第5話「一週間が、終わらない」
一週間という約束をしたのは、氷華の部屋でカップ麺の容器を手に取った、あの日のことだった。
一週間、僕が面倒を見る。ご飯を作るから、ちゃんと食べること。その間に、少しずつ自炊の仕方も教える。一週間後には最低限のことは自分でできるようにする。
氷華は即答で「うん」と頷いた。
あれから七日が経った。
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朝、目が覚めた時から、今日が最終日だということは分かっていた。
特別な感慨があるかといえば、そうでもなかった。ただ、いつもより少しだけ、起き上がるのに時間がかかった。ベッドに横になったまま天井を見上げて、この一週間のことを振り返った。
最初の日、カップ麺の容器が三つあったテーブル。冷蔵庫にヨーグルトしか入っていなかった。氷華が即答で「うん」と言って、スーパーでパプリカと苺に目を輝かせた。
二日目、肉の切り方を教えた。氷華が「こんなに細かく切るの」と驚いていた。
三日目、オムライスを一人で作った氷華が、半生のまま持ってきた。一言もまずいと言わずに食べた。
四日目、昨日よりずっと上手なオムライスができた。氷華が小さくガッツポーズをした。
五日目、学校で三回つねられた。横っ腹がまだ少し痛い。
六日目、豆腐の冷奴を一人で作れるようになった。醤油をかけただけのものに、氷華が「うまい」と言った。
そして今日が、七日目だった。
起き上がって、いつも通り朝食を作った。いつも通り食べて、いつも通り学校に行った。
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学校では、特に何もなかった。
授業を受けて、休み時間に少し話して、昼ご飯を食べた。氷華は今日も隣の席で、誰とも話さずに前を向いていた。女子が一度だけ僕に話しかけてきた。机の下で軽くつねられた。昨日よりは力が弱かった。
放課後、廊下を歩きながら、氷華が隣に来た。
「今日、夕飯は何作るの」
さらっと言った。まるで何でもないことのように。一週間の最終日だということを、忘れているわけじゃないだろう。それでも、いつも通りの質問をしてきた。
「何がいい?」
「鮭が食べたい」
「じゃあ鮭にしよう」
それだけだった。
一週間の最終日に関する言及は、何もなかった。
僕も何も言わなかった。言う必要がないと思った。言葉にしてしまうと、何かが終わってしまう気がした。
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アパートに戻って、202号室のドアを開けた。
氷華の部屋に入るのが、もうすっかり当たり前になっていた。最初の日、カップ麺の容器を手に取った時の感覚が、もうずいぶん遠い。今は鍵を開けてもらうより先に、どこに何があるかを把握してしまっている。調味料の位置も、フライパンの置き場所も、使いやすい包丁がどれかも、全部分かった。
冷蔵庫を開けると、野菜が入っていた。
最初の日は、ヨーグルトと飲み物しか入っていなかった冷蔵庫が、今は野菜と卵と豆腐が入っている。氷華が自分で買ってきたものだ。冷奴を作るようになってから、豆腐を切らさないようにするようになったらしい。
鮭を取り出した。スーパーで買ってきたものだ。帰り道に寄って、氷華と2人で選んだ。鮭を選ぶ時、氷華が「これが新鮮に見える」と一つ一つパックを手に取って確認していた。先週のスーパーで、パプリカと苺に目を輝かせていた氷華が、今日は鮭のパックを真剣に吟味していた。
少しずつ、変わっている。
「手伝う」
氷華がエプロンをつけて、キッチンに来た。最初の日は見ているだけだった。今週の途中から、隣に立つようになった。
「鮭は今日は焼くだけでいいよ。フライパンで焼いてみる?」
「やる」
氷華がフライパンを火にかけた。油を薄くひいて、鮭を並べる。手順が、一週間前より確実に速くなっていた。フライパンを傾けて、油が均等に広がるようにするところも、自分でやった。
