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高嶺の花は、僕に依存している。〜クソガキだった元幼馴染が手の届かない高嶺の花になっていた〜  作者: 無課金道楽おじさん


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第2話「高嶺の花の部屋は、カップ麺の墓場だった」


 背中に、まだ温度が残っている気がした。


 氷華が離れてから、もう数秒は経っているはずなのに。制服越しに伝わってきたあの体温が、まだそこにあるような気がして、僕は思わず自分の背中に意識を向けた。温度というのは不思議なもので、触れていた時間より長く、感覚として残ることがある。実家で弟や妹を抱っこしていた後も、そういう感覚になることがあった。でも今感じているのは、それとはまた違う種類の温度だった。


 氷華は一歩引いて、僕から離れていた。


 さっきまで僕の背中にしがみついていた腕が、今は体の横にだらりと下がっている。顔は俯いていて、表情が見えない。黒髪が、夕暮れの光を受けてわずかに光っている。入学式の壇上に立っていた神代氷華と、今廊下で俯いている氷華が、どうしても同一人物に見えなかった。


 沈黙が、数秒続いた。


 僕も何も言えなかった。言葉が出てこないというより、何を言えばいいのか分からなかった。六年ぶりに再会した幼馴染が、突然名前を呼んで抱きついてきた。頭の中ではその事実を理解しているのに、うまく処理できなかった。氷華だ、という確信はある。でもそれ以上に何かを考えようとすると、思考がぐるぐるしてどこにも辿り着かない。


 氷華が、ゆっくりと顔を上げた。


 目が合った。


 その目が、かすかに揺れていた。学校で見ていた氷みたいな無表情とは違う。もっと柔らかくて、もっと不安定な目だった。壇上でマイクの前に立っていた時の、あの揺るぎない目とも違う。今の氷華の目には、六年間の全部が詰まっているみたいだった。


「……久しぶり」


 氷華が言った。声が、少し掠れていた。


「久しぶり」


 僕も返した。


 それだけだった。六年ぶりの再会が、その二言で成立した。もっと気の利いたことが言えればよかったかもしれないけれど、今の僕にはこれが精一杯だった。気の利いたことを言える状況でもなかったし、これ以上の言葉が必要だとも思わなかった。「久しぶり」という二文字の中に、六年間分のものが全部入っていた気がした。


 氷華はまた視線を落とした。耳が、うっすらと赤くなっている。頬も少し赤い。さっきまで抱きついていたことを、今更ながら恥ずかしいと思っているのかもしれない。でも離れた。離れたということは、我に返ったということだ。氷華らしいと思った。昔から、感情が爆発した後は必ず引いた。爆発した分だけ、引く時も強かった。


 しばらくの間、2人とも黙っていた。アパートの廊下に、夕暮れの光が斜めに差し込んでいた。どこかの部屋から、テレビの音が微かに聞こえた。夕飯の匂いもした。誰かが料理しているらしい。春の夕方の空気は、朝よりも少しだけ温かい。それでも、沈黙の中に立っていると、どこか肌寒い感じがした。


 沈黙を破ったのは、僕だった。


「ご飯、ちゃんと食べてる?」


 氷華の肩が、ぴくりと動いた。


 予想通りの反応だった。昔から、氷華はこういう質問に弱かった。「ちゃんとしてる?」「大丈夫?」という類の問いかけに、どうも正直に答えられない。嘘をつくのも得意じゃないから、ごまかそうとしてかえって分かりやすくなる。


「……食べてる」


「何を?」


「……いろいろ」


 返答が、妙に歯切れ悪かった。視線が泳いでいる。声に勢いがない。「いろいろ」という言葉ほど不安なものはない。具体性がない時は大抵、具体的に言えないものを食べている時だ。あの頃の氷華は嘘をつく時、必ず目が泳いだ。給食を食べていないのに「食べた」と言った時も、おやつを食べ過ぎて夕飯が食べられなかった時も、必ず目が泳いでいた。六年経っても、それだけは変わっていないらしい。


