと待ちなさいよっ!」
立ち去ろうとする男の背中に向かって、ルシエラは必死に声を張り上げた。
足元はまだふらついている。けれど、ここでこの無味乾燥な男を見逃せば、次に待っているのは幻覚のシャーベットではなく、本物の死だ。
それだけは絶対に嫌だ。
「私、行く宛てがなくて困っているの。あなた…見た感じとても旅慣れているわよね?」
「ん、まあ仕事であちこち飛び回っているからな」
「なら私を人がいる場所まで案内して」
「断る。俺は忙しいんだ。それに、命の恩人に対して礼の一つもしない世間知らずの我が儘なお嬢さんを連れ歩くほど、俺は暇じゃないんだ」
「…っ、! そ、そうね…。確かにお礼は言ってなかったわ。さっきは助けてくれてありがとう。これでいいでしょう」
「……あのなあ」
男は少し先で待たせていたラクダの方へと歩いていく。ルシエラもそれに続いた。
「こんなか弱い美少女を砂漠のど真ん中に置いておく気? あなたのせいで死んだら化けて出るわよっ!」
ルシエラの声と共に、ラクダが「ベチャッ」と唾を吐き出すのは同時だった。
「ほぎゃッ!?」
お嬢様と思えない程の悲鳴を上げるルシエラ。運良く顔面は免れたものの、袖には、およそこの世のものとは思えない異臭を放つお返しがべっとりと付着していた。
「ははっ、こいつはお前みたいなピーチク喧しいのが嫌いなんだよ。動物は正直だからな」
ラクダの首を親しげに叩きながら、男は愉快そうに肩を揺らした。
「わ、笑い事じゃないわよっ!」
「……分かったよ。近くの町まで案内してやるからいい加減黙ってろ。三日後にお嬢さんのミイラと鉢合わせるのはこちとら嫌だからな」
エリオット。
それが、男の名前であった。行商人としてあちこちの国を練り歩いているそうだ。日に焼けているのか元から褐色であるのか、ルシエラには分からない。ただ肌の色によく映える銀の髪と翡翠の瞳が、どこか不思議なものに思えた。
「しかしキャンディ王国のお嬢さんがなんで砂漠のど真ん中にいるんだ? この世にまだ見ぬスイーツなんてもうありゃしないぜ?」
近くの町まで彼が跨っていたラクダにルシエラが跨がる。手綱を引くのは勿論、エリオットだ。
「追放されたのよ」
「追放だあ?」
「ええ……」
これまでの事の経緯を話終えると、くくっと喉の奥で笑い声を押し殺しているのが聞こえた。
「笑い事じゃないのよッ!?」
「ああ悪い悪い…。しかし、貴族ってのは大変だな。本当にそんなことあるなんてよ」
「私も信じられないわよっ! こんなことになるなんてっ!!」
「ははっ、怒れる元気があるなら大丈夫そうだな」
「大丈夫な訳ないでしょうっ! もうムカムカして仕方ないんだからっ!!」
「あー分かったからそうキンキン喚くな…。ほら、お嬢さん向けにこれでもやるよ」
エリオットは一旦足を止めると、腰の革袋をごそごそと探っていく。
取り出されたのは、小さな紙包みだった。
「……!」
ルシエラの瞳が輝く。
お菓子。
その可能性に気付いた瞬間、疲労で沈んでいた心が一気に浮上した。
「あら気が利くじゃない。でも、最初から持ってるなら出しなさいよっ」
「…感謝がねえな」
差し出された包みを、ルシエラは奪うように受け取る。
慎重に紙を開けば、中には琥珀色の小さな飴玉が入っていた。
透き通った輝き。砂糖菓子らしい艶。
それだけで胸が高鳴る。
「まあ飴ね」
思わず頬が緩む。砂漠に追放されてから、まともな甘味など口にしていない。
ごくりと、喉が鳴る。
「ふふん。少しは見直したわ」
ころり。
ルシエラは迷うことなく飴玉を一つ摘まむと、口へと放り込み、舌の上で転がしていく。
最初に広がったのは、確かに甘さであった。だが、それもすぐに違和感へと変わっていく。
「……?」
