プロローグ
七月の夜は、息が詰まるほど蒸し暑い。
エアコンをつけているのに、空気がどこか重たい。梅雨が明けてから数日、日中に蓄積された熱気が夜になっても抜けきらずに部屋の中に居座っている。天井を見上げると、エアコンの吹き出し口から白い冷気が流れ出ているのが分かる。効いてはいる。でも、焼け石に水みたいな感覚が拭えない。室温計を見ると二十八度を指していた。設定温度は二十四度だ。この部屋のエアコンは古くて、フルパワーで動かしても追いつかないことがある。大家さんに言えば買い替えてくれるかもしれないけれど、まだ引っ越してきて日が浅いから言い出しにくい。七月の夜というのは、そういうものだ。我慢するしかない。
シャワーを浴びて、洗い終えた食器を拭いて、明日の時間割を確認して。特に何もない、いつも通りの夜だった。実家では毎晩この時間に弟や妹たちの宿題を見て、翌日の弁当の下ごしらえをしていたから、一人暮らしの夜はどこか手持ち無沙汰だ。やることをやり終えると、急に静かになる。十人家族の家で育って、静けさというものに慣れていなかったんだと、引っ越してきてから初めて気づいた。実家では誰かが常に何かしらの音を立てていた。テレビの音、弟たちの笑い声、妹が練習しているピアノの音、台所から漂ってくる夕飯の匂い。それが当たり前だったから、一人でいる夜の静けさが、最初はどこか落ち着かなかった。今は少し慣れてきたけれど、それでも時々、この静けさが重たく感じる。
ベッドに腰を下ろしてスマホをいじっていると、窓の外でごろごろと低い音が響いた。
遠雷だ。
梅雨明け直後のこの時期は、夜になると突然空が機嫌を損ねる。昼間あれだけ晴れ渡っていたくせに、夕方から雲が集まり始めて、日が沈む頃には空全体が不穏な色になっている。今日もそうだった。帰り道に空を見上げて、今夜は荒れるかもしれないと思った。西の空に、入道雲の残骸みたいなものが積み上がっていた。夏の始まりの空は、いつも少し乱暴だ。
スマホの画面から目を離して、窓の外を見た。カーテン越しに、雨粒が窓を叩き始めた音が聞こえる。最初はぱらぱらと軽い音だったのが、じわじわと密度を増していく。本降りになるのも時間の問題だろう。風も出てきたのか、ベランダの物干し竿が揺れる音がした。洗濯物は取り込んでいるから問題ない。洗濯物を取り込み忘れるということが、一人暮らしを始めてから一度もない。実家での習慣が染み付いているのか、空を見る癖がいつの間にかついていた。
僕は特に気にせず、そのまま画面に視線を戻した。
でも、壁一枚隔てた隣の部屋のことが、なんとなく頭の片隅に引っかかっていた。
神代氷華。
同じ高校の一年生。入学してすぐ、首席トップ合格という肩書きとその圧倒的な美貌で全校に名を轟かせた、誰もが遠巻きに見上げる存在。黒髪をさらりと揺らして廊下を歩くだけで周囲の空気が変わる、まさに絵に描いたような高嶺の花。男子が告白しようものなら、視線だけで秒殺する。近づきがたい、触れてはいけない、そういう雰囲気を全身から放っている。クラスの女子でさえ、彼女に話しかける時は少し緊張するらしい。廊下ですれ違うたびに、周りの空気が変わる。彼女が通った後、男子たちが息を呑んで振り返る。それが日常の光景だった。
成績は入学時から学年トップを独走している。体育の授業でも、どの種目も人並み以上にこなす。文武両道という言葉が、これほどぴったり当てはまる人間を、僕は今まで見たことがなかった。
それが神代氷華という人間の、学校での姿だ。
でも、僕は知っている。
昔から、雷も、虫も、お化けも、怖い話も。そういった類のものが軒並みダメだった。小学生の頃、夕立の中を一緒に走って帰った時、雷が鳴るたびに僕のシャツの裾をぎゅっと掴んで離さなかった。走りながら、それでも離さなかった。ガキ大将のくせに、全力疾走しながら他人のシャツを掴んでいた。今思い出すと少し笑えるけれど、あの時の氷華は必死だったんだろう。暗い場所が怖くて、夜の公園には絶対に近づこうとしなかった。お化け屋敷の話をするだけで顔色が変わった。怖い話を聞かせようとすると、全力で話を遮った。ガキ大将のくせに、こういうところだけはどうしようもなく子どもだった。
