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覚えている。
あの日のことを、私は一秒だって忘れたことがない。
小学三年生の夏の終わり。じりじりと照りつける日差しの中で、私たちはいつものように公園にいた。錆びついたブランコ、砂だらけの滑り台、近所の子どもたちを引き連れて走り回るのはいつも私だった。泥だらけになって、虫を素手で掴んで、木に登って、誰よりも大きな声で笑っていた。そういう子どもだった。近所では「氷華ちゃんはガキ大将だから」と言われていた。本人もそれを誇りに思っていた。誰よりも速く走れて、誰よりも高い木に登れて、誰よりも大きな声で笑える。それが私だった。
でも、湊の後ろだけは、いつも少し遅れてついていった。
追いつけないわけじゃない。ただ、その背中を見ていたかっただけだ。近所の子どもたちの中で、湊だけが違った。うるさくもなく、張り合ってくるわけでもなく、ただ穏やかに笑いながら私の隣にいた。転んだら真っ先に駆け寄ってくる。泣きそうになったら、何も言わずに隣に座る。誰かが意地悪をしていたら、声を荒げるわけでもなく、ただ静かにその場に入ってくる。そういう子だった。ガキ大将の私よりずっと子どもらしくないくせに、一番子どもらしいところにいつもいた。
だから好きだったんだと思う。
九歳なりの「好き」が何を意味するのか、あの頃の私には正確には分からなかった。でも、湊の隣にいると安心した。湊に認められると嬉しかった。湊が他の子と仲良くしていると、胸の奥がもやもやした。それだけは、はっきりと分かっていた。
引っ越すと知ったのは、その日の夜だった。
父の転勤。同じ県内だけれど、市が違う。電車を乗り継げば会いに行けないわけじゃない。でも、それがどういう意味を持つのか、九歳の私にはうまく飲み込めなかった。毎日会えていた人に、会えなくなる。それだけのことが、どれほど大きいことなのか、実感が伴わなかった。飲み込めないまま、翌日の公園で湊にそれを告げた。
湊は、しばらく黙っていた。
私も黙っていた。何か言わなければと思った。でも何も出てこなかった。いつもなら一番声が大きいのに、この時だけはうまく言葉が出てこなかった。ガキ大将のくせに、この時だけは、次の言葉が見つからなかった。公園の砂が、風に吹かれてさらさらと流れた。遠くで誰かの子どもが泣いている声がした。蝉がうるさいくらいに鳴いていた。
しばらくの沈黙の後、気づいたら口が動いていた。
「将来は俺と結婚しろよな」
言ってしまってから、顔が熱くなった。何を言っているんだと思った。でも取り消せなかった。ガキ大将のくせに、こんな言葉しか出てこなかった。湊は目を丸くして、それからふわりと照れたように笑った。
その笑顔が、六年経った今でも、まぶたの裏にこびりついて離れない。
困ったような、でも嬉しそうな、そういう複雑な笑顔だった。何かを言おうとして、でも言葉が出てこなくて、結局何も言わずに笑っていた。それだけだった。それだけなのに、あの笑顔が私の六年間の全てになった。
引っ越しの日、荷物を積んだトラックが動き出す瞬間、私は振り返らなかった。振り返ったら泣いてしまうと分かっていたから。泣いてはいけないと思っていた。ガキ大将が泣くのは格好悪い。そう思い込んでいた。でも心の中では何度も振り返った。何度も、何度も。トラックが角を曲がって、公園が見えなくなって、湊がいた場所が視界から消えた後も、ずっと振り返り続けた。
そして、誓った。
次に会う時には、絶対に世界一可愛いと思わせてみせる。あんな風に目を丸くして、照れたように笑わせてみせる。今の私じゃダメだ。泥だらけで走り回って、虫を素手で掴んで、ガキ大将面して威張り散らしているような私じゃ、絶対にダメだ。もっとちゃんとした女の子にならなければいけない。湊が「可愛い」と思うような、そういう女の子に。
だから、変わろうと思った。
九歳の夏の誓いは、子どもっぽくて、恥ずかしくて、でも私にとっては命がけだった。
