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高嶺の花は、僕に依存している。〜クソガキだった元幼馴染が手の届かない高嶺の花になっていた〜  作者: 無課金道楽おじさん


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第6話「高嶺の花は、雨の日だけ傘を忘れる」


 五月に入って、雨が多くなった。


 梅雨にはまだ早い時期だったけれど、週に二回か三回は雨が降った。朝は曇っていても昼から晴れる日もあれば、朝から本降りになる日もある。予報が外れることも多くて、傘を持っていくかどうかの判断が難しい時期だった。


 僕は基本的に折り畳み傘を鞄に入れておくようにしていた。実家にいた頃、弟や妹が傘を忘れて帰れなくなった時のために、予備の傘をいつも持ち歩く習慣がついていたからだ。一人暮らしを始めてからも、その習慣は変わらなかった。


 氷華は、傘を忘れることが多かった。


 最初に気づいたのは、五月に入って最初の雨の日だった。


 朝は曇っていたけれど、天気予報では午後から雨の可能性があると言っていた。僕は折り畳み傘を鞄に入れて登校した。氷華は手ぶらだった。傘を持っていなかった。


 学校に着いてから気になって「傘、持ってきた?」と聞くと、「忘れた」と一言だけ返ってきた。


 その日の放課後、やっぱり雨が降った。


 昼過ぎから空が暗くなって、三限の終わりには窓を叩く音がし始めた。放課後には本降りになっていた。


 教室を出ようとした時、氷華がロッカーの前で立ち止まっていた。傘がない。当たり前だ。朝から持ってきていなかったのだから。


 僕は折り畳み傘を開いた。


「一緒に帰ろう」


 氷華は少し驚いた顔をした。


「傘、一本しかないでしょ」


「だから一緒に入る」


「……狭い」


「狭くないよ」


 氷華は少しの間、外の雨を見ていた。本降りだった。このまま待っていても止む気配はなかった。


「……分かった」


 そう言って、隣に並んだ。


---


 校門を出て、傘を差した。


 折り畳み傘は、2人で入るには少し小さかった。氷華が濡れないようにするには、距離を詰めるしかなかった。自然と肩が触れそうなくらい近くなった。


 氷華は何も言わなかった。


 僕も何も言わなかった。


 ただ、傘を氷華の方に少し傾けながら歩いた。そうすると僕の左肩が少し濡れる。でもそれくらいは構わなかった。


「傘、こっちに向けなくていい」


 氷華が言った。


「向けてないよ」


「向けてる。湊の肩、濡れてる」


「気のせいだよ」


「気のせいじゃない」


 氷華は少し傘を引き寄せようとした。でも引き寄せると僕の方が完全に雨に当たってしまう。結局、元の位置に戻した。


「……無理に濡れなくていい」


「濡れてないよ」


「濡れてる」


「ちょっとだけ」


 氷華は黙った。


 しばらく歩いて、また口を開いた。


「……次から大きい傘持ってくる」


「折り畳みでいいよ」


「でも狭い」


「慣れるよ」


 氷華はまた黙った。


 雨の音が、傘を叩いている。春の雨は温かくて、空気がしっとりしている。桜はとっくに散っていたけれど、雨に濡れた葉が青々としていた。


 住宅街に入ると、人が少なくなった。


 2人分の足音と、雨の音だけが聞こえた。


 氷華の肩が、僕の腕に触れていた。歩くたびに、少しだけ触れる。どちらも何も言わなかった。


「雨、好き?」


 僕が聞くと、氷華が少し考えた。


「……嫌いじゃない」


「でも傘忘れたんじゃないか」


「忘れただけ。雨が嫌いなわけじゃない」


「どのくらいの頻度で忘れるの」


「……そんなに忘れない」


「今日で今月二回目だよ」


 氷華は黙った。


「前回も傘忘れてたじゃないか。あの時は雨が早めに止んだからよかったけど」


「覚えてたの」


「覚えてるよ」


 氷華は少し顔を俯けた。傘の陰になって、表情が見えにくくなった。


「……気づいてたなら言えばよかったのに」


「忘れたのは氷華だから」


「うるさい」


 小さな声で言って、また黙った。


 アパートまでの道を、ゆっくり歩いた。いつもより歩くペースが遅かった。雨の中を急いで歩く必要もないし、傘を共有しているから歩調を合わせなければいけない。自然と、いつもより時間がかかった。


 それが嫌じゃなかった。


---


 アパートに着いた。


 エントランスで傘を閉じた。氷華の制服は、ほとんど濡れていなかった。僕の左肩だけが、少し濡れていた。


「ありがとう」


 氷華が言った。珍しく、すぐにお礼を言った。


「どういたしまして」


「湊の肩、濡れた」


「ちょっとだけだよ」


「ちょっとじゃない。結構濡れてる」


 氷華が、僕の左肩を見ていた。制服の肩の部分が、雨で濡れて色が変わっていた。そこまで濡れていたつもりはなかったけれど、言われてみると確かにそれなりに濡れていた。


「大丈夫だよ。すぐ乾く」


「……ごめん」


「謝らなくていいよ」


「でも」


「次から傘を持ってくれば、謝らなくていい」


 氷華は少し黙って、それから小さく頷いた。


「……持ってくる」


「約束ね」


「約束」


 エレベーターのないアパートの階段を上った。2人で並んで上った。傘を閉じたから、もう肩は触れていない。でも、さっきまでの感触が、まだどこかに残っているような気がした。