「皮の方から焼くんだよね」
「そう。皮をパリッとさせた方が美味しいから」
「どのくらい焼く?」
「皮の色が変わったら、ひっくり返して」
氷華は鮭を眺めながら、真剣な顔をしていた。フライパンの中の様子を確認して、タイミングを計っている。少しして、ひっくり返した。
「上手いじゃないか」
「……まだ焦げてるか心配」
「焦げてないよ」
鮭が焼けていく間、僕は味噌汁を作った。いつも通りの作業だったけれど、今日はなんとなく、それぞれの動作を少し丁寧にやっていた。だしを丁寧に取って、豆腐を綺麗に切って、味噌の量を少しだけ多めにした。
「できた」
氷華が鮭の皿を持って、テーブルに置いた。綺麗に焼けていた。皮がパリッとしていて、身もしっかりと火が通っていた。一週間前の半生オムライスが、嘘みたいだった。
「上手い」
「ほんとに?」
「ほんとに」
氷華は少し嬉しそうな顔をして、それから照れたように視線を外した。
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夕飯を食べながら、2人とも特に何も言わなかった。
いつもと同じような食卓だった。食器の音と、咀嚼の音と、窓の外の夜の音だけがあった。でも今日は、その静けさの質が少しだけ違った気がした。お互いに何かを意識しているのに、それを言葉にしないでいる。そういう静けさだった。
ご飯を食べ終えて、食器を下げた。
洗い物をしながら、僕は窓の外を見た。すっかり夜になっていた。アパートの周りの家の明かりが、一つずつ点いている。どこかの家族が夕飯を食べている。どこかの家から、テレビの音が聞こえてくる。
洗い物を終えて、布巾で手を拭いた。
鞄を持って、立ち上がった。
「帰るね」
いつも通りの言葉だった。でも今日は、その言葉が少しだけ重く感じられた。
氷華は、テーブルの前に座ったまま、動かなかった。
引き止めるでもなく、送り出すでもなく、ただ黙っていた。テーブルの上の何もない場所を見ていた。
「……うん」
小さな声で言った。
僕はドアに向かった。靴を履いて、ドアノブに手をかけた。
振り返ると、氷華はまだ同じ姿勢でテーブルの前に座っていた。
「おやすみ」
「……おやすみ」
ドアを閉めた。
廊下は静かだった。
自分の部屋、201号室のドアを開けた。電気をつけて、鞄を下ろした。
部屋が、しんと静まり返っていた。
一週間、毎日氷華の部屋に行っていたせいで、自分の部屋がどこか手持ち無沙汰に感じた。実家から引っ越してきた最初の夜みたいな、静かすぎる感覚だった。
ベッドに腰を下ろして、天井を見上げた。
壁の向こうから、何の音もしなかった。
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翌朝、目が覚めた。
いつも通りの朝だった。目覚ましが鳴って、ベッドから起き上がって、顔を洗って、朝食を作った。一人分の朝食を作りながら、今日は学校が終わったらどうするか、ぼんやりと考えた。
一週間の約束は、昨日で終わった。
氷華は鮭を自分で焼けるようになった。冷奴も作れる。オムライスもできる。最低限のことは自分でできるようになった。約束は果たした。
だから、今日から来なくてもいい。
でも。
朝食を食べながら、その言葉を頭の中で繰り返した。今日から来なくてもいい。それは正しいことのはずだった。一週間という約束だった。約束が終わったのだから、来なくてもいい。
なのに、来ない理由が、どこにも見当たらなかった。
食器を洗いながら、窓の外を見た。今日もいい天気だった。桜は、もうほとんど散っていた。
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学校が終わって、アパートに帰った。
廊下を歩いて、202号室の前を通り過ぎようとした瞬間、足が止まった。
止まった理由が、自分でも分からなかった。
ただ、足が止まった。
