説得
1
ティアット神殿の内部は外見の古代ギリシア然としたものではなく、どちらかと言えば古代エジプトの神殿に見られる特徴が目に付いた。
無意味むほどに大きく太い大理石の柱は、紛れもなくギリシャのものなのだが、そういった柱に細やかな文様を刻みつけるのはエジプトの神殿に多数見られる特徴である。
もっともエジプトのものは刻むのではなく、書いてあるものだが、この場合たいして変わりはない。書いてあるものは神話や歴史、予言の類がほとんどで、資料的な意味合いを持つものだ。
この神殿のもそうなのだろうかと、一つ一つ調べてみる鈴音だったが三本見たところで作業を断念した。
エジプトのもののように絵文字なら、ある程度の内容は推測できるのだが、絵文字とはかけ離れた楔形文字では、学者ならざる異世界の者に読めるはずはなかった。
「ヴァルナ聖典を読めって言われたけど、あたし読めないよ。この世界の文字なんて」
柱に刻まれた文字を読もうとして果たせず断念した鈴音。しばらく歩いたあと、そのことに気づいて不安げな声を上げた。
もちろん、鈴音が読めなくてもリカートは読めるはずで致命的な問題にはならないだろうが、またしても他人を頼らなくてはならないのかと情けなさに歯噛みするしかない鈴音である。
「ことヴァルナ聖典に関して、その心配だけはいらないわ。あの聖典はね、読む人によって内容も字体も文字も変化するの。だから、読む人が読めない文字で書いてあるってことは決してないわ。むしろ、問題は内容よ。読むに値するものならいいんだけど・・・」
言って、カリーナは深々と溜め息を吐いた。
その表情を見、言葉の意味を頭の中で反芻して鈴音はやっとリカートがヴァルナ聖典の名を聞いたときに不審そうにした理由が理解できた。
人によって内容が変わるというのは、言い換えれば内容があるようでないようなもの、ということになる。
必ずしも役に立つとは限らないし、役に立つとしても、それを証明してくれる人はいない。ひょっとしたら無駄な上に無駄な時間を取られる結果になるかも知れないのだ。
懐疑的になるのもやむをえないであろう。
「ま、なんにせよ。読んでみないことにはね。とりあえず、この神殿の祭司長様に会って、許可を頂きましょう」
リカートの当然すぎる提案に、鈴音がコックリうなずき、二人は歩調を速める。
「その必要はありませんよ」
リカートと鈴音が神殿のさらに奥へと進もうとしたとき、物静かだが稟とした張りのある声が二人の歩みを止めさせた。
振り返ると声の主は、二人がたった今通ってきた入り口の、左側にある柱の中にいた。
どうやら、その柱は中が空洞で、開閉式の扉が付いていたようだ。
「あなた方がいらっしゃることは、すでに我らが書物の神エスティリア様よりの神託で存じていました。ヴァルナ聖典は、この下にあります。どうぞ、こちらへ」
目深にかぶったフードのせいもあって、年齢の判別はできないが声からして中年の女性だろうと思われた。
足首すらも隠れるほど長い神官着の胸元には蛇のように長い首の亀が描かれている。
この亀、『蛇状首』は知識を司るエスティリアの象徴で、この教会の紋章でもあるのだ。その色が紫なのは、神官の中でも最高位の印なのだと言う。
つまり、この方が祭司長その人だ。
うながされ、祭司長の傍に寄った二人が柱の中を覗くと、すぐ足下に半径三メートルほどの螺旋階段が下へ下へと伸びていた。
底はいっさい見えない。
来るのがわかっていたなら明かりぐらい点けておいてくれても良さそうなものだが、螺旋階段の向こうにはただだ闇があるだけだ。
だが、こんなところで立ち止まっていても仕方がない。
二人は祭司長の持つ頼りなげなランプの明かりだけを頼りに、階段を下りていった。
階段は長く続き、鈴音の感覚によればビル三階分ほどは下りたところで終わった。
下りた先にあったのはホテルのロビーほどの広さがある空間と、サッカー・ゴールを縦に二つ重ねたぐらいの大きさの扉だった。
扉には上で見た柱と同様、それ以上の細やかな文字が一面に刻まれていて、なにか人を寄せつけないような威圧感があった。
「ヴァルナ聖典は、この奥にあります」
祭司長が鈴音の前に立ち、扉を指し示しながら言った。
「ちょ、ちょっと待って! なんで、こんな大げさなとこに来なきゃなんないの? ヴァルナ聖典ってのは女性の手の平程度の大きさのはずじゃなかった?」
ヴァルナ聖典について聞いていた話と、目の前にある扉とのギャップに驚き、相手が誰であるかも忘れたリカートが叫び声を上げた。