「部屋、綺麗にしてるよな」


「……してる」


 また間があった。「してる」という返事の前に、ほんの少しだけ迷いがあった。


「ジャンクフードばっかり食べてたりしてないよな」


 一瞬の間があった。ほんの一瞬だったけれど、確かに間があった。呼吸一つ分くらいの間が。


「……してない」


「そう」


 僕はじっと氷華の顔を見た。氷華は視線を僕の少し横にずらしていた。耳だけじゃなくて、頬まで赤くなっている。今度の赤さは、さっきとは少し違う。さっきは恥ずかしさで赤かった。今は、何かを隠そうとしている赤さだ。


「部屋、見せて」


「……え」


「部屋。見せてほしいんだけど」


 氷華の表情が、かすかに引きつった。わずかだったけれど、確かに引きつった。完璧な高嶺の花の外面に、小さなひびが入った瞬間だった。


「な、なんで」


「なんでって、久しぶりに会ったんだから。どんな部屋か気になるじゃないか」


「……べつに、気になることないでしょ」


「気になる」


 これは本当のことだった。どんな部屋に住んでいるのか、昔から気になっていた。引っ越してきてから何度か、どんな部屋なんだろうと思ったことがある。でも今それを言っているのは、単純に興味があるからだけじゃない。


 僕はそう言って、氷華の部屋のドアを見た。202号室。鍵はまだ開けていない。氷華はドアと僕の顔を交互に見て、それから小さく息を吐いた。深呼吸みたいな、諦めに近い息の吐き方だった。


「……少し待って」


「なんで待つの」


「片付けるから」


 やっぱりそうだと思った。


 片付けないといけない状態がある。それが「少し待って」という言葉に全部入っていた。昔の氷華も、部屋の掃除が苦手だった。何度かお互いの家で遊んだ時、氷華の部屋はいつも散らかっていた。本人は「どこに何があるか分かってる」と言い張っていたけれど、その主張には誰も賛同しなかった。


「片付ける必要があるってことは、片付いてないってことだよね」


 氷華は黙った。


 反論しなかった。反論できる材料がないから、黙った。氷華が黙る時は大抵、反論できない時だ。言い返せる余地がある時は、必ず何か言ってくる。昔から変わらない。


「見せて」


 もう一度言った。氷華はしばらく僕を見ていたけれど、やがて諦めたように鍵を取り出した。ドアを開けて、でも体でドアをふさぐようにして、中に入れまいとしている。半分開けて半分塞いで、まるで審判を待っているみたいな格好だった。


「ちょっとだけ散らかってるだけだから」


「どのくらい」


「……ちょっとだけ」


 その「ちょっとだけ」という言葉の響きに、確信が持てた。


 僕は氷華の横から、部屋の中を覗き込んだ。


 一瞬で、全部が見えた。


 テーブルの上に、カップ麺の容器が三つ。コンビニの袋が二つ、中身が半分残ったまま置いてある。弁当の空き容器が重なっていて、その横にペットボトルが四本並んでいる。一本は飲みかけで、ふたが半分開いたままだ。床には脱ぎっぱなしの靴下が一足。窓際に教科書が雑に積まれていて、その上に菓子パンの袋が乗っている。袋の口が開いたままで、中にまだ何か入っているのが見えた。部屋の隅には、まだ開けていない段ボールが二箱。引っ越してからどれくらい経つのか、少なくとも数週間は経っているはずだ。


 入学してから、ずっとこれだったのか。


 引っ越してきてから、ずっとこれだったのか。


 引っ越してから何週間経っているのかと思いながら、僕はゆっくりと氷華の顔を見た。


 氷華は目を逸らしていた。


「……ちょっとだけって言った」


「これがちょっとに見える?」


「……見える」


 見えるわけがない。でも氷華は「見える」と言い張った。この強情さも、昔から変わっていない。どう見ても言い訳のきかない状況でも、とりあえず言い張ってみるのが氷華のやり方だった。


「見えないよ」


 僕は氷華の横をすり抜けて、部屋の中に入った。氷華が「あ」と声を上げたけれど、止める間もなかった。テーブルに近づいて、カップ麺の容器を一つ手に取った。まだ完全に乾いていない。今日食べたものだ。容器の底にまだ少し汁が残っていた。


