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高嶺の花は、僕に依存している。〜クソガキだった元幼馴染が手の届かない高嶺の花になっていた〜  作者: 無課金道楽おじさん


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第4話「高嶺の花は、机の下で僕をつねる」

 翌日の夕方、約束通り氷華の部屋に行った。


 玄関を開けると、すでにエプロンをつけた氷華がキッチンに立っていた。今日は朝から音がしていなかった。代わりに、僕が来るのを待っていたらしい。テーブルの上には材料が並んでいた。卵、ご飯、ケチャップ、それから玉ねぎとケチャップライスの具材になりそうなもの。包丁とまな板もすでに出してあった。昨日よりずっと整っていた。


「準備、できてる」


「早いね」


「待ってたから」


 その言い方が、なんだか少し可愛かった。待っていたという一言に、昨日の悔しさを今日にぶつけようという気持ちが滲んでいた。


「じゃあ始めようか」


 昨日教えた通り、まず卵を溶く。塩を少し入れる。フライパンを温めて、油を薄く広げる。氷華が一つ一つの工程を、真剣な顔で見ていた。学校では何を見ても表情一つ変えない氷華が、卵を溶く僕の手元を、まばたきも惜しいくらいに見つめている。


「卵を入れたら、すぐにかき混ぜなくていいの?」


「半熟になるくらいで止めて、すぐに火から外す。あとは余熱で固まるから」


「……難しい」


「難しくないよ。やってみよう」


 卵をフライパンに入れた。氷華が見ている前で、軽くかき混ぜて、半熟の状態で火を止めた。皿に盛ったケチャップライスの上に、卵をそっと乗せる。


「これだけ?」


「これだけ」


「巻かなくていいの?」


「巻かなくていい。かぶせるだけでいいんだよ」


 氷華は皿の上のオムライスを見て、少し信じられないという顔をした。昨日あれだけ苦戦していたものが、こんなに簡単な工程でできることに驚いているようだった。


「……これだけのことで、あんなに何回もやり直してたの」


「巻こうとして崩れてたんでしょ」


「うん」


「巻くのが一番難しいから、最初は無理しなくていいよ」


 氷華はじっと完成したオムライスを見ていた。それから、自分の中で何かを整理するような顔をした。


「じゃあ、私もやってみる」


「やってみよう」


 氷華が卵を溶いて、塩を入れて、フライパンに油をひいた。昨日より手元が安定していた。一晩経って、忘れていなかったらしい。卵をフライパンに入れて、僕が指示した通りに軽くかき混ぜた。半熟になったところで、火から外す。


「……できた?」


 皿のご飯の上に、そっと卵をかぶせた。


 手が少し震えていた。緊張しているのが分かった。皿の上に卵を置く瞬間、まるで何かの儀式みたいに丁寧な手つきだった。


 今度は、ちゃんと固まっていた。表面に光沢があって、でも崩れる感じはない。中のご飯も、しっかりと火が通っているのが見て分かった。ケチャップをかけて、完成させた。


 氷華が皿を持って、僕に差し出した。


「食べてみて」


 今度は、迷いのない手つきだった。皿を差し出す手が、さっきの料理中とは違って、しっかりしていた。


 一口食べた。卵がちゃんと固まっていて、ご飯にも芯が残っていない。味付けもちょうどいい。昨日のものとは、全く違う出来だった。


「美味しいよ」


「……ほんとに?」


「ほんとに。今度は嘘じゃないよ」


 氷華の表情が、ぱっと変わった。今までで一番素直な笑顔だった。学校で見るどの顔とも違う、ただ嬉しいという感情がそのまま出ている顔だった。


「やった」


 小さくガッツポーズをして、それから恥ずかしくなったのか、すぐに手を下ろした。両頬がほんのり赤くなっていた。


「明日も作る」


「いいね」


「自分で作れるようになったら、湊が来なくても大丈夫になる」


 その言葉に、少しだけ引っかかった。


 湊が来なくても大丈夫になる。それは喜ぶべきことのはずだった。氷華が自立できるようになるのだから。そもそもそれが一週間という約束の本来の目的だった。最低限のことが自分でできるようになるまで、面倒を見る。そういう約束だった。


