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高嶺の花は、僕に依存している。〜クソガキだった元幼馴染が手の届かない高嶺の花になっていた〜  作者: 無課金道楽おじさん


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3話「高嶺の花の、初めての手料理」

 氷華の部屋に来るようになって、三日が経った。


 最初の日に「一週間面倒を見る」と言った。氷華が即答で「うん」と頷いた。それから毎日、学校が終わるとアパートに帰って、氷華の部屋のキッチンに立つ。冷蔵庫の中身を確認して、足りないものを買い足して、夕飯を作る。氷華は最初の日こそキッチンの入り口で見ていたけれど、二日目からはソファに座って待つようになった。三日目の今日は、僕が来る前から部屋を少し片付けていた。カップ麺の容器が消えていて、テーブルが拭かれていた。言わなくてもやるようになってきている。


 少しずつ、変わっている。


 今日の夕飯は鶏の照り焼きだった。簡単で、栄養が取れて、ご飯が進む。作りながら後ろで氷華が「それどうやって味付けするの」と聞いてきた。醤油とみりんと砂糖を合わせると教えると、「それだけでいいの」と少し驚いていた。料理というのは案外シンプルなものだということを、氷華はまだ知らないらしい。


 食べながら氷華が「明日は何作るの」と聞いてきた。


 まだ三日目なのに、もう明日の話をしている。それが少し嬉しかった。最初の日に「また作ってくれる?」と聞いてきた時から、氷華の中で何かが変わり始めているのかもしれない。毎日ちゃんとしたご飯が食べられることを、少しずつ当たり前だと思い始めているのかもしれない。


 食べ終えて、食器を洗って、僕は自分の部屋に戻った。


 一週間のうち、残りはあと四日だった。


---


 翌朝、目が覚めると、壁の向こうで音がしていた。


 最初は夢の中の音かと思った。でも目が覚めてからも聞こえてくる。何かを叩くような音。包丁がまな板に当たる音だと気づくまで、少し時間がかかった。それからフライパンが火にかかる音がして、続いて何かが焦げるような匂いが、薄く漂ってきた。


 時計を見ると、朝の九時だった。


 休日だ。今日は学校がない。昨日の夜、氷華が「明日は何もない」と言っていた。なのに、こんな朝早くからキッチンで何かをしている。


 僕はベッドに横になったまま、壁の向こうの音に耳を傾けた。


 包丁の音が続いている。リズムが一定じゃない。速くなったり遅くなったり、時々止まったりする。慣れていない人間が包丁を使っている音だ。それから油が跳ねる音がした。フライパンに何かを入れたらしい。じゅっという音の後、しばらく何かが焼ける音がして、それから静かになった。


 少しして、また包丁の音が始まった。


 やり直している。


 そう気づいた瞬間、僕は起き上がった。声をかけようかと思った。でも止めた。氷華が一人でやっている。それを邪魔する権利は、僕にはない。


 顔を洗って、朝食を作った。自分の部屋で、いつも通りの朝食を作りながら、壁の向こうの音を聞いていた。卵を焼きながら、包丁の音を聞いた。味噌汁をかき混ぜながら、油の跳ねる音を聞いた。


 氷華は、ずっとやり直し続けていた。


 一回目が終わって、二回目が始まった。二回目が終わって、また三回目が始まった。包丁の音のリズムが、回を重ねるごとに少しだけ変わっていった。最初はぎこちなかったのが、少しずつ慣れてきているような気がした。でも焦げる匂いは相変わらずした。何かが上手くいっていないらしかった。


 朝食を食べ終えて、食器を洗いながら、壁の向こうの音を聞いていた。


 声をかけたい気持ちが、何度もあった。


 その度に止めた。


---


 昼を過ぎても、音は続いていた。


 一度だけ、廊下に出る音がした。玄関のドアが開いて、足音が遠ざかっていった。スーパーに行ったのかもしれない。材料が足りなくなったのだろう。しばらくして戻ってくる足音がして、また部屋の中に消えた。買い物袋が床に置かれる音がした。それからすぐに、また包丁の音が始まった。


 何を作ろうとしているのか、僕には分からなかった。


 でも、誰かのために作ろうとしているのだということは、分かった。休日の朝から、一人で何度もやり直して、材料が足りなくなったらスーパーに買いに行って、また作り直して。誰かのために作ろうとしていなければ、そこまでしない。


 昼ご飯は自分で適当に済ませた。


 冷蔵庫にあったもので簡単に作って、一人で食べた。壁の向こうから音が聞こえる中で、一人で食べた。いつもと同じ味だったけれど、なんとなく落ち着かなかった。


 午後になっても、壁の向こうで音がしていた。午前中よりは落ち着いたリズムになっていた。やり直しの回数が減ってきているのか、それとも疲れてきたのか、どちらかは分からない。焦げる匂いは午前中よりも薄くなっていた。少しずつ、何かが上手くいき始めているのかもしれない。


