第7話「隣の部屋から、おかしな音がした」
五月の中旬になると、夜が少しずつ蒸し暑くなってきた。
梅雨前のこの時期は、昼間は過ごしやすいのに、夜になると空気が重くなる。窓を開けると虫が入ってくるし、閉めると蒸れる。エアコンをつけるには少し早い。そういう中途半端な季節だった。
僕は窓を少し開けて、網戸だけにして寝るようにしていた。虫が入ってくることもあったけれど、それよりも空気が通る方が大事だった。弟や妹の世話をしていた頃も、夏になる前のこの時期は、毎年同じように窓の開け方を調整していた。
氷華は、窓を閉め切って寝ていると言っていた。
虫が入ってくるのが嫌だから、というのが理由だった。蒸し暑くても、虫よりはマシらしい。
そういう人間が、夜中に一人でいる部屋に虫が出たら、どうなるか。
答えは、五月の半ばの深夜に分かった。
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時計が深夜の一時を過ぎた頃、壁の向こうで音がした。
最初は夢の中の音かと思った。でも目が覚めてからも聞こえてくる。何かを叩くような音と、短い悲鳴のような声が混ざっていた。
起き上がって、壁の方を見た。
音は続いていた。叩く音と、何かが転げる音と、短い息を呑む音が入り混じっている。普通の物音ではなかった。何かが起きている。
スマホを見ると、メッセージが来ていた。
氷華からだった。
文面は、ひらがなだらけだった。
「でた」
それだけだった。
でた、という一言だけ。でも何が出たのかは、聞かなくても分かった。
ベッドから出て、スウェットのまま部屋を出た。廊下は暗くて静かだった。深夜の廊下は、昼間と全然違う顔をしている。202号室のドアの前に立って、ノックした。
「氷華、開けて」
返事がなかった。
「氷華」
「……ちょっと待って」
くぐもった声がした。ドアの向こうから、何かが動く音がした。それから、ドアが少しだけ開いた。
隙間から氷華が顔を出した。
顔が青白かった。目が充血していて、今にも泣きそうな顔をしていた。パジャマ姿で、髪が乱れていた。
「開けていい?」
「……開けて」
ドアを開けた。
部屋の中は、電気がついていた。深夜なのに、全部の照明がついていた。テーブルの上に乗っていた雑誌が床に落ちていて、椅子が少しずれていた。何かに慌てて動き回った痕跡だった。
「どこに出た?」
「……あそこ」
氷華が指さしたのは、キッチンの方だった。
キッチンに向かった。シンクの横、排水口の近くを見た。
いた。
黒くて、光沢があって、触角がある。Gだった。それなりに大きい。シンクの端でじっとしていた。
振り返ると、氷華は部屋の入り口に立っていた。キッチンとの間に最大限の距離を取っていた。足が床についていなかった。いつの間にかテーブルの上に立っていた。
「テーブルに乗らなくていいよ」
「乗らないといられない」
「床にいても大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない」
言い合っている場合じゃなかった。
引き出しを開けて、ビニール袋を探した。なかった。流しの下を開けると、掃除用品が入っていた。ゴム手袋があった。それをはめて、排水口の近くにあったGをビニール袋に入れた。袋を何重にもして、しっかり縛った。
「捨ててくる」
「……待って」
「なに」
「一人で待てない」
氷華がテーブルの上から、不安そうな目でこちらを見ていた。
「すぐ戻るよ」
「どのくらい?」
「一分もかからない」
「……急いで」
ゴミ袋を持って、廊下に出た。アパートのゴミ置き場に捨てて、すぐに戻った。本当に一分もかからなかった。
部屋に戻ると、氷華はまだテーブルの上に立っていた。僕が戻ってきたのを見て、少しだけ表情が緩んだ。
「捨ててきた」
「……ほんとに?」
「ほんとに。もういないよ」
「確認した?」
「確認したよ」
氷華はゆっくりとテーブルから降りた。床に足をついて、それでもキッチンの方は見ないようにしていた。