六年間、私はその一念だけで生きてきた。
勉強をした。誰よりもした。小学四年生から塾に通って、教科書を何度も読み返して、分からないところは先生に聞いて、夜中まで机に向かった。眠くて涙が出ても、湊の顔を思い浮かべたら目が覚めた。あの笑顔を思い出すたびに、もう少しだけと思えた。成績が上がるたびに、少しだけ湊に近づいた気がした。
中学に上がってからは、さらに本気になった。
定期テストは毎回学年トップを目指した。入試に向けて、効率的な勉強法を調べて、計画を立てて、一つずつこなしていった。勉強が好きだったわけじゃない。得意だったわけでもない。ただ、やり続けた。やり続けることだけが、私にできることだったから。
運動もした。苦手な種目も歯を食いしばってやり続けた。体育の授業では常に全力で、部活も入った。最初は下手くそで、先輩に怒られて、それでも続けた。やめようと思ったことは一度もない。やめる理由がなかったから。
姿勢を正して、言葉を選んで、感情を表に出さない練習をした。泣きたくなっても、怖くても、表情を崩さない練習を、鏡の前で何百回も繰り返した。どんな状況でも顔色を変えない。感情を外に出さない。そういう練習を、毎日続けた。最初は難しかった。でも続けていると、いつの間にかできるようになっていた。
虫が苦手になった。
正確には、苦手だと気づいた。あの頃は勢いで素手で掴んでいたけれど、本当はずっと怖かった。虫の足がうごめく感触が、どうしても受け付けなかった。ガキ大将だから怖くないふりをしていただけで、本当は全然ダメだった。雷も怖かった。あの頃、雷が鳴るたびに湊のシャツを掴んでいたのは、格好悪いからじゃなくて、本当に怖かったからだ。暗闇も怖かった。一人で暗い場所にいると、何かがいる気がして仕方がなかった。ガキ大将を演じている間は気づかないふりができていたけれど、一人になったら全部ダメだった。でも湊の前では絶対に悟られたくなかった。だから余計に強がっていた。今思えば全部バレていた気がするけれど、それはもう考えないことにしている。
それが辛かったかと聞かれれば、辛くなかったと言えば嘘になる。
特に中学二年生の頃がきつかった。思春期の真っ只中で、周りの子たちが恋愛の話をしていても、私には興味が持てなかった。好きな人がいるのかと聞かれると、「いない」と答えた。嘘じゃなかった。私の好きな人は、同じ市にいない。六年間会っていない。それでも、心の中に居続けている。そういう状況を、どう説明すればいいのか分からなかった。
でも後悔は一度もしなかった。
全部、湊のためだった。湊に、世界一可愛いと思わせるためだった。それだけが私の六年間の全てだった。他の男子が話しかけてきても、興味が持てなかった。当たり前だ。私の中には最初から湊しかいなかった。告白されたことも何度かあった。でも、その度に断った。申し訳ないとは思ったけれど、どうしようもなかった。小三の夏に自分で言い放った、あの一言が、私の全部を占領していた。
中学を卒業する頃には、自分でも別人みたいだと思った。
成績はどのクラスでもトップだった。運動も人並み以上にできるようになった。感情を表に出さない訓練は、いつの間にか板についていた。周りの男子が怖気づくくらいの、冷たい視線の使い方も覚えた。泥だらけで走り回っていたあの頃の私は、どこにもいなくなった。
鏡の前に立つたびに、見知らぬ誰かが映っていた。
整った顔立ち。きちんとした姿勢。感情を映さない目。これが私だと思うと、時々不思議な気持ちになった。九歳の頃の私が見たら、誰だと思うだろう。ガキ大将だった私が、こんな顔になるとは思っていなかっただろう。でも、これは全部選んでやってきたことだ。後悔する理由はない。
自分でもどこかおかしいと思いながら、でも止められなかった。
だってこれは全部、湊のためだったから。
そして、高校の入学先が決まった春。
母から何気なく告げられた一言が、私の世界をひっくり返した。