 僕は自分の部屋で本を読みながら、壁の向こうの音を聞いていた。


 声をかけたい気持ちが何度もあった。その度に止めた。


 氷華がやっていることを、氷華がやりきるまで待つ。それが今の自分にできる、唯一のことだと思った。弟や妹の誰かが何かを頑張っている時、僕は途中で手を出さないようにしていた。手を出してしまうと、その子の頑張りを横から取ってしまう気がした。同じことだと思った。


 それに、と思った。


 朝から一人でやり直し続けている。誰に頼まれたわけでもなく、誰かのために。その誰かが僕であることは、ほぼ間違いなかった。だとしたら、その時間を邪魔する権利は、余計に僕にはなかった。


---


 夕方の四時を過ぎた頃、音が止んだ。


 しんと静まり返った。今まで断続的に聞こえていた音が、完全に消えた。疲れて寝てしまったのかもしれないと思いながら、僕は本から目を離して壁を見た。朝から何時間も経っていた。それだけの時間、一人でキッチンに立ち続けていたということだ。


 それから十分ほどして、ドアをノックする音がした。


 僕の部屋のドアだった。


「……開いてる」


 ドアが開いた。


 氷華が立っていた。


 エプロンをつけていた。白いエプロンで、あちこちに何かが飛び散った跡があった。ケチャップか、それとも何か別のものか。袖口にも跡があった。髪が少し乱れていて、後れ毛が頬にかかっていた。頬に薄く赤みがあった。一日中火の前に立っていたせいだろう。料理をしていた時間の長さが、その姿に全部出ていた。


 両手に、皿を持っていた。


 皿の上には、オムライスがあった。


 一目で、全部が分かった。


 卵が、固まりきっていなかった。表面がぷるぷるとしていて、光を反射している。形は一応オムライスの形になっているけれど、触れたらすぐに崩れそうだった。卵の端の部分が少し破れていて、中のご飯が少し見えていた。中のご飯も、端の部分が透き通って見えた。火が通りきっていない。ケチャップが上にかかっていて、それだけは形になっていたけれど、卵の半生感がどうしても目に入った。


 一日かけて、これが完成品だった。


 氷華は僕の顔を見ていた。


 皿を持ったまま、僕の反応を待っていた。その目に、何かが混ざっていた。頑張ったという気持ちと、でも自信はないという気持ちが、半々くらいで混ざっていた。嫌われるかもしれないと分かっていながら、それでも持ってきた。そういう目だった。ドアを開けるまでの間、何度か迷ったんだろうと思った。でも持ってきた。


「……作った」


 小さな声だった。報告でも自慢でもなく、ただ事実を告げるような声だった。


「見れば分かるよ」


 僕はそう言って、ベッドから立ち上がった。氷華から皿を受け取って、テーブルに置いた。椅子を引いて、座った。


 箸を取った。


 氷華は部屋の入り口に立ったまま、動かなかった。入っていいのか迷っているのか、それとも僕の反応を見てから判断しようとしているのか。どちらにしても、動かなかった。


「座れば」


 氷華は少し迷ってから、部屋に入って向かいの椅子に座った。腕を膝の上で重ねて、僕が食べるのを見ていた。


 一口分、切り取って、口に入れた。


 卵が、半生だった。


 口の中で、固まりきっていない卵の感触がした。とろりとしていて、火が通った卵とは全然違う感触だった。中のご飯も、芯が残っているような食感だった。噛むたびに、生っぽい感触がある。ケチャップの甘酸っぱい味がして、卵の味がして、ご飯の味がした。食べられなくはない。でも、完成しているとは言えなかった。


 箸が、一瞬だけ止まった。


 でも止めたのは一瞬だけだった。


 もう一口、食べた。また一口、食べた。箸を動かすたびに、半生の卵の感触があった。ご飯の芯が続いた。でも食べ続けた。止まらなかった。途中で何かを言う気にもならなかった。ただ、食べ続けた。


 朝からずっと音がしていた。何度もやり直していた。スーパーに買い出しに行っていた。一日かけてこれを作った。それを知っていたら、箸を止める理由がどこにもなかった。


 氷華は、ずっと僕の顔を見ていた。


 何かを言おうとして、でも言えないでいるみたいに、口が少し開いては閉じた。


 半分を過ぎた頃、氷華がぽつりと言った。


「……まずい?」


 僕は箸を動かしながら、氷華を見た。


「食べてるでしょ」


「食べてるけど」


「食べてるから、食べてるんだよ」


 氷華は黙った。


 僕はまた箸を動かした。卵の感触が続く。ご飯の芯が続く。でも食べ続けた。朝から一人でやり直し続けて、スーパーに買い出しに行って、また作り直して、それでもこれを持ってきた。それを知っていたら、まずいとは言えなかった。まずいという言葉が、どこにも見当たらなかった。