どれだけ完璧な高嶺の花に仕上がっていても、あの頃のままだから、こういう夜は一人で縮こまっているんじゃないかと思うだけで、心配が勝ってしまう。
スマホを置いて、天井を見上げた。
窓の外の音に、自然と耳が向く。雨の音が、さっきより激しくなっている。風も出てきたのか、時折ベランダの物干し竿が揺れる音がした。雨粒が窓ガラスを叩く音が、だんだんと重たくなっていく。
ごろごろ、と。また遠くで鳴った。
少し、近づいてきている。
さっきより音が重い。腹の底に響くような低い音が、空気ごと震わせてくる。遠雷から本雷に変わる直前の、あの独特の圧迫感。子どもの頃から、この感覚だけは分かった。嵐が来る前の静けさに似た、息苦しい予兆。雷鳴と雷鳴の間の沈黙が、音のある時よりもずっと重たい。
スマホをベッドの上に置いて、僕は壁の方を見た。
壁の向こうでは今頃、どうしているだろう。
布団を被って耳を塞いでいるのか。それとも既に部屋の隅で縮こまっているのか。あの頃みたいに、誰かのシャツを掴みたくても、今は一人だ。頭の中でそのことを考えると、胸の奥がじわりとした。隣の部屋に越してきてから、雷が鳴る夜は毎回こうなる。心配で、でも何もできなくて、壁の向こうが気になって仕方がない。
今夜もそうなりそうだと思っていた。
僕がそう考えた瞬間だった。
壁の向こうから、かすかに何かが跳ね上がるような音がした。
ベッドのスプリングが軋む音に続いて、短い悲鳴とも呼べないような、息を呑む気配が伝わってくる。何かを踏んだのか、あるいは何かを見たのか。それから数秒の沈黙。固まっているのか、それとも動けなくなっているのか。部屋の中が、不自然なほど静かになった。
壁に耳を近づけるまでもなく、その静けさは伝わってきた。音がないことが、逆に雄弁に何かを語っていた。
僕はスマホをベッドに置いたまま、立ち上がりかけた。
その時だった。
どん、と。
腹の底まで響くような雷鳴が、夜の空気を引き裂いた。
窓ガラスが震えた。雨粒が窓に叩きつけられる音が一瞬で倍になって、外の世界が荒れ狂っているのが分かった。今まで聞いた中で一番近い雷鳴だった。耳の奥が痺れるくらいの音量で、体の芯まで振動が伝わってきた。そして部屋の電気が、一瞬明滅して、消えた。
真っ暗になった部屋の中で、僕はもうベッドから立ち上がっていた。
体が先に動いていた。頭で考えるより早く、足が玄関に向かっていた。スマホのライトをつけて、部屋を横切って、靴を履く。停電だ。この古いアパートは雷に弱い。以前大家さんが「築三十年だから仕方ない」と苦笑いしていた。大した問題じゃないと思っていたけれど、今夜に限っては最悪のタイミングだった。
問題は、隣の部屋にいる彼女のことだ。
真っ暗な廊下に出た。
外はまだ雨が激しく降っていた。雷の残響が、遠くで尾を引いている。廊下の窓から見える空が、不気味なくらい白く光った。稲妻が走っているのか、雲全体が内側から照らされているのか、空がぼんやりと光っては消える。次の雷鳴が来るまでの間、世界が一瞬だけ静止したみたいに感じられた。
202号室のドアの前に立った。
スマホのライトを手に持ったまま、ノックをしようとして、手を止めた。
ドアの向こうが、しんと静まり返っていたからだ。泣き声も、物音も、何もない。その静けさが逆に、嫌な予感を呼び起こした。声が出せないくらい固まっているなら。暗闇の中で一人きりでいるなら。さらに最悪なことに、さっきの音から察するに、そこに虫でもいたなら。
最後の想定が頭に浮かんだ瞬間、僕は迷わずドアをノックした。
「氷華」
低く、でもはっきりと名前を呼ぶ。
返事はない。
「氷華、聞こえてる? 電気消えたけど、大丈夫?」
しばらくの沈黙の後、ドアの向こうでかすかな気配がした。ずるずると、何かが床を引きずるような音。重たい、ゆっくりとした動き。腰が抜けているのか、それとも全身の力が抜けているのか。どちらにしても、普通に歩ける状態じゃないことだけは分かった。その音がじわじわと近づいてきて、ドアの前で止まった。
「……っ、大丈夫」
声が、微かに震えていた。
震えているというより、声を絞り出すのがやっとという感じだった。普段の澄んだ声とは別物みたいな、今にも消えそうな声だった。学校で聞く神代氷華の声とは、何もかもが違う。あの冷たく、凛とした声の面影がどこにもなかった。