「あなたが言っているのは《ヴァルナの福音》のことでしょう。あれはもともとヴァルナ聖典の刻々と移り変わる内容を、旅先でも見えるようにと造られた簡易的なものでしかありません。聖典の本体は、この扉の向こうでしか見ることができないのです」
こういう反応が出ることは予測してあったらしい。
限りなく無礼なリカートの言葉づかいに激することなく、まぁこの程度のことで感情的になるような者が祭司長たりえるわけはないのだが、平然と説明してくれた。
それでも、リカートには何のことか分からないようで、しきりに首をひねっている。
が、鈴音には祭司長の言った言葉の意味が漠然と理解できていた。
要するにリカートが言っていたヴァルナ聖典。
正式にはヴァルナの福音と言うらしいが、これは本体であるメイン・コンピューターから情報を取り出すための端末に過ぎない。より確かで豊富な情報を得るには本体そのものから直接取り出すしかない、そういうことなのだろう。
「この中に入ればいいんですか?」
なんにしろ、目の前に目的のものがあるのに悩むことはない。
仕組みを知ることより内容を確認することのほうが重要だ。
鈴音は扉に手をかけ、祭司長を振り返った。
鈴音の問いに祭司長は無言のうなづきで応え、奥へ行くよう促す。
「待って、あたしも・・・・・・!」
護衛のために付いてきているリカートが、自分の役割を思い出し慌てて鈴音の後を追いかけた。だが、その足は何か強力な力で止めさせられた。
嵐に向かって歩いているかのように、見えない力に押されて先に進めなくなったのである。
「おやめなさい。この扉の向こうは選ばれたものだけが、ただ一人でのみ入ることの許される特別な空間。私にしても入ったことがないのですから、あなたもここで彼女の帰りを待っていなさい」
一つの教団を束ねる祭司長に優しく諭されては、いかに神官戦士として力あるリカートといえど逆らうことなどできようはずがない。
黙って鈴音の後ろ姿を見送るしかなかった。
あとは己の信ずる神に祈りを捧げ、待つよりほかない。
扉を後ろ手に閉めた瞬間。
鈴音は気がついた。
そこが異質な空間であることに。
同時に自分の精神が肉体から遊離し、空間と一体化していくのを感じてもいた。
そこは、どこまでも続く灰色の世界だった。
色の変化はまったくなく、どこまでも均一なアスファルト色が広がっている。
「聖典は、どこ?」
無限という言葉の意味が具象化したかのような空間を見渡し、途方に暮れて鈴音が呟く。 刹那、言葉ではないイメージが鈴音の精神に直接触れた。
『聖典とは、便宜上つけられた呼称に過ぎない。この空間こそがヴァルナであり、聖典なのだ。尋ねよ、されば答えん』
イメージであるがゆえに、それは疑問をはさむ余地のないものであった。
鈴音は何が、どうなっているかを考えるまでもなく、この現象を素直に受け入れた。
「わたしは神託にしたがって、ここに来ました。この後なにをしたらいいのか教えてください」
『我は記憶、過去の記憶を現在に伝えし者。未来は知らぬ。よって、その問いには答える術がない』
「では、質問を変えます。この地に、世界全てに平和をもたらす方法はありますか?」
災厄を防ぐ、そのための勇者だとリカートたちは言っていた。災厄を防ぐとは、平和であることのはず、ならば鈴音のすべきこととは平和を得ることであるに違いなかった。
鈴音には、そう思えた。
だから、その方法を知りたかった。
いくつあるかは知らないが、その全ての中から自分になせる方法を選べばいい。
単純に、そう考えたのである。
だが、それに対する答えは完全に彼女の思惑を裏切った。
『ない』
短く、断定的な答え。
実現不能ではあったとしても、いくつかの方法があると考えていた鈴音には目の前が真っ白になる答えである。
だが、考えてみれば当然かも知れなかった。
世界の創世以来悠久の刻が流れているというのに真に平和のあったためしがない、もし平和をもたらす方法があるなら、一度ぐらいは平和な時代があってもいいはずである。
それがない以上、やはり平和をもたらす方法なんてものは甘い理想家の頭の中にしかないものなのかも知れない。
「では、なぜ『ない』のか、その理由を」
心理的断崖まであと半歩というギリギリの線で踏み止まって尋ねる。答えを聞いたところでどうなるものでもないだろうが。