「これ、今日の昼ご飯?」


「……朝ご飯」


「朝からカップ麺食べてるの」


「……食べやすいから」


 食べやすいというのは理由にならない。食べやすいものばかり食べていたら、栄養が偏る。でも氷華にとっては十分な理由らしかった。


 僕は容器をテーブルに戻して、コンビニの袋の中を確認した。菓子パンが二つと、チョコレートが一袋。チョコレートはかなり食べ進んでいた。弁当の空き容器は、どう見ても昨日か今日のものだ。弁当は百歩譲ってまだいい。でも菓子パンとカップ麺だけでは、どう考えても足りない。


 氷華は部屋の入り口に立ったまま、僕の背中を見ていた。入ってきてしまったものは仕方がない、という諦めと、早く出ていってほしい、という気持ちが半々くらいで混ざっているような立ち方だった。


「湊、あのね」


「何年間こういう生活してるの」


「……引っ越してから」


「引っ越す前は?」


 間があった。


「……実家にいたから」


「実家では親が作ってくれてたんだ」


「……うん」


 やっぱりそうか、と思った。


 つまり一人暮らしを始めてから、ずっとこれだということだ。自炊を一切していない。コンビニと菓子パンとカップ麺で生きている。首席トップ合格の高嶺の花が、毎朝カップ麺を食べて入学式に行っていた。


 笑えない話だった。


 入学式の壇上に立っていた神代氷華が、毎朝カップ麺を食べてから家を出ていた。完璧に整った制服の下で、カップ麺の栄養で動いていた。そう思うと、少し笑えてきたけれど、笑える状況でもなかった。


「氷華」


「……なに」


「これはダメだよ」


 氷華は黙った。


 反論しなかった。反論できないと分かっているから、黙った。


「体、壊れるよ。栄養が偏りすぎてる。カップ麺と菓子パンだけじゃ絶対に足りない。肌も荒れるし、体力も落ちる。成長期にこういう食生活を続けたら、後で取り返しがつかなくなることがある。女の子なんだから、もう少し自分の体のことを考えないと」


「……分かってる」


「分かってて続けてるの?」


「……料理、できないから」


 それは予想していた答えだった。


 氷華は昔から、料理が壊滅的だった。小学生の頃、一度だけ一緒にお菓子を作ろうとして、材料の分量を全部間違えて、食べられないものが完成したことがある。小麦粉と砂糖の分量が逆になっていて、形にはなったけれど、一口食べてみんな黙った。氷華は「なんで失敗するんだよ」と不満そうにしていたけれど、失敗の原因を計量せずに目分量でやったことだと気づいていないようだった。あの時の「なんで失敗するんだよ」という顔を、今でもよく覚えている。


 でもそれは言い訳にならない。


「料理できなくても、野菜を買ってきて食べることはできるよ。コンビニにもサラダは売ってる。全部自炊しろって言ってるんじゃない。もう少しだけ、バランスを考えてほしいってこと。今の食生活を全部変えろって言ってるわけじゃないから」


「……むずかしい」


「難しくない」


「湊には難しくないかもしれないけど、私には難しい」


 氷華の声が、少しだけ拗ねたような色になった。


 僕はため息をついた。


 この感じも、覚えている。昔から氷華は、自分が苦手なことを指摘されると、こういう声になった。怒るわけでもなく、素直に謝るわけでもなく、ちょっとだけ拗ねたような声になる。ガキ大将のくせに、こういうところだけ妙に子どもっぽかった。怒鳴られるより、静かに諭される方が苦手だったんだろう。


 六年経っても、それは変わっていないらしい。


 むしろ、六年経ってこれだけ変わった人間が、こういうところだけ変わっていないのが、なんだか安心するような気もした。完璧な高嶺の花が、苦手なことを指摘されると拗ねた声を出す。それがこの人の本来の姿なんだと、改めて確認できた気がした。


「一週間」


 僕は言った。


「え?」


「一週間、僕が面倒見る。ご飯作るから、ちゃんと食べること。その間に、少しずつ自炊の仕方も教える。一週間後には最低限のことは自分でできるようにする」


 氷華は目を丸くしていた。


 その表情が、壇上の神代氷華から一番遠い顔だった。目を丸くして、少し口が開いて、何を言えばいいのか分からないみたいに固まっている。この顔は学校では絶対に見られない。