202号室のドアを見た。何の変哲もない、いつも通りのドアだった。鍵がかかっている。中から音はしない。でも氷華はいるはずだった。
考えるより先に、ノックしていた。
少しして、ドアが開いた。
氷華が立っていた。部屋着姿で、少し驚いた顔をしていた。
「……来たの」
「来た」
「一週間、終わったよ」
「うん」
「なのに来たの」
「来た」
氷華は少しの間、僕を見ていた。
それから、ドアを大きく開けた。入っていいという合図だった。
僕は部屋に入った。いつも通りのルートで、キッチンに向かった。冷蔵庫を開けた。野菜が入っていた。卵も入っていた。豆腐も入っていた。
「今日は何食べたい?」
後ろで、氷華が小さく息を吐く音がした。
「……なんでもいい」
「なんでもいいって言われると困るよ」
「じゃあ、湊が食べたいもの」
「僕が食べたいもの」
「うん」
冷蔵庫の中身を確認しながら、今日何を作るか考えた。玉ねぎがある。卵がある。鶏肉がある。
「親子丼にしよう」
「……うん」
氷華がエプロンをつけて、隣に来た。いつも通りだった。一週間の最終日が昨日あって、でも今日もこうして隣に立っている。何かが変わったわけでも、何かが終わったわけでもなかった。ただ、続いていた。
玉ねぎを切りながら、後ろで氷華がまな板を出す音がした。
「私も切る」
「じゃあ鶏肉頼む」
「鶏肉って、どのくらいの大きさに切るの」
「一口大に。大きすぎず、小さすぎず」
「一口大ってどのくらい」
「自分の口に合わせて」
氷華が鶏肉を切り始めた。最初の日は包丁を持つのも怖そうだったのに、今は自分でやっている。大きさが少しばらばらだったけれど、それはこれから揃えていけばいい。
親子丼が完成して、テーブルに並べた。
向かい合って座って、手を合わせた。いつも通りだった。
食べ始めてしばらくして、氷華が箸を置いた。
「……湊」
「なに」
氷華は少し間を置いた。テーブルの上を見ながら、言葉を選んでいるようだった。
「……まだ、来ていいの?」
小さな声だった。
その質問が、どれだけの重さを持っているか、氷華は分かっていてきいているんだろうと思った。一週間という約束が終わった。なのにまた来た。その意味を確認したいのか、それとも確認することで安心したいのか。どちらでもあるような気がした。
「もちろん」
即答だった。
氷華は顔を上げなかった。でも、テーブルの上の親子丼に向けていた視線が、少し柔らかくなったのが分かった。
「……一週間って言ったのに」
「うん」
「終わったのに、来た」
「来たよ」
「なんで」
僕は少し考えてから、答えた。
「来たかったから」
氷華は黙った。
長い沈黙の後、また箸を持った。親子丼を一口食べた。
「……美味しい」
「よかった」
「鶏肉、ちゃんと火通ってた?」
「通ってたよ。上手く切れてた」
「ほんとに?」
「ほんとに」
氷華は少し安心したような顔をした。それから、また黙々と食べ始めた。
窓の外が、少しずつ暗くなっていった。夜の始まりを告げる鳥の声がした。遠くで子どもが笑っている声がした。
テーブルの上に、親子丼が二つ並んでいた。一週間という約束が終わった翌日の夕飯だった。でも何も変わっていなかった。いつも通りの食卓で、いつも通りの2人がいた。
食べ終えて、洗い物をして、帰る前に氷華が言った。
「……明日も来るの?」
「来るよ」
「明後日も?」
「来るよ」
氷華は少しの間、僕を見ていた。
それから、視線を落として、小さく言った。
「……分かった」
その「分かった」が、なんだか嬉しかった。
ドアを閉めて、廊下に出た。自分の部屋のドアを開けながら、壁の向こうを意識した。
昨日の夜は、壁の向こうから何も聞こえなかった。今夜は、どうだろう。
電気をつけて、ベッドに腰を下ろした。
一週間という約束が終わった。でも何も終わっていなかった。むしろ、ここから始まるような気がした。
壁の向こうで、かすかに物音がした。
氷華が動いている気配がした。
それだけで、十分だった。