 なのに、なぜか少し寂しい気持ちが、胸の奥に芽生えた。


 言わないでおいた。


 今この瞬間、氷華が自分でオムライスを作れたことを喜んでいる。その喜びに、自分の小さな寂しさを混ぜる必要はなかった。


「いいことだよ。どんどん上手くなって」


「うん」


 氷華は嬉しそうに、もう一度キッチンを見た。今日学んだ手順を、頭の中で復習しているような目だった。


---


 翌日の学校で、その違和感の正体に気づくことになった。


 休み時間、教室は賑やかだった。新学期が始まってまだ間もないこともあって、まだお互いをよく知らない生徒たちが、それでも徐々に話す相手を増やしている時期だった。隣の席で氷華は相変わらず前を向いて、誰とも話さずに過ごしていた。学校での神代氷華は、徹底して周りと距離を置いている。


 休み時間になっても、誰も気軽に話しかけてこない。当然のことだった。入学式の壇上に立って、完璧な代表挨拶をした人だ。近づきがたいという空気を全身から放っている。


 僕の方には、女子が時々話しかけてくる。これも別に不思議なことではなかった。垂れ目で締まりのない顔は、女子からすると話しかけやすい雰囲気らしい。実家でも、近所の女子たちから何かと声をかけられることが多かった。


「真壁くん、宿題終わった?」


 クラスの女子の一人が、ノートを持って僕の席に来た。隣に座っていた氷華が、こちらをちらりと見たような気がした。気のせいかと思った。


「まだ終わってない。今からやるところ」


「えー、私も全然進んでないんだよね。範囲どこまでだったか覚えてる?」


「確か三章の最後まで」


「ありがとう!」


 女子は嬉しそうにお礼を言って、自分の席に戻っていった。ただの宿題の確認だった。それ以上の意味は何もない、ごく普通のやり取りだった。


 その瞬間だった。


 机の下で、何かが横っ腹をつねった。


 強い力だった。思わず声が出そうになって、慌てて呑み込んだ。横を見ると、氷華は相変わらず前を向いていた。表情は変わらない。氷の令嬢のままだった。教科書を眺めているふりをしていた。


 でも、机の下の手は、確実に僕の横っ腹をつねっていた。


 小声で言った。


「……痛いよ」


 氷華は何も答えなかった。前を向いたまま、視線も動かさなかった。でも手は離れた。離れる時、少しだけ力が緩んで、それから完全に消えた。


 次の休み時間、また別の女子が話しかけてきた。


「真壁くん、消しゴム持ってる? 忘れちゃって」


「持ってるよ。はい」


 消しゴムを渡すと、女子は「ありがとう」と言って帰っていった。


 その直後、また机の下で横っ腹をつねられた。


 今度はさっきより強かった。


「いっ……」


 小さく声が出た。氷華の方を見ると、相変わらず無表情で前を向いている。誰も気づいていない。教室全体は普段通りの空気が流れていて、隣の席で何が起きているかを知っているのは、僕だけだった。


「……つねらないでよ」


 小声で言った。


 氷華は答えなかった。でも、心なしか頬が少し赤くなっているような気がした。気のせいかもしれない。


 昼休みになった。


 弁当を食べながら、僕はそっと氷華の手元を見た。氷華は弁当を黙々と食べていた。最近は弁当も自分で作っているらしく、おかずの種類が日に日に増えていた。今日は卵焼きが入っていた。少し焦げていたけれど、自分で作ったものだろう。


 誰も話しかけてこない時間は、何も起きない。当たり前のことだ。氷華が静かに過ごせるのは、誰も近づいてこないからだ。


 午後の授業が始まった。


 三回目は、午後の授業の合間だった。


 別の女子が、僕に何かを聞いてきた。授業の内容についての質問だった。「ここの公式、もう一回教えて」という、ただの勉強の確認だった。答えると、女子は「ありがとう、助かった」と言って戻っていった。