 氷華がまた口を開いた。


「……卵、半生だよね」


「うん」


「ご飯も、芯が残ってると思う」


「うん」


「それでも食べてるの」


「食べてるよ」


 氷華は黙った。


 今度は少し長い沈黙だった。テーブルの上の皿を見ていた。僕が食べているオムライスを、じっと見ていた。


「……なんで」


「朝からずっと音がしてたから」


 氷華の肩が、小さく動いた。


「聞こえてたの」


「聞こえてた」


「……全部?」


「全部。スーパーに行ったのも知ってるよ」


 氷華はまた黙った。今度はもっと長い沈黙だった。テーブルでも、皿でも、僕でもなく、その間くらいのところを見ていた。


 皿が、空になった。


 最後の一口を食べ終えて、箸を置いた。ケチャップの跡だけが残っている皿を見た。一日かけて作られたオムライスが、皿の上から消えていた。


 氷華は皿が空になったのを見て、何かを言おうとして、でも言葉が出てこないみたいに黙っていた。


 僕は氷華を見た。


「上手くなったじゃないか」


 氷華の目が、少し揺れた。


「……嘘つかないで」


「嘘じゃないよ」


「嘘だよ。半生で、芯が残ってて、全然できてない」


「でも形にはなってたじゃないか。最初に作ってもらった時より全然よかった」


「最初って、あの時のオムライスのこと?」


「うん」


「……あれより酷くなってたら終わりだよ」


「そうでもないよ。あれはあれで味があった」


 氷華は少し呆れたような顔をした。


「フォローになってない」


「フォローじゃなくて本当のことだよ」


 氷華はまた黙った。少しの間、テーブルの上の空の皿を見ていた。


「……全部食べた」


「食べた」


「まずかったでしょ」


「食べたでしょ」


「食べたけど」


「食べたんだから、それでいいじゃないか」


 氷華は黙った。


 また少しの間があった。窓の外が夕暮れの色になっていた。オレンジ色の光が、部屋の中に斜めに差し込んでいた。


「……なんで全部食べたの」


 また同じことを聞いてきた。さっきと同じ質問だったけれど、今度は声の質が少し違った。さっきは確認するような声だった。今度は、答えを求めているような声だった。


 僕は少し考えてから、答えた。


「朝からずっと音がしてたから」


「それだけ?」


「それだけじゃないけど、一番大きいのはそれだよ」


「他には」


「持ってきてくれたから」


 氷華は黙った。


「嫌われるかもしれないって思いながら持ってきたんでしょ。それは分かるから」


「……分かるの」


「分かるよ。顔に出てた」


 氷華は視線を落とした。テーブルの上の皿を、また見ていた。空の皿を見ながら、何かを考えているみたいだった。


「……情けない」


 小さな声だった。


「情けなくないよ」


「情けない。朝からずっとやって、それでもこれしかできなくて」


「一日でここまでできたら十分だよ」


「十分じゃない。全然十分じゃない。湊はもっと上手いし、美味しいし、私は一日かけてこれしかできなくて」


 声が、少し詰まっていた。


 泣きそうなわけじゃない。でも、悔しさみたいなものが声に滲んでいた。自分の不甲斐なさに対する、純粋な悔しさだった。ガキ大将だった頃も、こういう顔をすることがあった。自分の思い通りにいかない時、怒るんじゃなくて悔しそうにする。その顔が、今の氷華に重なった。


「湊みたいに上手くできない」


「最初から上手い人間なんていないよ」


「湊はできるじゃないか」


「僕は弟や妹のために何年もやってきたから」


「私には時間がない」


「時間は作れるよ」


 氷華は黙った。


 しばらくの間、何も言わなかった。窓の外の夕暮れの色が、少しずつ深くなっていった。


 僕は立ち上がって、皿を持った。キッチンに向かって、洗い始めた。蛇口をひねると、水の音が部屋に広がった。


「明日から頑張ろうね」


 返事がなかった。


 皿を洗いながら振り返ると、氷華はソファに移動して、膝を抱えていた。顔をうずめていて、表情が見えなかった。耳だけが赤かった。エプロンをまだつけたままだった。


「明日は一緒に作ろう。今日どこで詰まったか教えてくれたら、そこから一つずつ教えるから」


 氷華は顔をうずめたまま、しばらく黙っていた。


「……卵が上手く巻けなかった」


「巻かなくていいよ。かぶせるだけでいい」


「かぶせるだけ?」


「フライパンで卵を焼いて、ご飯の上にかぶせるだけ。巻こうとするから難しいんだよ」


「……それだけでオムライスになるの」


「なるよ。明日やってみよう」


 また沈黙があった。


 今度の沈黙は、さっきより短かった。


「……うん」


 くぐもった声で、そう言った。顔をうずめたままだったけれど、声の質が少し変わっていた。さっきまでの悔しさが混ざった声じゃなくて、何かを受け取った時の声だった。


 僕は皿を洗い終えて、拭いて、棚に戻した。


「帰るね」


「……うん」


「明日また来るから」


「……うん」


 二回目の「うん」は、一回目より少しだけ大きかった。


 僕はドアを開けて、廊下に出た。氷華の部屋のドアを閉めると、廊下はしんと静まり返っていた。


 春の夜の空気が、少しだけ冷たかった。


 壁の向こうで、誰かが一日かけて作ったオムライスの味が、まだ口の中に残っていた。半生の卵の感触が、まだ舌に残っていた。それでも、まずいとは思わなかった。


 明日また来る。


 一緒に作る。そこから教える。


 一週間の約束が終わるまで、あと三日あった。でも三日では全然足りないということを、この時の僕はもう分かっていた。

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