『世界は常に、揺れ動く天秤の上にバランスをとって存在している。光が在ってこそ影が生じ、影ありてこそ闇がある。闇あればこそ光は自が存在を知覚できる。どちらか一方ではなく、一方だけで存在できるものでもない。だが、光と闇は世界の対極を為すもの。二つが合わされしとき世界は無に帰する。よって、この二つは敵対し続ける宿命にあるのだ。互いに滅ぼさず、されど譲歩もせず、延々と不毛な戦いを繰り広げる。それが世界のバランスをとるということなのだ』
なにかごまかされているような気もする、妙に哲学的な答えだが、鈴音は理解できた。つまりプラスとマイナスをたせばゼロに近く、あるいはゼロになる、そういうことなのだ。
「・・・でも・・・だからってあきらめてしまったんじゃ、それこそどうにもならないじゃない。なにか手を考えた人はいないの?」
頭では理解できても、感情は納得してくれない。
理屈を知った理性が止めるのを無視して、感情が尋ねていた。
ほとんど悲鳴に近い問いかけである。
『いる。かつて魔王と戦った勇者たちの中に、それを考え答えを出した者がいる。しかし、誰一人として実行した者はない』
無駄に終わるだろうと思いつつも聞かずにおれなかった問いに対する、意外すぎる答え。それは崖っぷちに立つ鈴音には天から垂れ下がる蜘蛛の糸であった。
余りに細く、頼りない。
しかし唯一本の希望である。
「その勇者は今どこに?」
溺れるものは藁をもつかむ、鈴音はその蜘蛛の糸に一縷の望みをかけて問うた。
『地上界の中心、《支衛の杜》に』
それが最後だった。鈴音がもはや何も聞くことはない。そう感じたとき、彼女の精神は、来たときと逆の手順をたどり、肉体へと降下した。
気がつくと、鈴音は薄汚れた石壁の狭い部屋で扉を背にして立っていた。
「急がなきゃ、《支衛の杜》へ!」
扉を出た鈴音は、手短にヴァルナ聖典で得た情報をリカートと祭司長に話し、《支衛の杜》への道を尋ねた。
「《支衛の杜》か、聞いた話だと、実際なかに入って帰ってきた人間はいないって事だけど、その人本当にそこにいるのかな」
リカートの疑問はもっともで、鈴音にしても不安はある。しかしほかに有効な情報がないからには信じて行くしかない。
ヴァルナ聖典を信じる。
これは彼女らの旅にあっては全ての根幹を担う大前提なのだ。
「この教会は、方位的に地上界の真北に位置していますから、まっすぐ南へ南へと進めば《支衛の杜》にぶつかります。しかし森の中へと入るには森に慣れた案内人が必要ですし、装備もいります。まずは《支衛の杜》に隣接するノーランディアという街に行くとよいでしょう。そこには我らエスティリアの教会もリカートさんたちラファエラの教会もございますから、助力を得ることもできるはずですよ」
祭司長様の忠告もあり、鈴音とリカートはひとまずノーランディアの街を目指すことにした。
ティアット神殿はヴァルナ聖典の承認を得たものであるとの認定証と、祭司長から各教会への協力要請の手紙を持って。
2
ティアット神殿からノーランディアまで、徒歩なら十日の旅程である。
しかし、旅を急がねばならぬのと旅慣れぬ鈴音の体力を考慮し、観光地でもあるアーシェラー山から大陸交易の中心地商業都市ミリカまでの旅を二人は交通の要、駅馬車での旅に変えていた。
アーシェラー山とノーランディアを直線で結ぶとミリカはノーランディアの一つ前の街で、徒歩にして二日の距離にある。これに馬車での移動時間をたすと、四日は旅程が短縮される計算になるのだ。
もちろん金はかかるが四日間もの時間が浮くことを思えば、十日分の旅費を六日で使うことぐらい、安いもの。
時間と命は金で買えるものではない。
ノーランディアはミリカから見ると、広大な草原の果てに巨大で深い森を背にして建つ街である。薄い翠と濃い碧の中間点に存在する白、それがノーランディアという街なのだ。
その歴史は驚くほど古い。何しろ地上界なるものが神々の手で造られたあと、そこに住むべき人々が始めて築いた街なのだ。
かれこれ一万年もの時を経ている。
その街にあって、街と同じ年月を過ごし存在しているものは多くはない。多くはないが皆無でもなかった。
地上界そのものを造り出した神々の手によって建てられた五つの建物は、一万年経った現在でも健在である。
五つの建物。すなわち神々の長、主神ケイファスタンと世界の根幹を担う四大元素を司る神々の神殿だ。
地の女神マーブルの神殿は北に、水の女神エデューシャの神殿は東、火の女神アフロスの神殿は南、風の女神エオリアの神殿は西に位置し、最後の一つ主神ケイファスタンの神殿は街の中央に建っている。
