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高嶺の花は、僕に依存している。〜クソガキだった元幼馴染が手の届かない高嶺の花になっていた〜  作者: 無課金道楽おじさん


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9/9

第7話「隣の部屋から、おかしな音がした」


 五月の中旬になると、夜が少しずつ蒸し暑くなってきた。


 梅雨前のこの時期は、昼間は過ごしやすいのに、夜になると空気が重くなる。窓を開けると虫が入ってくるし、閉めると蒸れる。エアコンをつけるには少し早い。そういう中途半端な季節だった。


 僕は窓を少し開けて、網戸だけにして寝るようにしていた。虫が入ってくることもあったけれど、それよりも空気が通る方が大事だった。弟や妹の世話をしていた頃も、夏になる前のこの時期は、毎年同じように窓の開け方を調整していた。


 氷華は、窓を閉め切って寝ていると言っていた。


 虫が入ってくるのが嫌だから、というのが理由だった。蒸し暑くても、虫よりはマシらしい。


 そういう人間が、夜中に一人でいる部屋に虫が出たら、どうなるか。


 答えは、五月の半ばの深夜に分かった。


---


 時計が深夜の一時を過ぎた頃、壁の向こうで音がした。


 最初は夢の中の音かと思った。でも目が覚めてからも聞こえてくる。何かを叩くような音と、短い悲鳴のような声が混ざっていた。


 起き上がって、壁の方を見た。


 音は続いていた。叩く音と、何かが転げる音と、短い息を呑む音が入り混じっている。普通の物音ではなかった。何かが起きている。


 スマホを見ると、メッセージが来ていた。


 氷華からだった。


 文面は、ひらがなだらけだった。


「でた」


 それだけだった。


 でた、という一言だけ。でも何が出たのかは、聞かなくても分かった。


 ベッドから出て、スウェットのまま部屋を出た。廊下は暗くて静かだった。深夜の廊下は、昼間と全然違う顔をしている。202号室のドアの前に立って、ノックした。


「氷華、開けて」


 返事がなかった。


「氷華」


「……ちょっと待って」


 くぐもった声がした。ドアの向こうから、何かが動く音がした。それから、ドアが少しだけ開いた。


 隙間から氷華が顔を出した。


 顔が青白かった。目が充血していて、今にも泣きそうな顔をしていた。パジャマ姿で、髪が乱れていた。


「開けていい?」


「……開けて」


 ドアを開けた。


 部屋の中は、電気がついていた。深夜なのに、全部の照明がついていた。テーブルの上に乗っていた雑誌が床に落ちていて、椅子が少しずれていた。何かに慌てて動き回った痕跡だった。


「どこに出た?」


「……あそこ」


 氷華が指さしたのは、キッチンの方だった。


 キッチンに向かった。シンクの横、排水口の近くを見た。


 いた。


 黒くて、光沢があって、触角がある。Gだった。それなりに大きい。シンクの端でじっとしていた。


 振り返ると、氷華は部屋の入り口に立っていた。キッチンとの間に最大限の距離を取っていた。足が床についていなかった。いつの間にかテーブルの上に立っていた。


「テーブルに乗らなくていいよ」


「乗らないといられない」


「床にいても大丈夫だよ」


「大丈夫じゃない」


 言い合っている場合じゃなかった。


 引き出しを開けて、ビニール袋を探した。なかった。流しの下を開けると、掃除用品が入っていた。ゴム手袋があった。それをはめて、排水口の近くにあったGをビニール袋に入れた。袋を何重にもして、しっかり縛った。


