セシリアの望み
同時刻。
王宮の北棟、来賓用の客間。
セシリア・フォン・ローゼンベルクは窓辺に腰掛け、刺繍枠を膝に置いていた。針は動いているが視線は遠い。
「お嬢様、お茶が参りました」
侍女のマルタが銀の盆を卓に置く。セシリアは針を止めずに短く答えた。
「ありがとう、マルタ」
「……お嬢様、本日はお顔の色がお優わない。少しお休みになっては」
「休んでいるわ、マルタ。ずっと」
その言葉の奥に微かな響きがあった。マルタはそれを聞き逃さなかったが、あえて何も言わずに茶を注いで退室した。
セシリアは針を止めた。
刺繍の図案は薔薇だった。赤い薔薇。丁寧に、完璧に、何の感情も込めずに縫い上げられた薔薇。
彼女はそれを手に取り、じっと見つめた。
「……きれいね」
その声には何の感嘆もなかった。ただ事実を述べたのみ。
セシリア・フォン・ローゼンベルクは完璧な侯爵令嬢として育てられた。
五歳で宮廷作法を学び、八歳で楽器を習い、十歳で王室の婚約者に選ばれた。以来、彼女は「第三王子の婚約者」として生きてきた。
自分の望みなど一度も口にしたことがない。
好きな花も知らない。好きな曲も知らない。好きな色さえ答えられないかもしれない。
侯爵家の長女として、王室の婚約者として、常に「正しいもの」を選ばされてきたから。
だが彼女の胸の奥には一つだけ、確かな望みがあった。
自由になりたい。
婚約という鎖から解き放たれ、自分の足で歩きたい。どこへ行くのかは分からない。何をするのかも分からない。ただ、自分の意思で一歩を踏み出したい。
だがそれは許されない望みだった。
侯爵家の長女が王室の婚約を破棄すれば家の名誉に関わる。父は許さない。母は泣く。世間は嘲る。
だから彼女は待っている。
王子の方から婚約破棄してくれるのを。
だがレオンハルトは八年間、一度もその気配を見せなかった。彼は淡々と政務をこなし、淡々と婚約者としての義務を果たしていた。
淡々としすぎてセシリアには分からなかった。
彼が何を考えているのか。
そして、自分が何をされるのを待っているのか。