「……シンクの周り、もう出てこない?」
「すぐに出てくることはないと思うけど、念のため薬を置いといた方がいいね」
「薬って何?」
「Gが嫌がる薬。明日ドラッグストアで買ってくる」
「今日は?」
「今日はもう出ないよ。一匹だけだったし」
氷華は少し考えてから、ソファに座った。テーブルの上よりは落ち着いた場所に移動できた。でも、まだ顔色が悪かった。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
「正直だね」
「大丈夫じゃないから大丈夫じゃないって言ってる」
そりゃそうだと思いながら、氷華の向かいに座った。深夜の一時過ぎだった。明日も学校がある。でも、今すぐ帰れる雰囲気でもなかった。
「いつから出てた?」
「……さっき起きてトイレに行こうとしたら、キッチンのところにいた」
「それで叩いたの?」
「叩いてない。雑誌で追い払おうとした」
「追い払えた?」
「逃げた。でもどこに行ったか分からなくて、それで湊に連絡した」
つまり一時間近く、Gがどこかにいる部屋の中で一人でいたということだ。それは怖かっただろうと思った。
「シンクの横にいたんだよ。最初からそこにいたんじゃないかな」
「雑誌で追い払ったら、そこに行ったのかも」
「多分そう」
氷華はソファで膝を抱えていた。怖がっているのが全身から伝わってきた。学校での神代氷華が見たら、同一人物と思えないくらいの様子だった。
「これで何回目?」
聞くと、氷華が少し固まった。
「……何回目って、何が」
「僕が助けに来たのが、何回目かなって」
氷華は黙った。
数えていたらしく、少し考えてから言った。
「……雷で三回。Gで二回。あと、お化け屋敷の動画を間違えて開いた時に一回」
「合計六回か」
「……多い?」
「多いとは言ってないよ」
氷華は少し気まずそうな顔をした。
「お化け屋敷の動画は不可抗力だから」
「そうだね」
「雷は天気のせいだから」
「そうだね」
「Gは……出てくる方が悪い」
「そうだね」
全部肯定すると、氷華が少し笑った。緊張が少し解けた笑い方だった。
「笑うところじゃないけど」
「笑ってないよ」
「笑った」
「……ちょっとだけ」
氷華はまた膝を抱えて、ソファの背もたれに寄りかかった。
「……怖かった」
「そうだろうね」
「一人で部屋にいるの、怖くなった」
「今日は特に怖かっただろうな」
「うん。どこにいるか分からなかったから」
氷華の声が、少し小さくなった。本当に怖かったんだろうと思った。一人暮らしを始めてから、こういう時に頼れる相手が近くにいなかった。実家にいれば親に頼めた。でも今は一人だ。だから壁越しに「でた」と一言だけ送ってきた。
「明日、防虫剤買ってくるよ」
「……一緒に行ってくれる?」
「行くよ」
「ドラッグストアって、どこにあるの」
「駅の近くにある。学校帰りに寄ろう」
「うん」
氷華が少し安心したような顔になった。
窓の外が、深夜の静けさに包まれていた。街灯の光が薄く差し込んでいた。部屋の中は全部の照明がついていて、眩しいくらいだった。
「電気、消せる?」
「……消さないで」
「全部じゃなくて、一個だけ残して消してもいい?」
氷華は少し考えてから、頷いた。
電気を一個だけ残して、他を消した。部屋が少し暗くなった。でも真っ暗ではない。ほんのり明るい、そういう暗さになった。
「これくらいなら大丈夫?」
「……大丈夫」
氷華は膝を抱えたまま、ソファに座っていた。僕は向かいに座って、特に何も言わなかった。深夜の部屋に、2人でいた。
しばらくして、氷華が口を開いた。
「……帰らなくていいの?」
「もう少しいるよ」
「明日、学校あるのに」
「大丈夫だよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「何回も来てもらってごめん」
「謝らなくていいよ」
「でも」
「こういう時のために隣にいるんだから」
氷華は黙った。