夕飯の準備をしていた時だった。台所でお母さんが炒め物をしながら、何気なく言った。
湊くん、同じ高校に行くんだって。真壁さんから聞いたわよ。
その瞬間、六年間積み上げてきた全ての冷静さが、音を立てて崩れ落ちた。
フライパンを持つ手が、止まった。
心臓が、おかしくなるかと思った。耳の奥で血液が流れる音が聞こえた。体の温度が一瞬で上がった。頭の中が白くなって、台所の風景がぼんやりとした。
同じ高校。湊が、同じ高校に来る。六年間ずっと待ち続けた、あの湊が。私の努力を全部ぶつける相手が、ようやく、ようやく現れる。頭の中が沸騰して、うまく考えられなかった。嬉しいのか、怖いのか、それすら分からないくらい、胸の中がぐちゃぐちゃになった。
お母さんが「氷華、聞いてる?」と声をかけてきた。
「聞いてる」と答えた。声が、少し掠れていた。
その夜、私は親に頭を下げた。
一人暮らしをしたい。
理由は言わなかった。言えるわけがなかった。「好きな人が同じ高校に来るから、近くに住みたい」なんて、口が裂けても言えない。ただ、自立の練習がしたいとか、高校生活を自分の力で送ってみたいとか、そういう当たり障りのない理由を並べた。
親はしばらく難しい顔をしていた。
お父さんは「まだ早い」と言った。お母さんは「でも氷華なら大丈夫かもしれない」と言った。二人でしばらく話し合って、最終的には頷いてくれた。
条件として、月に一度は実家に帰ること、困ったことがあればすぐに連絡すること、ちゃんと食事をとること。三つの約束をした。
ちゃんと食事をとることだけは、早々に守れなくなった。
アパートを決めた。
不動産屋でいくつか物件を見て、このアパートに決めた。古くて、エレベーターもなくて、お世辞にも綺麗とは言えないけれど、立地がよくて、高校から近くて、そして何より、201号室が空いていた。
201号室が空いていると聞いた時、胸が痛くなるくらい嬉しかった。
隣の部屋が湊の部屋になる。壁一枚隔てた場所に、湊がいる。毎日、壁の向こうに湊がいる。それだけで、夜中に一人でベッドの中で顔を枕に押し付けて悶絶するくらい、嬉しかった。不動産屋の前で、必死に顔に出さないようにしていたのを覚えている。
でも、同時に怖かった。
本来は同じタイミングで入居する予定だったと後から知った。でも私には無理だった。心臓がもたないと思った。引っ越し初日から湊と顔を合わせる自信が、どこを探しても見つからなかった。六年間かけて作り上げた完璧な自分を、ちゃんと整えてから会いたかった。落ち着いて、余裕のある顔で、計画通りに。
だから先に入居することにした。
二月の終わりに、私はアパートに引っ越した。
202号室。湊の部屋になるはずの201号室の隣。引っ越し業者の人たちが荷物を運び込んで、段ボールを積み上げて、帰っていった後、私は一人で部屋の真ん中に立った。
静かだった。
実家では常に誰かの声がして、常に何かの音がしていた。それが当たり前だったのに、今は何もない。エアコンの音と、外を通る車の音だけが聞こえた。
なんだか急に泣きそうになった。
泣かなかった。でも、泣きそうだった。なんで泣きそうになっているのか、よく分からなかった。嬉しいのか、寂しいのか、怖いのか、それとも全部なのか。とにかく、胸の奥が変な感じがした。
入学まで、約一ヶ月。
その間、201号室は静かなままだった。
湊がまだ来ていないと分かっていても、壁の向こうを何度も意識した。ここに来る。あと少しで、ここに来る。そう思うだけで、落ち着いて眠れない夜が何度もあった。
壁に手を当てることが、何度かあった。
馬鹿みたいだと思った。でもやめられなかった。冷たい壁の向こうに、もうすぐ湊が来る。その事実だけで、胸が痛くなるくらいどきどきした。
情けないと思った。六年間あれだけ努力したのに、結局私はあの頃から何も変わっていない。湊のことを考えるだけで、胸がぐちゃぐちゃになる。感情を表に出さない訓練を何百回も積み重ねてきたのに、湊のことを考えると全部意味をなさなくなる。それだけは、どうしても変えられなかった。