 廊下に出た。


 202号室の前で、氷華が鍵を出した。


「今日も夕飯作る?」


「作るよ」


「濡れた服、着替えてきていい?」


「もちろん」


 氷華は部屋に入った。僕も一度自分の部屋に戻って、濡れた制服を着替えた。乾いたシャツに着替えて、また202号室のドアをノックした。


「開いてる」


 入ると、氷華はすでに部屋着に着替えて、キッチンの前に立っていた。


「今日は何作る?」


「何がいい?」


「……シチュー」


「シチューか。少し時間かかるけどいい?」


「いい。雨の日はシチューが食べたい」


 その言い方が、なんだか好きだった。雨の日はシチューが食べたいという、ただの個人の好みが、当たり前のように出てきた。完璧な高嶺の花が、雨の日の夕飯の好みを話している。


「じゃあシチューにしよう」


---


 シチューを作りながら、氷華が隣でじゃがいもを切っていた。


 最近は毎日、一緒に何かを作っている。氷華の包丁さばきが、少しずつ上手くなってきていた。最初の頃は大きさがばらばらだったじゃがいもが、今日はわりと揃っていた。


「じゃがいも、これくらい?」


「ちょうどいいよ。上手くなったじゃないか」


「そう?」


「最初の頃と全然違う」


 氷華は少し得意げな顔をした。褒めると素直に嬉しそうにするのは、変わらない。


「にんじんも切る」


「頼む」


 氷華がにんじんを切り始めた。にんじんは固いから、最初の頃は怖がっていた。でも今は自分からやると言ってくれる。


 シチューのルーを入れて、煮込む時間を待ちながら、2人でテーブルに座った。


「雨、まだ降ってるね」


 氷華が窓の外を見ながら言った。


「うん。夜まで続くみたい」


「明日は?」


「晴れるって言ってた」


「じゃあ傘いらないね」


「明後日また雨らしいけど」


 氷華は少し考えた。


「……ちゃんと持ってく」


「今日の約束、覚えてる?」


「覚えてる。忘れない」


「本当に?」


「本当に」


 氷華が少し強い口調で言った。忘れると思われているのが、少し癪に障ったらしい。


「信じるよ」


「信じてなさそうな言い方」


「信じてるよ」


 氷華はむすっとした顔をしたけれど、それ以上は言わなかった。窓の外の雨を見ていた。


 シチューが煮えてくると、部屋の中にいい匂いが広がった。雨の日の、締め切った部屋の中に、シチューの温かい匂いが広がっていく。


「いい匂い」


 氷華が言った。


「もうすぐできるよ」


「シチュー、久しぶりに食べる」


「実家ではよく食べてた?」


「お母さんが作ってくれてた。市販のルーを使ったやつ」


「これも市販のルーだよ」


「でも美味しい匂いがする」


「具材が多いからじゃないかな」


 氷華は鍋の方を見た。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、鶏肉。自分が切った野菜が入っている。


「私が切ったのも入ってる」


「入ってるよ」


「そしたら半分は私が作ったことになる?」


「なるよ」


 氷華は少し嬉しそうな顔をした。


---


 シチューが完成して、テーブルに並べた。


 外の雨が、窓を叩いている。部屋の中は温かくて、シチューの湯気が上がっていた。向かい合って座って、手を合わせた。


 一口食べた氷華が、すぐに顔を上げた。


「うまい」


「よかった」


「じゃがいも、ちゃんと柔らかくなってる」


「しっかり煮込んだから」


「にんじんも」


「にんじんも」


 氷華は嬉しそうに食べ続けた。雨の日のシチューが、本当に好きなんだろうと思った。食べる速度が、いつもより少し速かった。


「お母さんのシチューと、どっちが美味しい?」


 聞いてから、余計なことを聞いたかなと思った。でも氷華は特に困った様子もなく、少し考えてから答えた。


「……違う美味しさ」


「違う?」


「お母さんのは、実家の味がする。これは、ここの味がする」


「ここの味」


「うん。氷華の部屋の味」


 氷華が「氷華の部屋の味」と言った。自分で自分の名前を使って、この部屋の夕飯の味を表現した。その言い方が、なんだかしっくりきた。


「ここの味、悪くないでしょ」


「悪くない。好き」


 さらっと言った。


 好き、という言葉が、シチューにかかっているのか、それとも別の何かにかかっているのか、判断がつかなかった。でも聞き返さなかった。


 雨の音が続いていた。


 食べ終えて、洗い物をして、帰る前に氷華が言った。


「明日も晴れるなら、一緒に帰れないね」


「帰り道は一緒でもいいじゃないか」


「……学校で一緒に帰ったら、変に思われない?」


「変じゃないよ。同じアパートなんだから」


 氷華は少し考えた。


「……じゃあ、一緒に帰る」


「うん」


「雨じゃなくても」


「うん」


 氷華は少し満足そうな顔をした。


 ドアを開けて、廊下に出た。外の雨音が、廊下にも届いていた。


「おやすみ」


「……おやすみ」


 自分の部屋のドアを開けながら、ふと思った。


 明後日も雨が降るらしい。氷華は傘を持ってくると言った。でも、本当に持ってくるだろうか。


 持ってきたら、それはそれでいい。


 でも、もし忘れたとしても、折り畳み傘は鞄の中にある。


 電気をつけて、ベッドに腰を下ろした。


 壁の向こうで、かすかに氷華が動く気配がした。


 雨の音が、まだ続いていた。

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