 机の下で、今度は本当に強くつねられた。


「っ……痛いって」


 今度は思わず大きめの声が出てしまった。前の席の生徒が少し振り返った。先生もちらりとこちらを見た。


「真壁、大丈夫か」


「大丈夫です、すみません」


 慌てて取り繕った。授業が再開されると、僕は痛む横っ腹を片手で押さえながら、隣を見た。


 氷華は涙目になりながらも、表情だけは完璧に無表情を保っていた。涙目になっているのに無表情というのは、なかなか不思議な光景だった。目には水分が溜まっているのに、口元は引き締まっていて、姿勢も崩れていない。それでもギリギリのところで何かを抑えているのが分かった。


「……ごめん」


 氷華が小さく言った。声が震えていた。


 でも、つねった手は離さなかった。しばらく僕の横っ腹を掴んだまま、それから少しずつ力を緩めて、ようやく離れた。


 離れた後、氷華は何事もなかったかのように、ノートに視線を戻した。


 その様子を見ながら、僕は何となく理解した。氷華の中で、何かが抑えきれなくなっているらしい。誰かと話すたびに、氷華の中で何かが反応する。それを止めようとしているけれど、止めきれずに机の下の手だけが動いてしまう。


 学校での氷華は、感情を完全に表に出さない訓練を六年間積んできた。でも机の下だけは、訓練の範囲外だったらしい。


---


 放課後になって、教室を出る時、氷華が無言で隣を歩いてきた。


 学校では一緒に帰ることはなかった。いつも別々に出て、アパートで合流する形だった。でも今日は、最初から隣を歩いていた。教室を出る時から、自然に僕の隣にいた。


 校門を出て、人通りが減ったところで、ようやく口を開いた。


「……つねってないし」


 いきなりそれを言ってきた。前置きも何もなく、唐突だった。


「つねってたよ」


「つねってない」


「三回も」


「数えてないし」


「僕は数えてたよ。一回目は宿題の話の時、二回目は消しゴムの時、三回目は授業の質問の時」


 氷華は黙った。図星を突かれた顔だった。視線がわずかに揺れて、それから足元に落ちた。


「……うるさい」


「うるさくないよ。本当のこと言ってるだけ」


「言わなくていい」


 氷華は少し顔を逸らした。歩くペースが少しだけ速くなった。


 僕はそのペースに合わせて歩いた。


「なんでつねるの」


「つねってないって言ってる」


「つねってたじゃないか」


 氷華は黙った。しばらく無言で歩いた。アパートまでの道のりは、いつもより長く感じられた。住宅街を抜ける道、いつも見ている桜の木、いつも聞こえる遠くの工事の音。それらが全部、いつもより遅く流れているように感じた。


「……女子と話してたから」


 ようやく、小さな声で言った。


「宿題のこととか、消しゴムのこととか、ただの普通の会話だよ」


「分かってる」


「分かってるなら」


「分かってても、嫌なの」


 氷華の声に、少しだけ感情が滲んでいた。


 僕は少し驚いた。氷華がここまで明確に言葉にするのは、珍しいことだった。学校では完璧に無表情を保っていたから、その裏でこんなに葛藤していたとは思っていなかった。


「嫌って、何が」


「湊が他の女子と話してるのが」


 歩くペースが、また少し速くなった。


「みんな普通に話しかけてくるだけだよ」


「分かってる。だから余計に嫌なの」


「余計にって」


 氷華は立ち止まった。


 僕も立ち止まった。


 夕暮れの道路に、2人だけが立っていた。さっきまでの人通りも、もうほとんどなかった。風が吹いて、桜の花びらが舞った。今年の春は、桜が散るのが遅い。それでも一日ごとに、花びらが少しずつ少なくなっていく。