「……え、でも、そんな」


「いい?」


 氷華は黙った。


 僕は氷華の顔をまっすぐ見た。氷華は少しの間、僕の目を見ていた。何かを考えているのか、それとも考えることをやめようとしているのか、判断がつかなかった。それから、ゆっくりと頷いた。


「……うん」


 即答だった。


 渋る素振りも、考える間もなかった。高嶺の花らしい外面を保とうとする様子もなかった。ただ、「うん」とだけ言った。反射的に言ったみたいな速さで、「うん」とだけ言った。


 その返事が、なんだか可愛かった。


 六年間で完璧な高嶺の花になった人間が、「一週間面倒見る」という言葉に間髪入れずに「うん」と頷く。それがこの人の本質なのかもしれないと思いながら、僕は視線をテーブルに戻した。


「じゃあ今日から始めよう。冷蔵庫、見ていい?」


「……どうぞ」


 冷蔵庫を開けた。


 中身は、ペットボトルの飲み物が三本と、賞味期限が二日後に迫っているヨーグルトが一つだけだった。ヨーグルトは開封されていなかった。買ってはみたけれど、食べるタイミングを逃したのかもしれない。野菜も肉も魚も、何もない。本当に何もない。


 閉めた。


「買い物行ってくる」


「……っ、待って」


 振り返ると、氷華が一歩前に出ていた。さっきまで入り口に立っていたのに、いつの間にか部屋の中に入っていた。


「なに?」


「……一緒に行く」


 即答だった。さっきの「うん」と同じ速さだった。考える前に言葉が出てきた、そういう速さだった。


 僕は少し驚いて、氷華の顔を見た。氷華は視線を少し横にずらしていたけれど、頬がうっすらと赤くなっているのが分かった。視線は横に向いているのに、耳だけはこちらに向いているみたいな、そういう格好だった。


「……いけない?」


「いけなくはないけど」


「じゃあ行く」


 有無を言わさない口調だった。


 高嶺の花が、スーパーに一緒に行くと言い張っている。学校であの目で見られたら誰だって黙るだろうに、今の氷華にはその気配が一切ない。学校での神代氷華と、今廊下に立っている氷華は、本当に同一人物なんだろうかと思うくらい、雰囲気が違った。


 僕は少しの間氷華の顔を見ていたけれど、結局「分かった」と言った。


 それ以外の答えが思いつかなかった。


 制服から部屋着に着替えて、2人でアパートを出た。


 夕暮れの空が、オレンジ色に染まっていた。入学式の朝の澄んだ水色とは全然違う、重たくて温かみのある色だ。街灯がぽつぽつと点き始めていて、昼と夜の間の時間を照らしている。歩道に桜の花びらが散らばっていた。朝より増えていた。一日でこれだけ散るものなのかと思いながら、踏まないようにして歩いた。


 氷華は僕の少し隣を歩いていた。


 学校の廊下を歩く時みたいな隙のない姿勢ではなくて、少しだけ肩の力が抜けている。背筋は伸びているけれど、硬くはない。自然に伸びている、そういう姿勢だ。部屋着だからというのもあるかもしれないけれど、それだけじゃない気がした。僕の隣だから、というのが一番大きいのかもしれない。


 それだけで、印象がだいぶ違って見えた。


 スーパーまでは歩いて五分もかからない。住宅街の中を抜けていくと、角を曲がったところに明るい店の光が見えた。夕方の時間帯のスーパーは、買い物客が多い。夕飯の材料を選ぶ人たちで、入り口付近が少し賑わっていた。


 スーパーの自動ドアをくぐった瞬間、氷華の目が変わった。


 蛍光灯の明かりに照らされた食品売り場を見渡して、氷華の目がきらきらと輝いた。学校で見る氷みたいな目とは、何もかもが違う。廊下を歩く時の、凪いだ目とも違う。子どもが遊園地に来た時みたいな、純粋な興味と期待が滲み出ていた。色とりどりの食材が並んでいる棚を、次から次へと目で追っていた。