このケイファスタンの神殿の北東には運命の女神アルタミラ、北西には戦いの女神であるラファエラ、南東には書物の女神エスティリア、南西には死と闇の女神ツナデの神殿が建っている。どれも建てられて千年にも満たない神殿だ。
この四柱の女神が出現したのが、ごく最近―――それでも千年は優に越える―――ためだ。
鈴音とリカートの二人は祭司長の忠告どおり、エスティリエ女神の神殿を訪れていた。
本当ならばすじとしてラファエラの神殿に挨拶を入れてからにすべきなのだろうが、いつ起こるかも分からない災厄を防ぐには時間が無さ過ぎる。
この際、必要最低限の行動以外は厳に慎むべきだろう、との判断で絶対に必要なこと以外は避けて行動することにしたのだった。
挨拶に行くぐらい、大して手間はかからないと思うのだが・・・。
エスティリエは書物の神であるがゆえに、その神殿は建物のほとんどが書庫という特異な設計になっている。もちろん、この書庫は一般に開放されていて、いわば街の図書館としての機能を果たしていた。
それだけに、この教会は知識を求める人々で常にいっぱいで、巫女達は書物の管理、整理や訪れる人たちを必要な書物の所まで案内したりと、忙しく駆け回っている。
が、当然なにもかもが開放されているわけではない。特に重要かつ貴重な書物を保管する部屋には特別な者しか入れず、巫女頭と数名の巫女、神官が詰めて警備にあたっている。
鈴音とリカートは、そこにいた。
「《支衛の杜》へ行くと言うのですか?」
驚いた、というより呆れたような声と表情で巫女頭が聞いてくる。
「はい、それが現状で取れる唯一最良の手段なんです。これ以外に世界を救う方法はありません」
断固として言い放つ鈴音だが、その実確固たる信念も自信も持てずにいた。どれもこれもヴァルナ聖典の情報が正しいと仮定しての推論に過ぎない。
巫女頭の話によるとヴァルナ聖典は女神エスティリアの分身だということなのだが、神が常に正しいわけではない。神といえども間違いは犯すし、間違いを起こすからこそ世界の混乱は収まらないのだ。
全面的に信じるには値しない。
「・・・そうですか。我らにとってヴァルナ聖典の内容すなわち女神様の神託、逆らえるものではありません。あなた方の助力となるよう微力を尽くすことにいたしましょう」
巫女頭はそう約束してくれた。
そして、その約束は即座に行動に移され、なかった。
なぜなら、この冒険で最も重要な役割を持つ人物。つまりは案内人となるべき者に、使いに出た巫女達の懇請を拒絶されてしまったからである。
その男はこの街では押しも押されもしない腕のいい狩人で、ほかの同業者は絶対に立ち入らない森の奥にまで獲物を追いかけ、他のものにはまねできない高収入を得ていた。
が、その男はある日を境に森へ入ることがなくなった。
怪我をしたのでも病に倒れたわけでもないというのに、それまでの生活を捨て、毎日酒を浴びるような生活を送っている。
鈴音らが目指す《支衛の杜》は深い森に囲まれてあり、その《支衛の杜》を望める位置まで案内できるのは、この男しかいなかった。この男の協力を得ずに森の奥を目指すことは、浴衣でチョモランマ登頂に臨むようなもの。
なんとしても、協力してもらわねばならない人なのだ。
「わかったわ。あたしが直接説得してみる」
男の住まいは最も森に近い街の南端にある。巫女達の懇請が拒絶されたことを知った鈴音は、直に交渉すべく自ら足を運んだ。その後ろには当然のようにリカートが続く。
その男は一見したところ狩人とは思えない優男で、年も恐らくは十八、九、少なくとも二十歳は越えていないだろう。
リカートより一つ二つ上ぐらいの青年であった。
鈴音がもっていた森の案内人というイメージとは正反対のタイプだ。
この男の家は代々狩人の家系であり、一族通じてちゃんとした墓に骨を埋めたものがいないといわれるほど壮絶な歴史を持っていた。
現に、この男の両親も五年ほど前に森で行方を絶ち、死体すら発見されていない。
「あんたが神々の使者だろうが、神そのものだろうが、俺はもう金輪際森には行かねぇんだ。案内なら他をあたってくんな」
鈴音の懇請、懇願にあっても、男の答えは巫女達へのそれと変わらないものだった。
「なぜ? なぜなんですか!! 前は毎日森に行ってたんでしょう? なんで今になって森に行かないなんて言うの!」
行かない、行きたくない。
そう言い切るのであれば、鈴音は無理に男を巻き込むつもりはなかった。自分自身のわがままに関係ない人を巻き込むのは鈴音にとっても本意ではなかったから。しかし、理由ぐらいは聞かせてくれてもいいだろう、とも思うのだった。