ぴくり、と飴を転がす度にルシエラの眉が忙しなく動く。
何かが違う。
甘い。
けれど、甘さの奥に妙な刺激がある。舌の端をじわりと撫でる、知らない感覚がじんわりと口内に広がっていくのだ。
甘さではない。これは甘くはない。
「なにこれ……? 飴、よね…?」
ころころと確かめるように飴を転がしていく。
舌の上に、見知らぬ何かがまとわりつく。
「なんなのこれ。砂糖じゃないの?」
「飴だよ。お嬢さんが大好きなスイーツだろ」
「飴なのは分かるわよ! 問題なのはこの妙な味よッ!」
気持ち悪いほどではない。ただ、理解できない。
「なんだか……舌が変な感じなのよっ。甘さが途中で歪むというか……」
「へえ」
「しかも妙に口の中に残るわ。これ、なにを混ぜたの?」
「塩」
「……しお?」
聞いたことのない単語に、ルシエラは耳に響いた音をそののまま繰り返していた。
「何よそれ」
「は?」
今度はエリオットが顔を顰める。やがて信じられないものを見る顔になる。
「…キャンディ王国は奇人変人ばっかなのは知っているが、塩も知らなかったのか……」
「だから何なのよ、それは。砂糖の種類、という訳ではなさそうね。甘くないから」
「塩は塩だ。汗かいた時に必要なんだよ」
「そうなの?」
「ああ、塩分がないと干からびちまうからな」
「ふーん……」
ルシエラは退屈そうに口の中の飴を転がしていく。
甘さの中に潜む未知。理解できない。けれど、不快とも言い切れない。
舌の奥で、またじわりと何かが広がる。
「変なの」
「お嬢さんほどじゃないぞ…」
「失礼ねっっ!」
そうして、ラクダの背に揺られること数時間。ようやく見えてきたのは、キャンディ王国のパステルカラーな街並みとは真逆の、土と石でできた無骨な町であった。
「ほら、着いたぞ」
ラクダの足が止まり、エリオットの手を借りて地面に足を付ける。
「ふぅ……ここが町? お菓子の焼き損じみたいな色の建物ばかりね」
「…我が儘言うな。ほら行くぞ」
エリオットが向かったのは、宿場であった。
砂漠の町らしい、簡素でがっしりとした石造りの建物。看板には砂の宿と、なんのひねりもないくすんだ文字が書かれている。入口の扉は木が乾いてひび割れ、風に当たるたびにギィ……と情けない音を立てていた。
「ここで一泊しろ。妹がやってるんだ。金は俺が持っておいてやるよ。まあ、ここにお望みのスイーツなんてないがな」
エリオットがそう言って先に中に入ると、ルシエラは一瞬だけ足を止めた。
「……甘いものがない……?」
信じられない言葉が、胸の奥でずしりと響く。
生まれてこの方、「甘いものがない」という状況を想像したことすらなかった。朝も昼も夜も、すべてが砂糖と蜜と果実の香りに包まれていた世界だった。けれども今、喉の奥に残っているのはただの水の味――いや、味すらしない虚無の感触だけ。
「な…なによ…それっ……!」
「嫌なら砂漠に戻ってろ」
「うぐ…」
ルシエラは小さく唇を噛み、宿の扉をくぐった。
中は意外と広かった。薄暗いランプの明かりの下、木のテーブルが何卓か並び、酒やスープをすすっている者たちの姿が目に飛び込んでくる。
鼻奥を刺激する空気には砂埃と汗と、どこか刺激的な香りが混じっていた。
甘さは、どこにもない。
「戻ったぜ」
エリオットが気さくにカウンターへと声を掛ける。
「あれ? どうしたのさいきなり帰ってきて」
気さくな声と共に、エリオットと同じ肌色をした女性が、カウンターの奥から顔を出してきた。
「ああ、ちょっとな。砂漠で拾いものしてな」
「拾いもの?」
女がエリオットの視線を追うように、ルシエラのボロボロになったドレスを上から下まで眺め、不思議そうに目を細めた。
「う~んと、迷子?」
「まあ近しい所だな。なんでも追放されて放浪して干からびそうになってたんだ」