 学校で見る神代氷華を知っている人間が今の氷華を見たら、同一人物だと分からないだろうと思った。


 野菜コーナーに差し掛かった途端、氷華が立ち止まった。


「……湊」


「なに」


「これ、買っていい?」


 氷華が指さしていたのは、カラフルなパプリカのパックだった。赤と黄色と橙色が並んでいる。三色入りのパックで、見た目が鮮やかだった。


「買っていいよ」


「ほんとに?」


 確認するような目で見てきた。許可を求めているというより、本当に買っていいのかを確かめているみたいな目だった。


「うん」


 氷華は嬉しそうにパプリカのパックを手に取って、カゴに入れた。その仕草が、妙に丁寧だった。大切なものを扱うみたいに、両手で持ってそっとカゴに入れた。


 果物コーナーに移動すると、今度は苺のパックの前で足を止めた。


 苺のパックを両手で持ち上げて、中身を確認している。粒の大きさを見ているのか、色を確認しているのか、真剣な顔で苺のパックを眺めていた。


「……これは?」


「今日は使わないけど、食べたいなら買っていいよ」


「食べたい」


 即答だった。苺のパックがカゴに入った。さっきのパプリカと同じように、両手でそっと入れた。


 お菓子コーナーを通り過ぎようとした時、氷華が引き止めるように立ち止まった。


「……湊」


「ダメ」


「まだ何も言ってない」


「お菓子でしょ」


 氷華は少し悔しそうな顔をした。何か言い返そうとして、でもちょうどいい言葉が見つからなかったらしく、口を閉じた。


「……チョコレートだけ」


「夕飯食べてから」


「分かった」


 素直だった。即座に折れた。夕飯の後という条件付きで認められた、と判断したらしい。


 肉や野菜を選びながら、氷華はずっとカゴを持って隣を歩いていた。最初は少し後ろを歩いていたのが、気づいたら並んで歩いていた。僕が商品を手に取るたびに横から覗き込んで、「それ何に使うの」とか「それ好きじゃない」とか、ぽつりぽつりと言った。


「好きじゃないって何が?」


「ピーマン」


「入れないよ」


「ほんとに?」


「うん」


 氷華は少し安心したような顔をした。安心というより、警戒が解けた、そういう顔だった。


 昔から、ピーマンが嫌いだった。給食のピーマンを僕の皿に押し付けてきたことが何度もある。先生に見つかりそうになると、素早く隣の子の皿にも押し付けていた。連鎖的にピーマンが移動していくのを、先生だけが知らなかった。六年経っても、それだけは変わっていないらしい。


 豆腐のコーナーで立ち止まった。


「豆腐って、そのまま食べていいの?」


「冷奴ならそのまま食べられるよ。醤油とかけるだけでいい」


「醤油、ある」


「あるなら買っていこうか」


 氷華は豆腐のパックを手に取って、裏面の説明を読んでいた。どんな説明が書いてあるのかは見えなかったけれど、真剣に読んでいた。


「……これ、一人で作れそう」


「作れるよ。豆腐を皿に出して、醤油かけるだけだから」


「それだけ?」


「それだけ」


 氷華は少し考えてから、豆腐のパックをカゴに入れた。自分でできそうなものを探している。さっきより少し目が変わっていた。買い物を楽しんでいるというより、何かを考えながら歩いている目になっていた。


 レジに並んでいる時、氷華が不意に口を開いた。


「……昔もこういうことしたよね」


 僕は少し驚いて、氷華の顔を見た。氷華は前を向いていた。レジの列を見ながら、でも声は僕に向けていた。


「したね」


「お母さんのお使いで、2人でスーパー行って」


「氷華がお菓子コーナーから離れなかったやつ」


「……覚えてるの」


「覚えてる」


 あの時は結局、お使いの予算をオーバーした。お菓子を少し多めに買ったせいだ。帰ってお母さんに怒られた氷華が「湊のせい」と言い張っていたのを、よく覚えている。僕は何もしていなかったのに。


