春の晩餐会
三日後。王室の大広間で春の晩餐会が催された。
貴族たちが勢揃いし、水晶のシャンデリアの下、白亜のテーブルに着く。令嬢たちは絹のドレスに身を包み、若き騎士たちは正装に磨きをかける。
その中心には第三王子とその婚約者が並んで座っていた。
レオンハルトは席に着ついてグラスを手に取った。ワインは赤。薔薇のように赤い。
セシリアは隣に座り背筋を伸ばしていた。だがその手は膝の上で組まれ、微かに震えていた。
「……殿下」
「何だ」
「本当に、よろしいのですか」
「ああ。始めよう」
レオンハルトは立ち上がった。
大広間が静まり返った。貴族たちが一斉に注目する。第三王子が宴の途中で立ち上がるなど前例がない。
「皆様、本日はお集まりいただき感謝する」
彼の声は大広間の隅々まで届いた。
「本日、一つお伝えしたいことがある。僕、第三王子レオンハルト・フォン・クラインフェルトはこの八年間、侯爵令嬢セシリア・フォン・ローゼンベルクを婚約者として縛ってきた。これは僕の利己的な行いであり、彼女の意思を一切尊重しなかった」
ざわめきが広がった。貴族たちが顔を見合わせる。侯爵夫妻が青ざめた。
「殿下!何を仰って――」父であるローゼンベルク侯爵が席を立った。
「黙って聞け」
レオンハルトの声は静かだが、王者の威厳を含んでいた。侯爵は言葉を詰まらせる。
「彼女は八年間、一度も笑わなかった。それは僕が彼女から自由を奪ったからだ。僕は彼女に婚約者の義務を課し、彼女自身の望みを押し殺させた。この罪は断罪されるべきだ」
大広間が凍りついた。
レオンハルトはセシリアに向き直り片膝をついた。
「セシリア・フォン・ローゼンベルク。僕を断罪してほしい。僕は君の婚約者としてふさわしくない。そのことを、君の口で」
全員の視線がセシリアに集まった。
彼女は立ち上がった。八年間培った礼儀作法が足を支えた。だが心の中は激しく揺れていた。
断罪すれば自由になれる。彼が望んだ通りに。彼が悪者になり、彼女が被害者になり、すべてが丸く収まる。
しかし
「殿下」
セシリアの声は静かだった。大広間の静寂の中、鈴のように澄んでいた。
「私は……あなたを断罪しません」
レオンハルトの目が見開かれた。
「……何?」
「あなたがふさわしくない、などと言いません。あなたは……ふさわしい方でした。八年間、私に一度も無理を強いなかった。私が笑わなかったのは、私自身の怯えでした。あなたのせいではありません」
大広間がざわめいた。貴族たちが囁き交わす。
「ならば、なぜ笑わなかった」
レオンハルトの声が掠れた。
「笑えば、籠の中で好きになってしまうと思ったから。あなたの隣にいることを、好きになってしまう。そう思ったから。そうしたら、自由になりたいという望みと、あなたの傍にいたいという望みが、両方できて――どちらも選べなくなると、思ったから」
セシリアの声が震えた。だが止まらなかった。
「だから笑わなかった。感じないことにした。そうすれば…どちらも失わずに済むと」
レオンハルトは片膝をついたまま彼女を見上げていた。
「……今、言ってくれた」
「ええ」
「今、笑ってくれた」
セシリアは気づいた。自分の唇が微かに弧を描いていることに。八年間、決して描かなかったその曲線が今、確かにそこにはあった。
「……笑ってしまいました」
「ああ」
「もう、戻れないかもしれません」
「戻らなくていい」
レオンハルトは立ち上がり手を差し出した。
「僕も正直に言おう。僕は君に断罪されたいと望んでいた。だがそれは嘘だった。本当は、君に向き合いたかっただけだ。君の声が、君の望みが、君の感情が、聞きたかっただけなんだ」
「……それは、断罪ではなく愛ではありませんか」
大広間が息を呑んだ。
レオンハルトは微かに笑った。彼もまた八年間で初めて婚約者の前で笑った。
「そうだ。気づくのが遅かった」
セシリアは差し出された手を見つめた。
自由になりたかった。籠を出たかった。だが籠の中にいたのは彼だけではなかった。彼女自身もまた自分の心に籠を作っていた。
自由とは籠の外に出ることではない。
自分の望みを自分の口で言えることだ。
セシリアは手を伸ばす。その手は震えていた。だが確かに、の手に触れた。
「殿下」
「レオンハルトでいい」
「レオンハルト。私の望みを、言ってもいいですか」
「言ってほしい」
「私は自由になりたい。でも、あなたの隣で自由になりたい。それは……許されますか」
「許される。許す。僕が許す。僕が望む」
二人の手が握られた。
大広間の静寂が破れ拍手が起こった。最初は一人だった。それが、やがて大広間全体がふたつの手を包んだ。