「なぜ? なぜ、っか。そいつぁ、俺のセリフだ。あんたらこそ、なんで森の奥へ行きたがる。誰もが恐れ、近づこうともしねぇ森によ」
「世界の破滅を防ぐためよ。何度もそう言ってるじゃない、あんた頭悪いの!!」
男の問いにリカートが間髪入れずに答えていた。先刻から喉元まで沸き上がってくる罵声を、鈴音のために押し殺していたのだが、それももう限界だった。
「そいつぁ聞いた。だがな、それだけじゃ神官のあんたはともかく、こっちの娘が危険を冒さなきゃなんねぇ理由にはなんねぇと思うんだがねぇ」
酒臭い息をまき散らし、口元のニヤニヤ笑いもそのままに男は嘗めるような視線を鈴音に向けた。値踏みでもするかのように。
「・・・本当は、あたしじゃなく、別の人がするはずだったんだけど。何かの手違いであたしが送り込まれたの。正直、あたしなんかに世界を救うことができるのか自信ないけど、その人がやるはずだったことは全部やっておきたいの。じゃなきゃ、今度その人に会ったとき顔向けできないもの」
相手には答えることを強要しておいて、自分への問いをごまかすことはできない。
少なくとも鈴音にはできなかった。
だから鈴音は素直に正直に、自分の思うところを答えていた。その答えが、どんな結果に結びつくかまでは考えていない。
「・・・・・・。その人ってのは、あんたの良い人なのかい?」
口調も言葉も上品とは程遠いものではあったが、この男にしては最大限に真剣な問いかけだった。その証拠に、会ってから一度たりとも崩れなかった意地悪そうな笑みが消えている。
「そうなれたらいいなって、思ってた人よ。結局フラれちゃったけどね」
少し照れたように言って、軽く微笑む鈴音。それは同性であるリカートすらもウットリしてしまうほどに穏やかで優しげな、柔らかい月の光のような笑顔だった。
「・・・・・・なるほどな、いいだろう。案内はしてやる。ただし、俺の安全をあんたらが保障し、俺はあんたらの安全に責任を持たない。それが条件だ。もちろん、金も相応に払ってもらうぜ」
先刻までの頑なな態度がなんだったのかと訝しく思えるほどアッサリ話はついた。鈴音にしろリカートにしろ、危険は承知の上だったし自身の安全を案内人に託す気もなかった。金にしても始めからある程度の報酬は支払う用意ができていたのだ。
むろん用意したのはラファエラ、エスティリエ両女神ゆかりの教団であって、鈴音のあずかりしらぬことではあったのだが。
「ありがとう、助かります」
もう一度あの微笑みを投げかけ、鈴音は右手を差し出した。鈴音としては握手のつもりでした行動だったが男には伝わらず、何を思ったのか思い切りはたかれてしまった。
肩が外れるのではないかと思うほどの強力である。
だが、別に不興を買ったのではなく、握手の習慣がないがゆえの戸惑いからくる行動であった。自分の力をアピールするためのものと思っていいだろう。
その効果は充分すぎるほどあったわけだ。
これで酒が抜ければ頼るに足る道案内人となるに違いない。
「俺の名はバンボラ、バンと呼んでくれ」
「あたしは鈴音よ、よろしくね」
出会って約三十分、互いに名乗りあったのは今が始めてであった。
「あたしは鈴音様の護衛、ラファエラの神官リカート。あたしはともかく、鈴音様に失礼を働いたら、あんたの空の頭をくり抜いて酒杯にしてやるから気をつけることね」
そう言って、本当に殺意のこもった目でリカートは酔っ払いの顔を射貫いた。
しかし酔っ払いのほうも負けたままではいなかった。リカートの戦士として無駄なく洗練され均整の取れた肢体を嘗めまわすように見て、こういったのである。
「じゃあ、あんたなら襲ってもいいのか?」
その後、リカートのきつい肘打ちを鳩尾に食らって、大量のアルコールと胃液を吐いたのは言うまでもないだろう。
女の神官とは言え、戦士として教育を受けた者を不用意にからかってはならないと、身を持って体験したのだった。
自業自得の生きた見本である。
鈴音らがバンをつれて教会に戻ったとき、旅の準備はすでに巫女達の手によって済んでいた。巫女頭の部屋には、鈴音らのために用意された荷物が山と積まれている。
だが、森に詳しいバンは、その山を一目見るなり露骨に音を立てて舌打ちをし、両手で山を文字通り切り開くと荷物を床に投げ捨て始めた。
「な、なにを!!」
わざわざ八方手を尽くして集めた荷物を、無下に扱われては堪らない。部屋の端で畏まっていた巫女達が狼狽した声を上げている。