 氷華は黙った。少しの間があって、それから小さく笑った。


 声を出して笑うわけじゃない。口の端がほんの少し上がって、目が柔らかくなる。それだけだったけれど、それだけで十分だった。


 あの頃と同じ笑い方だと思った。


 六年間で何もかもが変わったのに、この笑い方だけは変わっていなかった。正確には、この笑い方が六年間で初めて顔を出した。学校では一度も見たことがない。今日、スーパーのレジの列で、初めてこの笑い方を見た。


 会計を済ませて、スーパーを出た。


 夜の空気は、夕方よりも少し冷たい。昼間の温かさが引いて、春の夜らしい空気になっていた。氷華は買い物袋を持とうとしたけれど、僕が先に持った。氷華は少し不満そうな顔をしたけれど、何も言わなかった。


 帰り道、2人で並んで歩いた。


 行きと違って、今度は隣だった。氷華の方から距離を詰めてきたのか、気づいたら肩が触れそうなくらい近くにいた。意識してそうしているのか、無意識なのか、判断がつかなかった。でも離れようとはしていなかった。


 街灯の下を歩きながら、僕は少し横を歩く氷華の横顔を見た。


 学校では誰も近づけない高嶺の花が、さっきまでスーパーでパプリカと苺と睨めっこしていた。豆腐の作り方を確認していた。ピーマンが嫌いなことを、六年経っても変わらず嫌いだった。お菓子コーナーで目を輝かせて、昔みたいに笑った。


 全部、僕だけが知っている。


 放っておけないのは、好きだからだけじゃないかもしれないと思った。この人は放っておいたら本当にどうにかなる。首席でトップ合格して、壇上で完璧な挨拶ができる。なのに一人暮らしを始めたら毎朝カップ麺を食べる。一人では何もできないわけじゃないけれど、誰かがいないと自分の体のことを後回しにし続ける。そういう人間だということを、昔から知っていた。


 アパートに戻って、氷華の部屋のキッチンに立った。


 調理器具は一通り揃っている。引っ越し準備で買い揃えたのだろう、どれも新品に近い状態だった。使われた形跡がほとんどない。まな板は袋から出してすらいないものがあった。フライパンも、底の油慣らしをしていないのか、光沢がそのままだった。道具だけは揃えた。でも使い方が分からなかったか、使う気力がなかったか、どちらかだろう。


 冷蔵庫から食材を取り出して、準備を始めた。


 今日は肉じゃがにしようと決めていた。作るのが簡単で、栄養が取れて、温かい。初めてちゃんとしたご飯を食べる日には、これが一番いいと思った。じゃがいもと玉ねぎと牛肉。出汁と砂糖と醤油。シンプルだけれど、ちゃんとしたご飯の代表みたいな料理だ。


 まな板を袋から出して、洗った。包丁を探すと、引き出しの一番奥から見つかった。使っていないから、奥に入れっぱなしになっていたんだろう。


 玉ねぎを切りながら、後ろの気配を感じた。


 振り返ると、氷華がソファから移動して、キッチンの入り口に立っていた。腕を組んで、僕の手元を眺めている。ソファに座って待っていると言ったのに、いつの間にか移動していた。


「……やっぱり慣れてるね」


「昔から変わってないよ」


 氷華は少し笑った。


「……そうだね」


 その一言だけで、六年間の空白が少しだけ縮まった気がした。知っているから出る「やっぱり」という言葉。覚えているから出る「そうだね」という返事。言葉にしなくても、お互いがお互いのことをちゃんと覚えていることが、その短いやり取りの中に全部入っていた。