「大丈夫じゃないでしょ」
「大丈夫だから。来なくていい」
突っぱねる言葉とは裏腹に、声には明らかに余裕がなかった。かすれていて、薄くて、強がっているのか懇願しているのか判別がつかないくらい、ぎりぎりの声だった。
僕はドアノブに手をかける。
「開けるよ」
「待って」
一瞬の間があった。
その間が、普通じゃなかった。返事を考えているんじゃなくて、何かを必死に整えようとしているような、そういう間だった。
「……来ないで。お願いだから、来ないで」
その声の質が、さっきと少し変わっていた。強がりじゃなくて、本当に切実な、懇願に近い響き。なんでそんなに拒むのかと思いながら、それが余計に心配を加速させた。腰が抜けているなら、暗闇の中で一人でいるなら、そこに虫でもいたなら。頭の中でいくつかの最悪な想定が次々と浮かんで、全部が重なって、僕の手はそのままドアを開けていた。
スマホのライトが、部屋の中を照らした。
氷華は、ドアのすぐそばの床に座り込んでいた。
モコモコとした質感のパジャマ。お気に入りだと言っていた、クマの柄が入ったやつだ。この前ベランダ越しに話した時、「可愛いでしょ」と言っていた。あの時の氷華は珍しく得意げな顔をしていた。そのパジャマが、今は乱れたまま、床の上に広がっている。
膝を抱えて、顔をうずめて、肩が小刻みに震えている。
顔を上げた彼女の目は、うっすらと赤かった。泣いていたのか、それとも泣きそうになるのを堪えていたのか。どちらにしても、今の氷華の顔は、学校で見るどの表情とも違っていた。学校で男子の告白を秒殺する、あの氷みたいな目はどこにもなかった。
部屋の中を、スマホのライトが照らす。
一瞬で、全部を把握した。
テーブルの端に、何かが落ちている。虫の死骸だった。小さなゴキブリだ。それを見た瞬間に、さっきの「何かが跳ね上がる音」の意味が分かった。ベッドに飛び乗った音だ。そこに雷が来て、停電になった。虫と雷と暗闇が、一度に来たのだ。
それだけでも十分すぎるほどなのに、床に視線を落とした瞬間、僕はもう一つ気づいてしまった。フローリングに、小さな染みが広がっている。彼女のパジャマの、股の付け根のあたりから続いている。
氷華は、僕の視線の先に気づいて、顔をくしゃりと歪めた。
「……見ないで」
消え入りそうな声だった。
高嶺の花でも、首席トップでも、何でもない。ただの、怖くて、泣きたくて、恥ずかしくて、どうしようもなくなってしまった女の子の声だった。六年間かけて作り上げた完璧な外面が、この瞬間だけは完全に剥がれ落ちていた。
僕はスマホをポケットにしまって、しゃがみ込んだ。
氷華の目線に合わせて、顔を覗き込む。暗がりの中で、彼女の顔がぼんやりと見えた。普段は完璧に整えられた黒髪が、今は乱れて顔にかかっている。頬が濡れていた。涙なのか、汗なのか、それとも両方なのか。
「怖かったね」
それだけ言った。他に何も言わなかった。責めるとか、からかうとか、そういう言葉は一個も浮かんでこなかった。弟や妹の誰かが泣いている時、最初に言う言葉はいつもこれだった。理由を聞くより先に、まず認める。大変だったね、怖かったね、と。長年の習慣が、今も体に染み付いていた。何があったかは全部分かっているし、笑う気にも責める気にも、一切なれなかった。
ただ、怖かったね、と。それだけが口から出た。
氷華の肩が、また小さく震えた。今度は違う震え方だった。さっきまでの恐怖で震えていた肩とは、少し違う。
「……最悪」
「うん」
「全部、台無し」
「そんなことないよ」
「台無しじゃん。完璧なお姫様になって、驚かせたかったのに。なのに私、こんな……っ」
声が詰まった。続きは出てこなかった。言葉の代わりに、細い肩がまた震えた。六年間積み上げてきたものが、この夜一晩で全部崩れたと思っているんだろう。そうじゃないのに、と思いながら、僕はそっと腕を伸ばして、彼女の頭に手を置いた。
乱れた黒髪が、手のひらに触れる。
さらさらとした感触が、暗闇の中でやけにはっきりと感じられた。いつもよりずっとさらさらしている。シャンプーの匂いが、ほんのわずかに漂った。氷華の体が、一瞬だけびくりと震えた。でも、逃げなかった。