三月の終わり。
壁の向こうで、物音がした。
荷物を運ぶ音。段ボールを積み重ねる音。誰かが動き回る気配。それが201号室から聞こえた瞬間、私は息を呑んだ。
来た。
湊が、来た。
心臓が、あの頃と同じ速さで跳ね上がった。いや、あの頃より速い。六年分の全部が一度に押し寄せてきたみたいに、心臓がどんどんと鳴った。六年間、何百回も鏡の前で練習した無表情が、自分の部屋の中で意味をなさないくらい、顔が熱くなった。
壁に近づきたかった。
でも近づけなかった。近づいたら、何をしてしまうか分からなかったから。壁を叩くかもしれない。声をかけるかもしれない。それをしてしまったら、計画が全部崩れる。余裕のある顔で、計画通りに、完璧な高嶺の花として再会するはずだったのに。
結局その日、私は壁から一番遠いベッドの端に座って、動けなくなった。
物音が聞こえるたびに、心臓が跳ねた。
段ボールを開ける音がした。心臓が跳ねた。足音がした。心臓が跳ねた。電子レンジが動く音がした。心臓が跳ねた。湊が動くたびに、壁越しに伝わってくる気配のたびに、私の心臓は忙しなく跳ね続けた。
気配を感じるたびに、息が止まりそうになった。
こんなはずじゃなかった。完璧な高嶺の花になって、余裕のある顔で再会するはずだった。なのに壁一枚隔てただけで、もう限界だった。六年間積み上げてきた全部が、湊の気配一つで崩れていく。
どうしようもなかった。
好きだから。ただ、それだけだった。
六年間変わらなかった。六年間離れていても変わらなかった。それだけ好きだったし、それだけ重かった。でも止められなかった。止める方法が分からなかった。
入学式の朝、私はいつもより三十分早く起きた。
眠れなかったわけじゃない。目が覚めてしまったのだ。今日、湊と会う。その事実が頭の中で鳴り響いていて、もうこれ以上眠れなかった。
鏡の前で時間をかけた。
髪を整えた。何度も整えた。左右が均等になっているか、後れ毛が出ていないか、何度も確認した。制服を直した。シワが一つもないか、ボタンがきちんとはまっているか、全部確認した。表情を確認した。笑っていないか、目が笑っていないか、感情が滲み出ていないか、確認した。
完璧だった。
どこから見ても、神代氷華だった。誰も寄せ付けない、冷たい高嶺の花。六年間かけて作り上げた、この顔。入学式に向けて、最高の状態に仕上がっていた。
でも、鏡の奥の自分の目だけは、隠しようがなかった。
今日、湊と会う。
その一点だけで、目が笑いそうになるのを、必死に殺した。顔の筋肉を一つずつ確認して、余分な力が入っていないか確認して、それでも目の奥だけはどうにもならなかった。この目だけは、六年間の訓練でもどうにならなかった。
教室に入った瞬間、席を確認した。
自分の名前を見つけて、隣の名前を見た。
真壁湊。
頭が、真っ白になった。
隣の席。隣の部屋だけじゃなくて、隣の席まで。こんなことがあるのかと思った。神様がいるなら今すぐ会いに行って土下座したかった。でもそんな余裕はなかった。脚が震えそうになるのを、必死に堪えた。すぐに席に着いて、前を向いて、何事もないような顔を作った。
ただ前を向いていた。
湊が来るまでの間、ただ前を向いて、何も考えないようにしていた。心臓が五月蠅いくらいに鳴っていた。深呼吸をした。何度も深呼吸をした。
湊が教室に入ってきた。
見た瞬間、分かった。
六年経っても、あの頃の面影がちゃんとあった。垂れ目で、人懐っこくて、周りに自然と馴染んでいく。背が伸びて、少し大人になって、でも本質は何も変わっていなかった。私が六年間ずっと思い描いてきた湊が、そのまま目の前にいた。
胸が、痛いくらいどきどきした。
隣の席に座った湊は、私を見て、軽く会釈をした。
その目に、何の感慨もなかった。
当たり前だ。私は変わったから。六年前の、泥だらけで虫を素手で掴んでいたバカな私とは、もう別人だから。湊が気づかないのは当然だった。分かっていた。