 氷華は、しばらく僕の顔を見なかった。視線を地面に落としたまま、何かを考えているようだった。両手をスカートの裾あたりでぎゅっと握っているのが見えた。


 それから、ぽつりと言った。


「……私だけを見て」


 その一言が、夕暮れの空気の中に静かに落ちた。


 言い訳もなく、条件もなく、ただそれだけを言った。前置きもなければ、後付けの言葉もなかった。氷華にしては珍しく、ストレートな言葉だった。


 誰と話してもいいけど、とか。そういう前置きすら、なかった。ただ「私だけを見て」と言った。それだけだった。


 言った後、氷華は自分の言葉に気づいたのか、急に顔を赤くした。


「……あ」


 何かを取り消そうとするように、口を開いた。でも続きが出てこなかった。


 僕は、その言葉をしばらく頭の中で繰り返した。


 六年間、ずっと氷華のことを考えていた。何かを見るたびに、これは氷華に似合うかなと考えていた。それと同じくらいの重さで、今の一言が胸の中に落ちてきた。


 言葉を返そうとしたけれど、氷華が先に動いた。


「……今のは、忘れて」


 そう言って、足早に歩き始めた。アパートに向かって、僕を置いていくような速さだった。


 僕はその背中を、しばらく見ていた。


 耳が、夕暮れの光の中でもはっきりと分かるくらい、赤くなっていた。


 追いかけなかった。


 今は、何も言わない方がいい気がした。


 六年分の感情が、たった今、一言だけこぼれた。それを大事に持って帰りたいと思った。下手に言葉を重ねたら、その重さが軽くなってしまうような気がした。


 追いついたのは、アパートの入り口だった。氷華はもう鍵を取り出していて、僕の方を見ようとしなかった。


「今日も夕飯、作る?」


 声をかけると、氷華の肩がぴくりと動いた。


「……作る」


「じゃあ行くよ」


 氷華は何も言わずに、202号室の鍵を開けた。


---


 部屋に入ると、いつものようにキッチンに立った。今日は氷華が自分で材料を準備していた。昨日教えたオムライスの作り方を、また一人で実践しようとしている。


 でも、手が少し震えているように見えた。


 さっきの一言が、まだ氷華の中に残っているらしかった。僕の中にも、まだ残っていた。


 卵を割る音が、部屋の中に響いた。氷華の手元を見ながら、僕は何も言わずにいた。さっきの「私だけを見て」という言葉について、何も触れなかった。氷華もそれに触れようとしなかった。


 春の夕暮れが、少しずつ夜に変わっていく。窓の外で、誰かの家族の話し声がした。日常的な音が続く中で、僕たちの間にだけ、少し違う空気が流れていた。


 言葉にしてしまったことは、もう取り消せない。


 氷華も、それを分かっているはずだった。取り消せると思っていないからこそ、「忘れて」という言葉を使ったのだろう。忘れられるはずがないことを、お互いに分かっていた。


「卵、入れていい?」


 氷華の声が、いつもより少し小さかった。


「うん、いいよ」


 フライパンに卵を流し込む音がした。じゅっという音が響いて、それから少しの静寂があった。氷華が卵をかき混ぜる手元を、僕は黙って見ていた。


 今日のオムライスは、昨日よりさらに上手にできた。卵がきちんと固まって、ご飯にも芯が残っていなかった。氷華が皿を僕の前に置いた時、その目はさっきまでとは違う種類の緊張を含んでいた。


「……食べて」


 小さな声だった。


 僕は一口食べた。


「美味しいよ」


 氷華は何も言わなかった。でも、頬が少し緩んだのが分かった。安心したような、それでも何かをまだ引きずっているような表情だった。


 テーブルの上に、オムライスの皿が二つ並んでいた。向かい合って食べる夕飯が、もう何日も続いていた。最初は一週間という約束だった。でも、その約束のことを、もう誰も口にしなかった。


「……明日も、つねるかもしれない」


 氷華が、ぽつりと言った。箸を置いて、テーブルの端を見ながら言った。


「いいよ」


「いいの?」


「数えるけど」


 氷華は少し笑った。今日初めての笑顔だった。学校でも家でも、ずっと張り詰めていた何かが、少しだけ緩んだような笑顔だった。


「……数えなくていい」


「数えるよ」


 氷華は箸を持ち直して、また食べ始めた。窓の外が、完全に夜になっていた。


 氷華の部屋に、また一日分の温かさが積み重なっていった。机の下でつねられた横っ腹は、まだ少しだけ痛かった。でも、その痛みが嫌じゃなかった。


 六年間、氷華のことだけを考えてきた。氷華も、僕のことだけを六年間考えてきたらしい。学校では誰にも見せない表情を、僕にだけ見せてくれる。机の下でだけ、抑えきれない気持ちを見せてくれる。


 それで十分だった。


 今はまだ、それで十分だった。

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