「お姫様は関係ないよ。僕が好きなのは、泣き虫でポンコツで、雷でちびっちゃうくらい怖がりな、バカ氷華のままの氷華だから」
しん、と静まり返った。
雨の音だけが、窓を叩いている。
氷華は顔を上げなかった。でも、肩の震えが少しだけ変わった。さっきとは違う、何か別のもので揺れているような震えに。感情が揺さぶられた時の、あの震え方に似ていた。頭に乗せた手のひらに、かすかな熱が伝わってくる。
しばらく、黙っていた。
氷華は何も言わなかった。僕も何も言わなかった。言葉がなくても、今はそれでよかった。暗い部屋の中で、雨粒が窓を叩く音だけが響いていた。
「……バカ氷華って言った」
氷華が、ぽつりと言った。
「言った」
「最悪」
「うん」
「湊のくせに」
「うん」
それきり、彼女は黙った。僕も黙った。氷華はまだ顔をうずめたまま、膝の上で手をぎゅっと握っていた。小さな子どもみたいな格好で、大きめのパジャマにくるまれていた。
少しして、僕は立ち上がった。
まず浴室に向かった。棚の上に、バッテリー式のランタンがあった。以前氷華が「停電が怖いから買った」と言っていたやつだ。備えだけはしっかりしている。いざという時の準備だけはできているのに、肝心の時に一人でどうにもできなくなる。それが氷華らしいと思いながら、ランタンを点けて浴室に置いた。シャワーの温度を確認して、タオルを棚から出して、洗濯機の場所を把握した。
全部を確認してから、氷華の方に向き直った。
「お風呂入ってきなよ。パジャマは洗っておくから」
「……自分でできる」
「腰抜けてるでしょ」
反論が来なかった。それが答えだった。
お姫様抱っこで浴室まで連れていって、扉の前で下ろす。氷華は想像よりずっと軽かった。毎日ちゃんとしたものを食べていないせいだろうと思うと、胸の奥がまたじわりとした。こんなに軽くていいのかという感覚が、抱き上げた瞬間にあった。ちゃんと食べているのかという心配が、このところずっとあった。
扉の前で下ろすと、氷華は一度だけ振り返った。
暗がりの中でも分かるくらい、耳まで真っ赤になっていた。頬も赤い。メイクが落ちて、風呂上がりみたいな顔をしている。何か言おうとして、口を開いた。でも言葉が出てこなかったのか、また口を閉じた。それを二回繰り返して、結局何も言わずに扉を閉めた。閉まり際に、小さく息を吐く音がした。
扉の向こうでシャワーの音が聞こえ始めるまでの間、僕は手を動かした。
パジャマを洗濯機に放り込んだ。洗濯洗剤の場所を探して、洗面台の下の棚に入っているのを見つけた。適量を入れて、スイッチを押す。フローリングを丁寧に拭いた。雑巾を何度もすすいで、跡が残らないようにした。時間をかけてでも、きちんとやった。予備のブランケットを押し入れから引っ張り出して、ベッドの端に畳んでおいた。テーブルの上に置きっぱなしだったコップに水を入れて、枕元に置いた。部屋に散らばっていたゴミをひとまとめにして、袋に入れた。
テーブルの端に落ちていた虫の死骸を、ティッシュで包んでゴミ袋に入れた。
これが原因の一つだったんだろう。部屋の隅に目をやると、他にも気になる箇所がいくつかあった。換気扇の周りとか、窓の端とか。今夜は時間がないから後日にするけれど、近いうちに対処しておいた方がいいかもしれない。
停電はまだ続いていたけれど、雷の音は少しずつ遠ざかっていた。雨足も、さっきより弱くなってきている。嵐は峠を越えたらしい。窓の外の空が、さっきより少し暗くなっていた。稲妻が走る頻度が減って、雷鳴の間隔が長くなっている。
シャワーの音が止んで、少しして、浴室の扉が開いた。
風呂上がりの氷華は、僕の部屋着を借りて出てきた。
大きめのTシャツが、彼女には随分とゆったりとしていた。袖口から細い手首がのぞいて、裾が太ももの半ばまで届いている。濡れた黒髪を緩くまとめて、化粧っ気のない顔で、ベッドの端にちょこんと座っていた。ランタンの橙色の光に照らされて、普段とは全然違う雰囲気を纏っていた。
いつもより小さく見えた。
