2本目の亀裂
翌日、セシリアは王宮の東庭に呼び出された。
「殿下がお呼びです」
伝令の言葉に彼女は得体の知れない予感を覚えた。八年間レオンハルトが彼女を能動的に呼び出したことは数えるほどしかない。
東庭は薔薇園になっていた。季節はまだ早いが、南国から取り寄せられた早咲きの薔薇が数輪が赤い花弁を開いている。
レオンハルトはベンチに腰掛け、何かを待つように静かだった。
「お呼び出し、痛み入ります」
セシリアは完璧な礼をとった。背筋が伸び、スカートの裾が正確に広がる。八年間で体に染みついた動作だ。
レオンハルトは立ち上がり、彼女を見た。
「……セシリア」
「はい」
「一つ、聞いてほしいことがある」
彼は躊躇った。その躊躇いをセシリアは珍しいと思った。この王子は常に決断を示す男だった。躊躇う姿を見せるのは初めてかもしれない。
「僕は…君の婚約者としてふさわしいだろうか」
セシリアの手が微かに震えた。
八年間で初めての問いだった。
彼女は答えに詰まった。本心を言えば答えは決まっている。だが本心を言えば全てが壊れる。壊したいと願っているのに、その一言を口にする恐怖が、喉を塞いだ。
「……殿下は…王室の御方です。ふさわしくないはずがございません」
「それは答えになっていない」
レオンハルトの声がわずかに強くなった。
「僕は君の意見を聞いているのではない。君の望みを聞いているのだ」
セシリアは目を伏せた。
薔薇の香りが風に乗る。
「私に、望みなどございません」
その声は完璧に整っていた。だが整いすぎていた。まるで何度も練習したかのように、あるいは何度も自分に言い聞かせてきたかのように。
レオンハルトは一歩近づく。
「嘘だ」
「……」
「君は笑わない。八年間、一度も。僕の前で、君は一度も笑わなかった。それが答えだ」
セシリアの唇が微かに動いた。だが声にはならなかった。
「僕は知っている。セシリア、君が自由になりたいことを。この婚約という籠から出たいことを。僕はそれを――」
レオンハルトは息を吸った。
「僕はそれを、君の口から言ってほしいのだ。公の場で。僕を断罪してほしい」
セシリアは顔を上げた。初めて彼女の瞳が揺れた。完璧な仮面に一本の亀裂が入った。
「……何を仰っているのですか…殿下…」
「言った通りだ。次の晩餐会で、僕を婚約者として拒絶してほしい。僕がふさわしくないと、声高に。そうすれば君は自由になれる。家の名誉も守れる。僕が悪者になれば君は被害者になれる」
セシリアは呆然とした。
この王子は自分の破滅を望んでいる。彼女の自由のために、自ら泥を被ろうとしている。
「殿下……それは、あなたの御身のためになりません」
「知っている」
「世間があなたを蔑します」
「知っている」
「王室の信用に関わります」
「知っている」
「ならば――」
「だから、望むのだ」
レオンハルトの瞳は静かだった。春の空のように遠く、それでいてどこまでも透明だった。
「君に返したい。八年間、僕が奪ったものを。君の自由を、君の手で取り戻してほしい。僕を断罪することで」
セシリアはベンチの端に手をついた。膝が震えていた。八年間、彼女が築き上げた完璧な城壁が、内側から崩れ始めていた。
「……殿下。一つだけ聞かせてください」
「何だ」
「私の笑顔を見たことがないと仰いましたね」
「ああ」
「では、私が笑わなかったのは殿下のせいだと…そうお考えですか」
レオンハルトは黙った。
セシリアはゆっくりと顔を上げた。その瞳には初めて感情らしいものが宿っていた。
「違います。私は笑わなかったのではありません。笑えなかったのです。あなたのせいではなく、私自身のせいで。私は……自分の望みを知るのが、怖かったのです」
「……」
「もし笑ってしまえば、もし何かを好きになってしまえば、この籠の中で好きなものを抱えて生きることになる。それが怖くて…何も感じないことにしたのです。殿下のせいではありません」
レオンハルトは息を止めた。
彼はずっと自分が彼女から笑顔を奪ったと思っていた。だがそれは、彼女自身の鎧だったのだ。
「ならば尚のことだ。僕がその鎧を壊す。そして君が笑ってもいい世界を、僕の断罪で作る」
セシリアは首を横に振った。
「それは違います殿下。あなたが断罪される必要はありません。私が自分で――」
「できるのか?」
その問いは残酷なほど正直だった。
セシリアは黙った。できるはずがない。侯爵家の長女が自分の意思で婚約を破棄することなど許されない。
それは分かっている。だからこそ彼女は待っていた。王子の方から破棄してくれるのを。
だがレオンハルトは破棄する側ではなく、破棄される側になりたいと言っている。自ら悪者になることで彼女に自由を渡そうとしている。
「……あなたはお優しいのですね」
セシリアの声は震えていた。
「八年間、気づきませんでした。あなたがそんな方だったと」
「気づかなくていい。ただ断罪してくれ」
「断罪などしたくありません」
「してくれ」
「したくありません!」
声が大きくなった。東庭に響いた。薔薇の花弁が声の波紋に震えた。
セシリアは自分の手で口を覆った。八年間、声を上げたことがなかった。感情を露呈したことがなかった。それが今、崩れた。
レオンハルトは静かに彼女を見ていた。
「……今の声が、君の望みだ」
「……」
「八年で初めて聞いた、君の本音だ。それを僕は聞きたかった。断罪は口実だ。本当は、君の声が聞きたかった」
セシリアの目から一雫の涙が落ちた。
完璧な侯爵令嬢の仮面に、二本目の亀裂が入った。