少しして、また口を開いた。
「……湊って、虫、怖くないの?」
「怖くはないよ」
「なんで」
「慣れたから」
「どうやって慣れたの」
「弟が虫取りが好きで、毎年夏になると虫かごに色々入れてくるから」
「……それは嫌だ」
「最初は嫌だったけど、慣れた」
氷華は少し考えた。
「私は慣れない自信がある」
「慣れなくていいよ。隣にいるから」
その言葉を言ってから、少し言い過ぎたかなと思った。でも訂正する必要もない気がした。本当のことだから。
氷華は何も言わなかった。でも、膝を抱えていた腕の力が、少し緩んだような気がした。
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深夜の二時近くになって、氷華がソファで眠そうにしてきた。
まぶたが落ちてきては、またぱっと開く。眠いけれど、まだ一人になるのが怖いらしかった。
「眠い?」
「……眠くない」
「眠そうだよ」
「眠くない」
「寝ていいよ。もう出ないから」
氷華はまた少しの間、目を開けようとしていた。でも限界だったらしく、ゆっくりと目を閉じた。
しばらくして、寝息が聞こえてきた。
ソファの上で、膝を抱えたまま眠っていた。寝顔は、学校での神代氷華とも、部屋で僕に向かって拗ねている氷華とも、違う顔だった。ただ眠っているだけの、普通の顔だった。
布団を持ってきて、氷華にかけた。
毛布を一枚羽織って、向かいのソファに腰を下ろした。そのまま目を閉じた。
朝になったら自分の部屋に戻ればいい。今夜はここにいよう。そう思いながら、眠りについた。
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朝、目が覚めると、向かいのソファで氷華がじっとこちらを見ていた。
「おはよう」
「……おはよう」
「何時?」
「六時半」
学校に行く前に、一度自分の部屋に帰って支度する時間は十分あった。
「昨日、ありがとう」
氷華が言った。朝のぼんやりした声だった。
「どういたしまして」
「ソファで寝てたでしょ」
「うん」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ」
「でも」
「今日、学校帰りにドラッグストア寄ろう。防虫剤買ったら、もう少し安心できるから」
氷華は少し考えてから、頷いた。
「……一緒に行く」
「うん」
「もし次に出たら、また呼んでいい?」
「もちろん」
「何回呼んでも?」
僕は少し考えてから、答えた。
「何回でも」
氷華は布団を抱えたまま、少しだけ表情が緩んだ。
「……何回でも、か」
「うん」
「それって」
「それって?」
氷華は途中で口を閉じた。何かを言いかけて、止めた。
「……なんでもない」
「なんでもなくはなさそうだけど」
「なんでもない」
氷華は布団をぎゅっと抱えて、視線を落とした。耳が少し赤かった。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
僕は立ち上がって、借りていた毛布を畳んだ。
「じゃあ、一回部屋に戻るね」
「うん」
「学校行く時、声かけて」
「……声、かけていい?」
「かけて」
氷華は少し嬉しそうな顔をした。
ドアを開けて、廊下に出た。朝の廊下は、深夜とは全然違う顔をしていた。明るくて、どこかから朝ご飯の匂いがした。
自分の部屋に戻りながら、昨日の夜のことを思い返した。
深夜に「でた」という一言だけのメッセージ。テーブルの上に立っていた氷華。捨てるまでの間、一人で待てないと言った氷華。眠くないと言いながら、ソファで眠ってしまった氷華。
何回でも呼んでいい、と言った。
本当のことだった。何回でも来る。隣にいるのだから、それが当たり前だと思っていた。
自分の部屋のドアを開けながら、ふと思った。
氷華は「それって」と言いかけて、止めた。「それって何」と聞けばよかったかもしれない。でも聞かなかった。
聞かなくても、分かっていたから。