「森に行くのに荷物はいらん。いるのは武器と薬、そして良い案内人だ。森ん中じゃな、こんな荷物は屁の役にもたちゃしねぇ。これだから素人は・・・」
その後もブツブツと文句をいいながら、バンは山の荷物を小さなリュック一つにまとめ、他のものは捨ててしまった。その多くは保存の利く干し肉と、女の子である鈴音への気遣いだろう服、特に下着類であった。
「出発は明日の朝、夜明けと供にだ。寝過すんじゃねぇぞ、お嬢ちゃんたち」
荷物の準備というより選別を終えるとバンはそのまま床に寝転び、すぐにいびきをかいて眠入ってしまった。
ここが神聖なる教会の一室であり大部分が神に身を捧げた巫女とはいえ、うら若い乙女たちの目の前であるという意識が、彼にはないようである。
「これだから男は・・・・・・」
さすがに聖職者、舌打ちどころか表情も崩さず巫女頭は呟いた。飲み込んだ言葉がなんなのか、それもわかる気がする。
ともかく、それが何者であれ男である以上鈴音はもちろん、リカートや巫女達も同じ部屋で眠らせるわけにはいかない。
やむなく、鈴音たちを最も離れている部屋に寝かせ、他の巫女たちをその間の部屋で休ませることになった。
同時に、この部屋の書物が万が一にも教会の外に運び出されることのないよう、この部屋は封鎖されることになった。
封鎖といっても重要なものばかりが保管してある中で、特に持ち出すどころか読むことも許されない書物を運び出し、神官と巫女が交代で廊下を見張るぐらいのものである。
そんなことをしなくとも、この森しか知らない男が書物を読むなどという高尚な趣味や興味を持っているとは思えなかったのだが・・・。
3
「よ~し! 出発だ!!」
威勢の良いかけ声とともに男は歩き出した。その後には間違いなく鈴音とリカートが続いているが、二人ともに沈黙の薄い靄の中にいた。
白けたようなムードが、その二人にはある。
夜明けとともに出発のはずが、実際には太陽が姿を見せ、天頂までの軌道を四分の一ぐらい昇る時刻にまでズレてしまったのだ。
鈴音やリカートが寝過したためでは断じてない。
リカートは神官、朝には強かった。ただ鈴音への気遣いから目を覚ました後もできるだけ動き回らないようにしていただけなのだ。
だから、夜明け前に起き出して鈴音を起こし、軽く食事をとるぐらいのことは造作ないことだった。
鈴音にしても寝つきと寝起きは良いほうである。起こしてくれるなにかがあれば、朝どんなに早い時間でも起きることができたのだ。
寝過したのは男、バンボラ自身である。
それでも、寝過しただけなら鈴音もリカートも露骨に大きな溜め息を一つ吐くぐらいで忘れてあげた、あげられた。
が、自分で提示した時刻に遅れた上に二人の顔を見ると開口一番、彼は悪びれもせず、大欠伸のついでに言ったものである。
「おう、すまねぇ。久しぶりに酒抜きで寝たもんだから、寝過ぎちまった」
これでは、いかに温厚な鈴音でも不機嫌にならないほうがおかしい、リカートなど爆発寸前の活火山状態にあった。
それでも、なんとか爆発せずにいるのは、ここでまたごねられて案内を拒否されては困る、その一点のためであった。
リカートにとっては最大限の譲歩。期限付きの執行猶予である。今後森の中の案内に不備が見つかれば、それを理由に蹴倒してやろうと思っているのだった。
一触即発の緊迫した空気を孕んだまま、一行の旅は始まった。始まってしまった。彼女らを見送る者たちは、その行く手に立ちはだかるであろう形なき雷雲の存在を感じずにはいられなかった。
いろいろな意味において・・・。
街を出た一行は、そのまま森に入ったりはせず、いったん西に逸れて森の周囲を反時計回りに迂回した。
これは、鈴音とリカートが森の素人であり、出来るだけ森の中を歩かずに済むようにとの判断から出た行動である。
この森は南北に長い紡錘型で、北にある街から一直線に進むより東か西に迂回して、そこから中心を目指すほうが森の厚みもなく、楽なのだ。
また東には川があるが西にはない。
獣たちは水辺に集まるものだし、ヘビやヒルは湿気を好む。そういう意味で森の中心へ行くことだけが目的なのであれば、東側から行くほうが距離的にも獣から襲われる危険性からもベターなのだ。
もっとも、所詮はベターな方法である。
その内実は『比較的良い』でしかない。
自然、自然公園などという言葉だけの自然ではなく、真の意味での自然の中。完璧なことやものなどあるわけがない。
森を左手に見ながら、鈴音たちは南下していく。
なにもない、見渡す限りの草原である。