「追放? よくわかんないけど大変だったんだね」
「とりあえず、なんか作って出してくれ。」
「ん、奥のテーブル使って。わたしはピム。よろしくねっ」
ピムと名乗った女は、にこりと笑顔を向けてくれた。
だが、ルシエラの表情は石のように固まったまま黙って二人のやり取りを聞いていた。
知らない土地、知らない場所。今この場にいるルシエラは華やかな令嬢でも、天使と称された職人でもなく、何者でもないただの放浪者だ。
――ああ、私…本当に追放されたんだ……。
息苦しい現実だ。
案内されたテーブルの木の椅子に腰を下ろす。硬い木である。キャンディ王国の椅子はすべてクッション性の高いマシュマロソファか、滑らかな飴細工の椅子だった。
「はい、どうぞっ!」
ピムの明るい声色とは裏腹に、ルシエラの心はどん底にまで落ちていく。
粗末な木の皿が目の前に置かれた。
茶色いドロドロとしたスープにゴロゴロとした肉の塊と、色褪せた根菜らしきものが入っている。ついでのように見るからに硬そうな、灰色のパンが隣に置かれた。
最後に、水。
皿をじっと見つめたまま、ルシエラは動かない。
「なによこれ…泥?」
「泥じゃないよー。ちゃんと食べられるから大丈夫だってっ!」
「文句言うな、世間知らずのお嬢さん。砂漠じゃこれが上等だ」
目の前に座ったエリオットはすでにスープをすくい、パンを囓っていた。
慣れた様子で口に運んでいく。
「これがあ…?」
「どうした? 死ぬか生きるかの二択だぞ?」
「うぅっ…! わ、分かったよっ! 食べるわッ! こんな所で野垂れ死ぬは私には似合わないからっ!!」
高らかに宣言するように、ルシエラはスプーンらしき木の棒を手に取り、スープを掬う。甘い香りは一切しない。
代わりに、鼻を突くようなツンとした刺激的な香りと、嗅いだことのない野性味溢れる匂いがした。
「そう緊張するなって。ただのメシだ」
エリオットの声を合図に、スープを飲み込んだ。
次の瞬間、ルシエラの目が大きく見開かれた。
「うっ……! これ、食べ物なの!? 舌が引きつるわっ!」
幼いころ、興味本位で涙や汗を舐めてみたことがあったが、その時に感じた刺激が、舌の上に走ったのだ。
「……普通の味だろ。甘党過ぎて舌が麻痺してんだよ、お嬢さんは」
エリオットが苦笑しながら水を差し出してきた。
ルシエラは慌てて水を飲んだが、水に味がないことにまた顔を顰める。
「また変な水…っ。どうして……どうして何もかもがこんな…変な味ばっかで…」
声が震える。
追放されたショック、砂漠での渇き、初めて味わう甘くない食事。
すべてが一気に押し寄せてきて、ルシエラの瞳にうっすらと涙の膜が浮かんでいく。
「……私、こんなところで死ぬよりマシだと思ってたのに……。甘くない世界なんて、地獄じゃない……」
甘さしかなかった世界が、音を立てて崩れていく。
「うぅっ……」
と、言いつつもルシエラはスープとパンを口に入れていく。美味しいからではない。お腹が空いているから、仕方なく口にしている状態だ。
熱い。痛い。舌がビリビリと痺れる。
キャンディ王国では刺激といえば炭酸のパチパチキャンディ程度だったのに、これは暴力的なまでの熱量だ。
「味もしないし、硬いし、こんなの、食べ物じゃないわ……」
「食べ物だよー」
「おっ、ちゃんと全部食べたんだな。我が儘なお嬢さんかと思ってたが、案外タフなんだな」
空になった皿を見て、エリオットが感心したように口笛を吹いた。
「お腹が空いてただけよッ! こんなの、私のお菓子に比べれば家畜の餌同然なんだからぁ!」
ルシエラは顔を真っ赤にして、口元を乱暴に拭った。
「そうなの? じゃあ作ってみてよっ!」
様子を見ていたピムが口を挟んできた。