「捨ててくる」


「……待って」


「なに」


「一人で待てない」


 氷華がテーブルの上から、不安そうな目でこちらを見ていた。


「すぐ戻るよ」


「どのくらい?」


「一分もかからない」


「……急いで」


 ゴミ袋を持って、廊下に出た。アパートのゴミ置き場に捨てて、すぐに戻った。本当に一分もかからなかった。


 部屋に戻ると、氷華はまだテーブルの上に立っていた。僕が戻ってきたのを見て、少しだけ表情が緩んだ。


「捨ててきた」


「……ほんとに?」


「ほんとに。もういないよ」


「確認した?」


「確認したよ」


 氷華はゆっくりとテーブルから降りた。床に足をついて、それでもキッチンの方は見ないようにしていた。


「……シンクの周り、もう出てこない?」


「すぐに出てくることはないと思うけど、念のため薬を置いといた方がいいね」


「薬って何?」


「Gが嫌がる薬。明日ドラッグストアで買ってくる」


「今日は?」


「今日はもう出ないよ。一匹だけだったし」


 氷華は少し考えてから、ソファに座った。テーブルの上よりは落ち着いた場所に移動できた。でも、まだ顔色が悪かった。


「大丈夫?」


「……大丈夫じゃない」


「正直だね」


「大丈夫じゃないから大丈夫じゃないって言ってる」


 そりゃそうだと思いながら、氷華の向かいに座った。深夜の一時過ぎだった。明日も学校がある。でも、今すぐ帰れる雰囲気でもなかった。


「いつから出てた?」


「……さっき起きてトイレに行こうとしたら、キッチンのところにいた」


「それで叩いたの?」


「叩いてない。雑誌で追い払おうとした」


「追い払えた?」


「逃げた。でもどこに行ったか分からなくて、それで湊に連絡した」


 つまり一時間近く、Gがどこかにいる部屋の中で一人でいたということだ。それは怖かっただろうと思った。


「シンクの横にいたんだよ。最初からそこにいたんじゃないかな」


「雑誌で追い払ったら、そこに行ったのかも」


「多分そう」


 氷華はソファで膝を抱えていた。怖がっているのが全身から伝わってきた。学校での神代氷華が見たら、同一人物と思えないくらいの様子だった。


「これで何回目?」


 聞くと、氷華が少し固まった。


「……何回目って、何が」


「僕が助けに来たのが、何回目かなって」


 氷華は黙った。


 数えていたらしく、少し考えてから言った。


「……雷で三回。Gで二回。あと、お化け屋敷の動画を間違えて開いた時に一回」


「合計六回か」


「……多い?」


「多いとは言ってないよ」


 氷華は少し気まずそうな顔をした。


「お化け屋敷の動画は不可抗力だから」


「そうだね」


「雷は天気のせいだから」


「そうだね」


「Gは……出てくる方が悪い」


「そうだね」


 全部肯定すると、氷華が少し笑った。緊張が少し解けた笑い方だった。


「笑うところじゃないけど」


「笑ってないよ」


「笑った」


「……ちょっとだけ」


 氷華はまた膝を抱えて、ソファの背もたれに寄りかかった。


「……怖かった」


「そうだろうね」


「一人で部屋にいるの、怖くなった」


「今日は特に怖かっただろうな」


「うん。どこにいるか分からなかったから」


 氷華の声が、少し小さくなった。本当に怖かったんだろうと思った。一人暮らしを始めてから、こういう時に頼れる相手が近くにいなかった。実家にいれば親に頼めた。でも今は一人だ。だから壁越しに「でた」と一言だけ送ってきた。