分かっていたのに、その目を見た瞬間、胸の奥で何かが小さく痛んだ。
気づいてほしかったのかもしれない。六年間ずっと待っていたのに、ただの見知らぬ人みたいに扱われて、少しだけ悲しかった。でも気づかれなくて当然だ。これだけ変わったのだから。これだけ変わるために、六年間頑張ってきたのだから。
一日中、湊の気配を感じていた。
隣から聞こえる息遣い。動くたびに揺れる気配。ノートにシャーペンが走る音。消しゴムを使う音。それだけで、授業の内容が全然頭に入らなかった。六年間ずっと首席だった私が、入学初日から授業に集中できなかった。先生が何を言っているのか、半分も頭に入ってこなかった。
湊のせいだった。全部、湊のせいだった。
休み時間になると、湊は自然に周りの子たちと話していた。あの人懐っこさは六年前と変わっていない。誰とでも話せて、誰からも好かれる。それが湊だ。私はその様子を、前を向いたまま横目で確認していた。確認するたびに、胸がじわりとした。
放課後。
人が散り始めた廊下を歩いていた時、後ろから足音が近づいてきた。
気づいた瞬間、分かった。湊だ。あの足音は、六年前から変わっていない。同じ方向に帰るのは当然だった。同じアパートに住んでいるのだから。でも、それが現実として迫ってくると、足が自然に緩んだ。
二人きりになった。
廊下から出て、校門を抜けて、人通りの少ない道に入った瞬間、周りに誰もいなくなった。その瞬間、六年分の全部が一気に押し寄せてきた。
ダメだ。落ち着け。完璧な高嶺の花でいなければ。もう少しだけ、もう少しだけ待て。計画通りに、余裕のある顔で、ちゃんとした形で再会しなければ。アパートに着いてから、きちんと挨拶して、名前を名乗って、「久しぶり」と言う。それが計画だった。
でも。
湊の横顔が目に入った瞬間、六年間積み上げてきた全部が、音を立てて崩れ落ちた。
あの横顔だ。あの頃から変わっていない横顔。公園を走り回っていた時に何度も見た、あの横顔。怪我をした時に駆け寄ってきた時の横顔。雷が鳴って私がシャツを掴んだ時、困ったように笑っていたあの横顔。
六年間、ずっとこれが見たかった。
じわじわと、ぐつぐつと、胸の奥から何かが溢れてきた。止めようとした。止められなかった。六年間、ずっと会いたかった。ずっと隣にいたかった。ずっと、ずっと、この人のことだけを考えて生きてきた。その全部が、今すぐ溢れ出そうだった。
ダメだ。まだダメだ。計画通りに。
でも体が言うことを聞かなかった。
アパートの前に着いた。
湊が鍵を取り出そうとした、その瞬間。
私の体は、もう動いていた。
「――湊っ」
声が出た瞬間、もう止まれなかった。
気づいた時には、湊の背中に腕を回していた。六年間、何百回も思い描いてきた。次に会う時は完璧な高嶺の花として、余裕のある顔で、計画通りに。そのはずだった。なのに今の私は、アパートの玄関前で、制服のまま、湊に抱きついて、顔を背中に押し付けている。
情けなかった。
六年間の努力が、全部崩れた瞬間だった。計画も、余裕も、完璧な高嶺の花も、全部どこかへ消えた。残っていたのは、九歳の夏に置いてきた、あの頃のままの私だけだった。
でも、離せなかった。
六年間分の全部が、今この瞬間に凝縮されていた。会いたかった。ずっと会いたかった。それだけだった。完璧な高嶺の花も、首席トップ合格も、冷たい視線の使い方も、全部どこかに消えていた。残っていたのは、九歳の夏に置いてきた、あの頃のままの私だけだった。
湊の体温が、制服越しに伝わってきた。
温かかった。
六年間、ずっとこれが欲しかった。この温度が、この感覚が、ずっとずっと欲しかった。離れた日からずっと、どこかで求め続けていたものが、今ここにある。
もう、どこにも行かないでほしかった。この温度が消えたら、また六年間みたいに生きていける気がしなかった。それくらい私はとっくに、この人なしでは立っていられなくなっていた。