「手伝えることある?」


「今日はいい。見てて」


「見てるだけでいいの?」


「今日は見てるだけ。来週から教えるから」


 氷華は少し不満そうな顔をしたけれど、結局そのまま立っていた。腕を組んで、僕の手元を見ている。料理を見ているというより、工程を観察しているみたいな目だった。


「じゃがいもって皮剥くの?」


「剥くよ」


「どうやって」


「ピーラーで剥く。引き出しに入ってるはずだけど」


 氷華は引き出しを開けて、ピーラーを探した。しばらくがさがさやっていたけれど、見つかったらしく取り出した。


「これ?」


「そう」


「……持ってるだけで剥けるの?」


「動かしながら使う」


「どう動かすの」


 氷華にピーラーを持たせて、使い方を教えた。じゃがいもを持って、ピーラーを動かす。最初はぎこちなかったけれど、何度かやるうちに少し慣れてきた。


「できた」


 氷華が剥いたじゃがいもを見ると、少し削りすぎていたけれど、形にはなっていた。


「上手いじゃないか」


「……ほんとに?」


「うん」


 氷華は少し得意げな顔をした。ほんの少しだけ、表情が緩んだ。褒められると素直に嬉しそうにするのも、昔から変わっていない。


 鍋に出汁を入れて、砂糖と醤油で味を整えて、具材を煮込んでいく。じわじわと、いい匂いが部屋に広がった。氷華の部屋に、初めてちゃんとした料理の匂いが充満していく。今まではカップ麺の匂いしかしなかった部屋に、ちゃんとした料理の匂いが広がっていく。


 氷華は黙ったまま、でもずっとそこに立っていた。


 できあがった肉じゃがをテーブルに並べた。ご飯も炊いた。味噌汁も作った。大した献立じゃないけれど、カップ麺と弁当の空き容器しかなかったテーブルが、ちゃんとした食卓に変わった。


「座って」


 氷華は素直に座った。


 向かい合って、手を合わせた。氷華もつられるように手を合わせた。いただきます、という言葉を氷華が言うのを聞いたのは、いつ以来だろうと思いながら、僕も手を合わせた。


 氷華は肉じゃがを一口食べた。


 箸が、止まった。


 それからもう一口。また止まった。


 顔が、じわじわと変わっていった。さっきまでの高嶺の花の顔が、あの頃の氷華の顔に少しずつ戻っていく。顔の筋肉の力が抜けて、表情が柔らかくなっていく。それが分かった。


「……うまい」


 小さな声だった。でも本心から出た声だということは、声の質で分かった。


「よかった」


「なにこれ、うまい」


「肉じゃがだよ」


「知ってる、でもうまい」


 また一口食べた。また止まった。また食べた。


「カップ麺より全然うまい」


「そりゃそうだよ」


「なんでこんなに違うの」


「ちゃんとした食材で作ってるから」


 氷華は黙々と食べ始めた。行儀よく、でも確実に、箸が動いている。カップ麺ばかり食べていた口が、久しぶりにちゃんとしたものを食べている。食べるペースが、最初よりだんだん速くなっていった。


 僕はそれを見ながら、自分の分を食べた。


 氷華の部屋に、食器の音と、咀嚼の音と、春の夜の静けさだけがあった。テレビもつけていないし、音楽もかけていない。それでも、静かすぎるとは思わなかった。


 六年ぶりに、隣に氷華がいる。


 学校では誰も寄せ付けない高嶺の花が、今は僕の作った肉じゃがを黙々と食べている。外見だけは完璧に仕上がったのに、中身はあの頃のままだ。部屋は散らかっていて、食生活は壊滅的で、スーパーではパプリカと苺に目を輝かせた。ピーラーで初めてじゃがいもを剥いて、少し得意げな顔をした。


 全部、知っていた。


 知っていたし、知っていたから放っておけなかった。一週間なんて言ったけれど、本当はもっと長くなる気がしていた。一週間で自炊ができるようになるとは思っていない。でもそれは、今は言わないでおこうと思った。


 氷華が茶碗を置いた。


「……ごちそうさま」


「おそまつさまでした」


 氷華はテーブルに視線を落としたまま、少しの間黙っていた。何かを考えているのか、それとも考えることを止めようとしているのか、判断がつかなかった。それから、ぽつりと言った。


「……また、作ってくれる?」


 僕はきゅるんとした目で、氷華を見た。


「もちろん」


 氷華は顔を上げなかった。でも、耳が赤くなっていた。さっきとは違う種類の赤さだった。恥ずかしくて赤くなっているのではなくて、何かを受け取った時の、そういう赤さだった。


 春の夜は、静かで温かかった。


 テーブルの上には、食べ終えた食器が並んでいた。カップ麺の容器ではなくて、ちゃんとした食器が。氷華の部屋に、初めてちゃんとした夕飯が並んだ夜だった。

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