「明日、防虫剤買ってくるよ」


「……一緒に行ってくれる?」


「行くよ」


「ドラッグストアって、どこにあるの」


「駅の近くにある。学校帰りに寄ろう」


「うん」


 氷華が少し安心したような顔になった。


 窓の外が、深夜の静けさに包まれていた。街灯の光が薄く差し込んでいた。部屋の中は全部の照明がついていて、眩しいくらいだった。


「電気、消せる?」


「……消さないで」


「全部じゃなくて、一個だけ残して消してもいい?」


 氷華は少し考えてから、頷いた。


 電気を一個だけ残して、他を消した。部屋が少し暗くなった。でも真っ暗ではない。ほんのり明るい、そういう暗さになった。


「これくらいなら大丈夫?」


「……大丈夫」


 氷華は膝を抱えたまま、ソファに座っていた。僕は向かいに座って、特に何も言わなかった。深夜の部屋に、2人でいた。


 しばらくして、氷華が口を開いた。


「……帰らなくていいの?」


「もう少しいるよ」


「明日、学校あるのに」


「大丈夫だよ」


「……ありがとう」


「どういたしまして」


「何回も来てもらってごめん」


「謝らなくていいよ」


「でも」


「こういう時のために隣にいるんだから」


 氷華は黙った。


 少しして、また口を開いた。


「……湊って、虫、怖くないの?」


「怖くはないよ」


「なんで」


「慣れたから」


「どうやって慣れたの」


「弟が虫取りが好きで、毎年夏になると虫かごに色々入れてくるから」


「……それは嫌だ」


「最初は嫌だったけど、慣れた」


 氷華は少し考えた。


「私は慣れない自信がある」


「慣れなくていいよ。隣にいるから」


 その言葉を言ってから、少し言い過ぎたかなと思った。でも訂正する必要もない気がした。本当のことだから。


 氷華は何も言わなかった。でも、膝を抱えていた腕の力が、少し緩んだような気がした。


---


 深夜の二時近くになって、氷華がソファで眠そうにしてきた。


 まぶたが落ちてきては、またぱっと開く。眠いけれど、まだ一人になるのが怖いらしかった。


「眠い?」


「……眠くない」


「眠そうだよ」


「眠くない」


「寝ていいよ。もう出ないから」


 氷華はまた少しの間、目を開けようとしていた。でも限界だったらしく、ゆっくりと目を閉じた。


 しばらくして、寝息が聞こえてきた。


 ソファの上で、膝を抱えたまま眠っていた。寝顔は、学校での神代氷華とも、部屋で僕に向かって拗ねている氷華とも、違う顔だった。ただ眠っているだけの、普通の顔だった。


 布団を持ってきて、氷華にかけた。


 毛布を一枚羽織って、向かいのソファに腰を下ろした。そのまま目を閉じた。


 朝になったら自分の部屋に戻ればいい。今夜はここにいよう。そう思いながら、眠りについた。


---


 朝、目が覚めると、向かいのソファで氷華がじっとこちらを見ていた。


「おはよう」


「……おはよう」


「何時?」


「六時半」


 学校に行く前に、一度自分の部屋に帰って支度する時間は十分あった。


「昨日、ありがとう」


 氷華が言った。朝のぼんやりした声だった。


「どういたしまして」


「ソファで寝てたでしょ」


「うん」


「……ごめん」


「謝らなくていいよ」


「でも」


「今日、学校帰りにドラッグストア寄ろう。防虫剤買ったら、もう少し安心できるから」


 氷華は少し考えてから、頷いた。


「……一緒に行く」


「うん」


「もし次に出たら、また呼んでいい?」


「もちろん」


「何回呼んでも?」


 僕は少し考えてから、答えた。


「何回でも」


 氷華は布団を抱えたまま、少しだけ表情が緩んだ。


「……何回でも、か」


「うん」


「それって」


「それって?」


 氷華は途中で口を閉じた。何かを言いかけて、止めた。


「……なんでもない」


「なんでもなくはなさそうだけど」


「なんでもない」


 氷華は布団をぎゅっと抱えて、視線を落とした。耳が少し赤かった。


 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。


 僕は立ち上がって、借りていた毛布を畳んだ。


「じゃあ、一回部屋に戻るね」


「うん」


「学校行く時、声かけて」


「……声、かけていい?」


「かけて」


 氷華は少し嬉しそうな顔をした。


 ドアを開けて、廊下に出た。朝の廊下は、深夜とは全然違う顔をしていた。明るくて、どこかから朝ご飯の匂いがした。


 自分の部屋に戻りながら、昨日の夜のことを思い返した。


 深夜に「でた」という一言だけのメッセージ。テーブルの上に立っていた氷華。捨てるまでの間、一人で待てないと言った氷華。眠くないと言いながら、ソファで眠ってしまった氷華。


 何回でも呼んでいい、と言った。


 本当のことだった。何回でも来る。隣にいるのだから、それが当たり前だと思っていた。


 自分の部屋のドアを開けながら、ふと思った。


 氷華は「それって」と言いかけて、止めた。「それって何」と聞けばよかったかもしれない。でも聞かなかった。


 聞かなくても、分かっていたから。

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