学校で見る神代氷華は、どこからどう見ても完璧だ。姿勢が良くて、表情が整っていて、立っているだけで絵になる。廊下を歩く時の歩幅、話す時の声の高さ、何もかもが計算されているみたいに完璧だ。でも今の氷華は、そういう完璧さが全部剥がれ落ちた後の顔をしていた。化粧なしで、髪も緩くまとめただけで、大きめのTシャツを着て、ベッドの端に縮こまっている。
整った目鼻立ちが、メイクなしでも十分すぎるほど綺麗だということには、今更ながら気づいた。でもそれより、この顔の方が好きだと思った。作っていない顔の方が、ずっといい。
これが本物だと、僕は知っている。
「……ありがと」
絞り出すような声だった。
言いたくなかったわけじゃなくて、恥ずかしくて言えなかったのを、やっと絞り出した、そういう声だった。神代氷華がお礼を言う声というのを、学校の誰も聞いたことがないだろうと思いながら、僕は「どういたしまして」と返した。
「忘れて」
「忘れないよ」
「忘れて」
「無理」
氷華は膝を抱えて、顔をうずめた。くぐもった声で、「最悪」とまた呟いた。でも、さっきの「最悪」とは少し違う色をしていた。恥ずかしさと、それから、もう少し別の何かが混ざった声だった。
僕はその隣に腰を下ろして、窓の外を見た。
雨はまだ降っていた。雷は、もう聞こえない。停電した部屋の中に、ランタンの光だけが静かに揺れている。橙色の柔らかい光が、氷華の横顔を照らしていた。メイクをしていない分、表情の細かいところがよく見える。まつ毛が長い。頬の産毛が、ランタンの光を受けて微かに光っている。
隣の席の、隣の部屋の、元幼馴染。
誰も知らない彼女の全部を、僕だけが知っている。怖がりで、泣き虫で、私生活がめちゃくちゃで、愛が重すぎて全然うまく出力できない。完璧な高嶺の花の皮を一枚剥いたら、こんなにも人間くさくて、こんなにも放っておけない女の子がいる。
六年間、ずっとそうだった。
外見がどれだけ変わっても、中身はあの頃のままだ。雷が怖くて、虫が怖くて、暗闇が怖くて、一人ではどうにもならなくなる。そういう人間だということを、昔から知っていた。知っていたし、知っていたから、こうして隣にいることが自然だった。誰かが隣にいなければいけない。それが今は、僕でよかったと思っている。
氷華が、膝に顔を埋めたまま、ぽつりと言った。
「……湊は、嫌じゃないの」
「何が」
「こんな私を見て」
僕は少し考えてから、答えた。
「嫌じゃないよ」
「なんで」
「なんでって言われても」
理由を言葉にするのは、案外難しかった。嫌じゃないのは当たり前で、それ以上でも以下でもなかった。責める理由がどこにもない。怖いものが怖くて、限界を超えたらどうにかなってしまうのは、誰だって同じだ。それが氷華の場合は雷と虫と暗闇だっただけで、笑う気にも引く気にもなれなかった。
むしろ、と思った。
六年間、ずっと頑張ってきたんだろう。どれだけ完璧な高嶺の花に仕上がっていても、一人で怖い夜を過ごしてきたんだろう。誰かに頼ることもできずに、こういう夜を何度も乗り越えてきたんだろう。そう考えると、今夜こうして崩れたことを責める気には到底なれなかった。
「ただ、心配だっただけだよ」
氷華は黙った。
長い沈黙の後、また小さな声が聞こえた。
「……ありがと」
「さっきも言ってたよ」
「二回目」
「知ってる」
氷華は顔をうずめたまま、少しだけ笑ったような気がした。くぐもっていて、よく聞こえなかったけれど、泣いているのとは違う震え方だった。笑い声というより、何かが緩んだ時の、あの感じだった。
僕はそのまま、何も言わなかった。
隣に座って、雨が弱まっていくのを聞いていた。停電はまだ続いていたけれど、ランタンの光があれば十分だった。窓の外が、少しずつ静かになっていく。雨粒が窓を叩く音が、だんだんと小さくなっていく。嵐が過ぎた後の夜の静けさが、部屋の中に少しずつ入ってきた。
氷華は膝を抱えたまま、静かにしていた。眠ってしまったのかと思うくらい、動かなかった。でも、時々肩が小さく動くから、起きているのは分かった。
ランタンの光が、部屋の中に揺れている。
橙色の丸い光が、二人分の影を壁に映していた。氷華の影が、僕の影の横に並んでいた。
隣の席の、隣の部屋の、元幼馴染。
これが、学校一の高嶺の花の、隣の部屋での話だ。
誰にも教えてやらない。