「おお、そりゃいいな。どうだ、お嬢さん」
挑発するように、エリオットがルシエラを一瞥する。
「いいわよ……。見せてあげるわ。あなた達が、いかに貧相な舌をしているか、私が分からせてあげる! ……そのためには、まず材料よ。エリオット! 砂糖や蜂蜜はあるんでしょうねっ!?」
「厨房にあるから必要なものは使っていいよ〜」
ピムが代わりに答えた。
「見てなさいっ! 甘さでひれ伏せてやるんだからっ!!」
「ははっ、そりゃ楽しみだな」
ルシエラの瞳には、王国を追放された時とは違う、強い光が宿っていた。
ピムに案内された厨房は、キャンディ王国の王宮厨房と比べるまでもなく、こじんまりとしたものだった。
石造りのかまど、煤けた鍋、乾いた木のまな板。
だが、ルシエラは怯まない。
腕まくりをして、まずは食材の確認だ。棚を開ければ、干した根菜、豆、塩漬けの肉――。
「……で、スイーツの材料はどこ?」
ピムに問いかけるが、彼女はニコっと歯を見せるだけだ。
次々に棚を開けていく。
小麦粉。これは使える。卵もある。バターらしき油脂の塊もあった。
「まあ、案外揃っているじゃない」
「食事場も兼ねてるからねー」
がたん、と勢いよく次の戸棚を引き開けた。
砂糖を探す。
が……ない。
蜂蜜を探す。
も……ない。
もう一度、くまなく棚を探す。
「小さいくせにごちゃごちゃして探し辛いわね……あっ! これ…」
あった。
小さな陶器の壺が、棚の隅に追いやられるようにして置いてあった。
「これねっ!」
意気揚々と蓋を開けたルシエラの顔が、瞬時に引き攣った。
壺の中身は、底を薄く覆うだけの蜂蜜であった。まるで泣き終わった後の瞳のような、かすかな潤い。
スプーンを差し込めば、とろりと重だるく糸を引く。
「…な、なによこれ…」
「蜂蜜だけど、もうないよ。次の入荷は一ヶ月くらいかなあ」
「い、一ヶ月……?」
思わず壺を落としそうになるも、なんとか堪える。
気を取り直して、次に砂糖をもう一度探していく。
棚の奥、奥、奥。
陶器の壺、木の箱、布袋――。
「ねえ、ピム砂糖はどこに――あっ!」
あった。
白い粉末が入った、ずっしりとした袋だ。
「……これよっ! 変な手間掛けさせないで最初から出しなさいよっ、もうっ!」
砂糖を見つけた瞬間、ルシエラの顔がぱあっと明るさを取り戻した。
「あ、それは……」
指先で少量すくい、味わうように舌に乗せる。
「……!」
じわり。
何かが広がる。
甘さ、では……ない。だが、口の中に確かな存在感がある。
「……またこれだわ」
ルシエラは少し首を傾けたものの、すぐに気を取り直した。
キャンディ王国の精製された砂糖と比べれば、この砂漠の辺境の町で手に入る砂糖の質が多少落ちるのは致し方ないことだ、と自分を納得させていく。
あの飴玉にも変な風味があったではないか。この土地の砂糖は、そういうものなのだ。きっと。
「よし。材料を確認するわ」
ルシエラはまな板の上に、集めた材料を並べていく。
小麦粉。卵。バターの塊。そして、砂糖の入った袋。底をかすかに覆うだけの蜂蜜の壺。
「並べて見ても貧相ね……。これだとスポンジケーキも無理だし……オーブンらしいものもないし……」
かまどを睨みつけながら、頭の中で素早く計算する。炉の火力は直火のみ。型もない。冷やす時間もない。
「……シンプルなクッキーにしましょうか」
「クッキーかー楽しみー!」
材料さえ揃えば、どんな環境でも焼ける。かまどの鉄板一枚あれば十分だ。
「ピム、鉄板はある?」
「あるよー」
鉄板を受け取り、ルシエラは袖をまくり直す。
まず小麦粉を木の器に量り入れる。次にバターを刻んで加え、指先で擦り合わせるように混ぜていく。ほろほろと、砂のように崩れていく感触が心地いい。