なにもかもが意図的に造られた世界であるために、不用意に高い山や深い谷は存在しないのだ。神々が意図的に造った聖地以外に、深い森も存在しない。
ときおり涼やかな風が頬を撫で、過ぎ去っていく。
次第に火照ってくる体に、その風はとても心地く感じられた。
が、それは長く続かなかった。
「!!」
風が変わったのだ。
強さがではない、温度がだ。先刻まで涼やかだった風が、なま温かくなっていた。一歩踏み出すごとに気温が一度上昇している。そんな錯覚すら起こさせる。
数分後、辺りの景色に変化はないのに気温だけが熱帯のそれに変わっていた。それは夏場クーラーをかけて、気持ち良く過ごしていたのに突然ブレーカーが落ち、サウナ状態になったような劇的な変化であった。
「な、なんなのよ。なんだってこんな急に気温が変わるの?」
犬みたいに舌まで出してハァハァやりながら、鈴音が苛立ったように呟く。気分的には怒鳴りたいところなのに、その気力すらなくなっていた。
「変わったんじゃねぇよ。俺達のほうが暑いところに足を踏み入れたのさ」
平然としているのはバンボラだけである。充分に鍛えてあるはずのリカートですら額にうっすら汗を掻いていた。
「これ以上暑くなるって言うの!!」
語気は荒いが迫力のない声で、バンボラに噛みついている。微かにかすれた声がハスキーでなかなかに艶やかだ。
「いや、これが最高さ。もっとも、このまま森に入れば熱よりやっかいなものが待ち受けているがな」
南下するのをやめ、西、森へ向きを変えて歩きだしながら答えるバンボラ。
熱よりやっかいなもの、という言葉に不安を駆り立てさせられながらも、鈴音とリカートが後を追う。
やがて三人は否応なく森へと足を踏み入れた。そこには鈴音にとっては当初予想していたものとはかけ離れた雰囲気があった。森というよりも密林、まったくのジャングルだった。
「あのう、熱よりもやっかいなことって、なんなんですか?」
危険に対する恐怖はもうなかったのだが、未知のものに対する不安が心の中で膨らみ続け、弾けそうになったところで、その一部が鈴音の口からあふれ出ていた。
「そうだな・・・・・・。おもしろいものを見せてやろう」
鈴音の問いに直接は答えず、バルボラは足下の小石を拾い上げ、前方に投げた。まるで飛んでいる鳥を落とそうとでもするような勢いでである。
だが、その石は飛び続けはしなかった。
もちろん、投げた石が落ちるのは自然の理である。とはいえ、落ち方というものがある。普通ならば緩やかな文字通りの放物線を描いて、地面に落ちるはずだった。
にもかかわらず、この石は放物線を描くことがなかった。ある程度まっすぐに飛んでいくと、ある地点で急に落ちたのである。まさしく垂直にだ。
それは落ちたと言うよりも、叩き落とされたと表現したくなるような、重力の法則を完全に無視した、激烈な変化だった。
「わかるかね?」
不自然すぎる変化を目の当りにして、ただただ呆然とするしかない女性二人を振り返り、男が笑う。
「・・・・・・重力異常地帯?」
テレビの特番でときおり目にするものなだけに、鈴音には異常現象の内容がおおよそ想像できた。注意して見ると石を投げてみるまでもなく、重力の異常がある場所とない場所の差はハッキリと区別できる。
まっすぐに伸びる木がほとんどの針葉樹林にあって、捻曲がった木々の多く茂る区域があった。
そこは人知を超えた力でシッカリと線引きがなされているらしく、木々の中にも枝葉が太陽を求めている側と地に向かっている側とに二分されたものが並立している。
どうやら、それが一種の境界線であるらしい。地図の上にコンパスで描いたような円で区切られているのだろう。
見事な曲線である。
「どういうことなの?」
まだ、事態がわかっていないリカートが戸惑いながら、バルボラに聞かれてバカにされたくないのだろう。小声で訊いてきた。
「つまり、今度は歩く度に重力が強くなる。要するに体が重くなるって事よ」
ゲンナリした口調と表情で説明するが、もちろんリカートへの返答が嫌でというのではない。太るのとは意味がまったく違うのは解っているのだが、体重が増えていく現実が嫌だったのである。
一キロ、二キロのダイエットに四苦八苦する現代の娘にしてみれば、それは悪夢意外の何者でもないのだろう。
ダイエットのために戦戦恐恐の同世代の女性たちとは一線を画している鈴音ではあったが、基本的な価値観に大差はなく、やはりつらいことなのだ。
逆に同年代の女性ではあるが、住む世界の違うリカートは鈴音とまったく違う理由で、まったく違う受け留め方をしていた。