「わあ、すごい」
「ふふん」
ピムの称賛の声に、誇らしげに鼻を鳴らす。
「ひれ伏すのはまだ早いわよ」
お菓子を作っているとき、ルシエラは何もかもを忘れられる。王宮でも、婚約パーティーでも、砂漠でも、それだけは変わらなかった。
次に卵を割り入れ、よく混ぜる。
最後に、甘さを加える番だ。
「蜂蜜は少ないから、砂糖をたっぷりね」
砂糖の袋を手に取り、惜しげもなく器へと傾けていく。ざらざらと、白い粒が生地に降り積もっていく。
「…ちょっと…多いんじゃない?」
ずっと隣で覗き込んでいたピムが、遠慮がちに声を上げた。
「あら甘さに妥協は禁物よ。砂漠の人には分からないかもだけど」
「うーん、そういうもの?」
「そういうものよ」
ルシエラはきっぱりと言い放ち、ドバドバと砂糖を洪水のように放っていく。
「わあ……」
ピムの小さな声は聞こえない。
そうして木べらで力強く混ぜ合わせ、生地をまとめていく。手のひらで丸め、鉄板の上に並べていく。不揃いな円が、ずらりと並んだ。
「少し不格好ね。型があればよかったけど」
それでも、ルシエラの手つきは迷いがなかった。
かまどの火に鉄板を置き、蓋代わりに別の鍋の蓋を被せる。我ながら即興の解決策だと思ったが、熱が逃げなければそれでいい。
「もう出来るのか」
カウンター越しに、エリオットが興味なさそうな顔をしながら問いかけてくる。興味なさそうにしている割には、ずっとこちらを眺めていることに、ルシエラは気づいていた。
「大体七、八分って所かしら。焦がさないように火加減を――」
かまどを管理しながら、ルシエラは手を動かし続ける。
やがて、焼けた小麦粉の香りが、薄暗い厨房に漂い始めた。
甘さは……ない。
だが、温かみのある香ばしさが、鼻の奥をくすぐるように満ちていく。
「いい匂いじゃない」
ルシエラは満足気に呟いた。
キャンディ王国の空気はいつも砂糖やバニラといった甘い香りに包まれている。
今漂うのは純粋な甘さではなく、もっと素朴で地味な香りだ。
鍋蓋を少し持ち上げて確認すればクッキーの表面に、うっすらと焼き色がついていた。
さらに数分待ち、鉄板を火から下ろした。
鉄板の上には、見事に焼き上がったクッキーが並んでいる。
「出来たわよっ!!」
ルシエラは、これ見よがしに腰に手を当て、エリオットを振り返った。
「さあ、食べなさいなっ! これが本物の甘さよ。あなた達が今まで食べてきたものとは格が違うんだから、覚悟しておきなさいっ」
「はいはい」
エリオットがのんびりと立ち上がり、厨房まで歩いてくる。
ピムも目を輝かせながらクッキーを見つめていた。
「わあ、美味しそう!」
「当たり前でしょう。私のお菓子に美味しくないものなんてないんだから」
ルシエラは躊躇いもなく焼きあがったクッキーを手に取った。
自分でまず確かめるのが、菓子職人としての礼儀だ。
ぱくり。
咀嚼する。
じわり、と何かが広がる。
あの飴と同じ、妙な不思議な感覚――。
甘いはずの生地の、奥の奥から、ぞわりと強烈な何かが押し寄せてくる。
じわりじわりと、舌の端が引き攣る。
飴の時に感じたあの刺激が、今度は比べ物にならない量で押し寄せてくる。
「…………っ、!?」
ルシエラの表情が、見る間に複雑に歪んでいった。眉が寄り、目が見開かれ、口角が引き攣り、あらゆる筋肉が一斉に混乱を訴え始めた。
「……所でお嬢さんよ。一応見てたが、お嬢さんが砂糖だってバカみたいに突っ込んでいたあれ……」
エリオットが、飴玉を差し出しながら言っていた言葉が、頭の中でゆっくりと蘇ってくる。
「でもこれってさ、クッキーじゃなくて、塩の塊だよね」
ピムの一言によって、沈黙が厨房に落ちた。
「……」
ルシエラの頬に、じわじわと赤みが差してくる。