「暑い上に体が重くなったんじゃ、体力の消耗が激しすぎるわね。いざって時に戦えるだけの体力を保てるかなぁ」
女性らしい曲線を重視しつつ、体重は落とし、筋肉質の体を嫌いつつ体脂肪を気にする。 『美』という曖昧な価値観に固執するあまり自分らしさというものを忘れてしまっている鈴音の友人たちとは異なり、神官である前に戦士であるリカートには体重が増えるという役にも立たない悩みは無縁のものであった。
日焼けして肌が荒れようと、染み・そばかすに顔が覆われようと、筋肉が付き二の腕が太股になっても、リカートにはさほど気にはならなかった。
彼女の身はすでに女神に捧げられていて、男とは無縁であったし、神の代行者として戦うことに誇りを見いだしてもいる。
体重が重くなることよりも、体が重くなり思うような動きができなくなることのほうが問題だった。
「引き返すんなら、いまだぜ」
逡巡する二人の女性に、意地の悪い笑みをひらめかせつつバルボラが言う。それが単なる意地悪だけの理由で出た言葉でないことは、彼の額を濡らす大量の汗が如実に示してくれている。
恐いのだ。
できることなら、ここで踵を返して酒かっ喰らって寝ていたい。そう思っている。
そして、自分がそう思ってしまうほどの森に自ら望んでのこととは言え、うら若い女性を入れたくはない。そんな思いが口にさせた言葉だった。
「いいえ、行きます。あたしには帰るとこなんてないんだもの、先に進む以外ないんだもの」
健気を通り越して、悲愴ですらある鈴音の叫びが答えた。それは必然であり、事実だった。彼女には前に進む意外に取るべき道がない。
「わかった、わかった。おまえさんの根性には負けるよ、ほんと」
まるで仇でも見るような厳しい眼光に射竦められ、不覚にも金縛り状態になりかけたバルボラが、それを誤魔化すようにして破顔一笑する。
が、それはすぐに厳しい表情にとって変わった。ここから先は彼にとってもシャレにできない領域。実際、生きて帰れる保障はどこにもなかった。
「じゃ、いくぜ」
足の震えを悟られぬよう、わざと軽い足取りで先に立つバルボラ。不安や恐怖と戦いながらも勇気を奮い立たせ、必死に後を追う鈴音。心の中で何度も女神への祈りを捧げ、剣の柄を握るリカート。
一行は強烈な重力に支配される空間へと足を踏み入れていった。
強烈な重力下の森に入って、すでに二時間が過ぎようとしていた。一行は亜熱帯性の気温と湿度の中、三倍近い体重で慣れない道、道とも呼べぬ獣道を歩み進んでいる。
もはや体力は底をつき、今や気力が足に前へ出るよう命じているだけとなっていた。だが、それも限界に近くなっている。気力の命令に従うことを、足が拒否しだしたのだ。
足がもつれ、めまいが襲う。なにかがしきりに眠りを勧めていた。その声に耳を傾け、冷たい地面に身を横たえることができたら、そう思い始めていた。
それでも、わずかに残る理性が弱々しく発する警告が彼らの精神を、命を支えている。眠ったら死ぬ、と。
だが、眠りと言うものは数ある苦痛の中でも回避不能なものだ。痛みは最初の一瞬にさえ耐えれば我慢のしようもあるが、眠りに関しては持続性もあり我慢だけでどうにかなるものではない。
ハッキリと自覚できる要素がないぶん空腹よりもつらい。同等のつらさを持つものは後に痒みしかないのだ。
やがて、彼らの頭からは眠りを勧める声も、理性の警告も消えていった。完全な虚無が脳を支配し、三人は膝から崩れ落ちる。
その直前、彼らは見た。前方に輝く光を、色鮮やかな蝶が、鳥が舞い飛ぶ森を。
重力に押しつぶされようとしている彼らに、その姿は天使のように見えた。重力の戒めから解かれ、自由に振舞う陽気な天女のように。
それが現実なのか、幻なのかは分からない。
だが、どうせ死ぬのであれば少しでも天国に近い場所で死にたかった。三人は最後の生命力を燃やし尽くすつもりで、光へと向かい這っていく。
黄金に輝く樹木が見え、その奥に天使を見る。瞬間、あふれる光が網膜を焼き、浮き上がるような感覚が薄れ行く意識の中に流れ込んでいた。
弦楽器であろう甲高く単調な旋律が、耳に滑り込んでくる。
三人にとって、それだけが自分の存在を知覚させてくれるものであった。強烈な無感覚の中、聴覚だけが外の情報を受け入れていた。
やがて、その旋律につられるようにして、一瞬の輝きのあと闇に沈んでいた視力が光の中へ蘇り、三人は自分たちが生きていることを知った。
自分たちを取り囲む光の少女たちを、ボンヤリ見つめながら・・・・・・。