「普通は舐めれば分かるんだがな…」
――しお。
その二文字が頭の中で反芻していく。
「ぎゃあああああああああああああああッッ!!?」
絶叫。
厨房に響き渡るルシエラのこの世のものとは思えない悲鳴。
ルシエラは反射的にクッキーを吐き出していた。
「ぺっ!! ぺっ!! ぺええええええッ!!」
舌を出しながら、喉元を押さえる。
「なにこれッ!? なにこれなにこれなにこれぇぇッ!!?」
エリオットとピムは、耳を塞ぎながらルシエラの独り芝居を眺めていた。
「痛いッ!! 舌が痛いわッ!! 何かが刺さってるッ!! 味が暴れてるッ!!」
ビリビリとする口内を、ぱたぱたと手で仰ぎながら冷ましていく。。
「大丈夫? 食べ物で死にそうな顔するなんて面白いね」
「食べ物じゃないッ!!」
ピムの呑気さと、ルシエラの必死さはあまりにも対照的で、傍から見れば滑稽以外の何者でもない。
「こんなの食べ物じゃないわッ!! 兵器よッ!! 罠よッ!! 毒物よッ!!」
「いやクッキーだろ。お嬢さんが立派に作り上げた」
「違うッ!! 絶対違うッ!!」
ルシエラは震える指で、鉄板の上を指差した。
「これの中に何を入れたの!? なに!? なに混ぜたのよ!? 砂漠の呪い!? 毒草!? 謎の粉末!?」
「お前が入れたんだろ」
エリオットの冷静な突っ込みに、ルシエラの顔が真っ赤に染まっていく。
「~~~~っ、そんなこと知らないわよっっ!!」
ばんっ!! と勢いのままに、テーブルを叩いていた。
「舐めたわっ!! でもこの土地の砂糖はちょっと変な味がするものだと思ったんだもの! だって飴だって変な味がしてたじゃないっ! しおなんて知らないわよっ! しおならしおってちゃんとラベルくらい貼っておきなさいよッ!!」
「貼ってたよ?」
ピムが困ったように笑いながら、棚の扉を指さした。
見れば、確かに小さな文字で「しお」と書かれた紙切れが貼ってある。
「……読めないわよ、この国の文字なんてっ!!」
ルシエラは駄々をこねる子どものように、ぷいと顔を背けた。
エリオットが一瞬の間を置いてから、くっ、と喉の奥で笑い声を噛み殺すのが聞こえた。
「わ、笑ったわねッ!?」
「あーあ、四六時中騒がしいお嬢様だな。ピム、口に直しに干しぶどうでも出してやれ」
「はいよー」
「…一つだけ教えておいてやるよ。ここでは甘いものはご馳走品だからな。普段使いするもんじゃないんだよ」
「ご馳走品……甘いものが?」
ルシエラには謎の言語のように聞こえた。
甘さはキャンディ王国において空気と同じだ。あって当たり前で、ないなど想像したこともなかった。朝目が覚めれば枕元にシュガーポットがあり、水を飲めばそこに蜜が溶けており、歩けば道端の石畳にさえ砂糖菓子の屑が落ちている国だ。
「甘さが…ごちそう…」
もう一度繰り返すが、やはり理解出来ない。
「はい、どうぞ」
固まるルシエラの目の前に、干しぶどうが差し出された。
それは色褪せて皺くちゃで、キャンディ王国の砂糖漬けフルーツとは比べ物にならない不格好さだ。
だが、指先で摘まんで、ひとつ口に入れてみる。
「……」
甘い。
砂糖の甘さではない。じんわりと、果実そのものが凝縮したような、土臭さすら混じった野性的な甘さだ。
舌の奥で、知らない味がじんわりと溶けていくような気がした。
「…………なにこれ」
眉根を寄せながらも、もごもごと口を動かしていく。
甘い。甘いのに、複雑だ。砂糖のように澄んで一本筋の通った甘さではなく、何層にも重なった、もたつくような甘さだ。
不思議と、もう一粒食べたくなった。
「腹も膨らんだろうし、とりあえずお嬢さん。身体洗ってこいよ。臭うぞ」
「…は?」
忘れかけていた甘さの残滓も、エリオットのしょうもない一言で霧散していく。




