21
静まり返った夜中。
扇情的な体躯を持った女性は、漆黒の長い髪を耳にかけて後ろへと流す。
ゆっくりと第一王子エドワードのベッドへと近づくと、そこの端に腰かけて眠る王子の頬に、しなやかな指をふれさせた。
「こんばんは、王子様」
艶のあるイヴァーの声に、エドワードが目を開ける。
(……やっぱり、催眠系の魔法?)
かすむ視界と脳裏、散漫になる身体。
身を起こすことも叶わないエドワードを、イヴァーの指は楽しそうに撫でていた。
頬から、首筋、鎖骨を巡って、また首へ。
外へあまりでることのない彼の肌は驚くほど白くなめらかで、女の指は何の摩擦も感じさせずその肌をなめらかに滑る。
顎までたどり着いた指が曲げられ、エドワードの顔を真上へと上げさせた。
「っ……」
「……嫌そうな顔ね」
エドワードの視界に入ったのは、艶やかに笑む黒髪の女性イヴァー。
今夜もいつものように襟元には赤黒い大蛇を巻いている。
イヴァーがシーツへと手をついて、エドワードへと顔を寄せてきた。
指先ひとつ動かない今の状況では避けることももちろんできず、近づいてくる美しい女の顔を紫色の瞳で睨むことしかできない。
「ねぇ、私たちといらっしゃい」
耳元で、イヴァーが囁く。耳朶を震わせる官能的な響き。
「っ…行か、ない……」
エドワードはぐらりと揺れる理性に必死に逆らった。
「日に日に抵抗が緩くなっているのに、気づいているのだろう?」
しわがれた声の蛇が、縦に線の走った金色の目を細めて言った。
エドワードが揺れているのを、この蛇は気づいているのだ。
「…………何を、させる…つもり…」
「言ったでしょう?欲しいのは魔物たちが自由に生きられる世界。現王家を絶ち、魔物を推奨する新たなる王を立てるの。あなたの王家の血があればやりやすいのよ」
「特殊な魔力の持ち主は、魔物たちからも好かれやすい」
「ルルちゃんもずいぶん魔物に好かれる性質の魔力だものね」
「…………」
エドワードは息をのんだ。
目の前の彼らはエドワードに母を殺し、新たなる王に立てと言っているのだ。
厳しくなったエドワードの表情をイヴァーは色っぽく微笑して見下ろす。
「殺すのがいやなの?甘い子ねぇ…なら、追い立てるだけでも良いわ。この国の王にあなたが立ち、私たちとともに新しい世を作ってくれれば。まぁそれでも抵抗する輩は殲滅させるけれど。魔物を受け入れる人には、私たちもめったなことしないわよ。ねぇ、作りましょう?…貴方の大切なルルが望むような、魔物と共存出来るすばらしい世を、ね」
「っ……の…」
(…どんどん垣根が低くなっていく)
母親を殺さなくても王位から落とせばそれでいいと彼女は言う。
ルルが魔物を好くならば、法を変えてもいいと元々本気で思っていた。
むしろエドワードが望む未来の手助けをしようとしてくれているようで、彼らを味方に付けることが、とても良い方法にさえ見えてくる。
判断の鈍った思考の中、艶やかな誘惑が耳元でささやく。
香水か何かの、花のような濃厚な香りが鼻をくすぐった。
「もともと将来的には王座につくのでしょう?少し早まるだけじゃない」
「っ………」
エドワードはきゅっと目をつむった。
(だめ、だ)
聞いてはだめだと思うのだ。
でも、どうして駄目なのか。
どうして彼らとともに行くのがいけないことなのか、分からなくなってきた。
だってイヴァーとこの大蛇は、エドワードの望む未来を作る手を貸してくれる存在なのだ。
エドワードの内心を読み取ったかのように、イヴァーが満足そうに微笑んだ。
顔を寄せて、エドワードの頬に赤い唇を落とす。
「また来るわね」
頬へと触れた柔らかな感覚に、息をのんだ。
そのキスが気持ち悪いのか、気持ちいいのか。
嫌なのか、嬉しいのかさえ、もうエドワードには分からない。
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王立魔法学校『サヴタール』へ通うのは、5歳から25歳までの、将来魔法分野で活躍することを目指す少年少女たち。
古い城を改装して作られた学び舎は、今日も相変わらずにぎやかだ。
「ヤマト先輩っ!」
高等部の校舎で、小柄な金髪の少女の声が廊下に響いた。
中等部生の彼女がここにいるのは、魔法関係だけは優秀なルルが魔法教科の授業を高等部の教室でうけているから。
彼女に呼ばれたのヤマトは他より一つ頭の飛び出た長身で、だから人にまぎれて誤魔化すことも難しい。
ヤマトは不機嫌な表情で振り返った。
「次の授業までに中等部まで戻らないといけないのだろう」
ヤマトが怖い顔をしているのなんて、いつものことだ。
そして彼に少しくらい冷たいものいいをされたってルルは気にしない。
気にしないと言うよりかは、彼の放つ冷淡な雰囲気に慣れてしまったと言う方が正しいのかもしれない。
「急いでいけば大丈夫です。でもその前に…先輩にお願いが……」
「お願いだと?」
背の高いヤマトを見上げて、ルルは眉を下げた。
とても必死そうな少女の様子に、本気の相談なのだとヤマトが悟る。
「本気で留年しそうなんです」
「……で?」
「助けてください」
しばらく休んでいた分の補習授業に、成績が足らないための追試。
提出しなければならない問題集やレポートはレアに嘘をついた罰として、ありえない量に増やされていた。
(どうやっても無理。間にあわない)
だからルルはこうしてどの教科でもトップから5本指の中にはいる優秀な先輩に、頭をさげにきた。
「エドワード王子や兄上が見てくれると言っていなかったか?」
「エディ兄様は夜に少し見てくれますけど、仕事もあるのでそうそうまとまった時間は取れなくて。エドワードはなんだか…」
「…………?」
ルルの碧色の瞳が揺らいだ。
「ちかごろエドワードがこっちを見てくれないんです。様子が変で、どうしたのかと尋ねても俯いて口を噤んでしまって」
「王子が?」
「はい…だから一緒に勉強してもスムーズには進まなくて」
学校が早く終わった日にはルルは制服のまま王城へ立ち寄っている。
けれど、迎えてくれるエワードはなんだかこれまで以上に無口になった。
いくら尋ねても視線もそらされてしまって、何を考えているのかが全く分からない。
いつもなら誰にわからなくてもルルにだけは大雑把な喜怒哀楽くらいはわかったのだ。
でもエドワード自身がルルに対して壁を作ってしまっているから。察することさえ難しくなった。
「……嫌われてたんでしょうか。」
周りにいる人たちを大切にはしてきたはずだ。
嫌われるようなことをした覚えはない。
でもルルは自分が敏い人間でないことは分かっている。
賢くもないし、言いたいことは直ぐに口に出してしまう方だから、知らない間に何か傷つけるような台詞を言っていたのかも。
(間違いなくエドワードは、私を避けてる)
避けられてる、と気づいてしまえば深く立ち入るのが怖い。
らしくなく沈んだ様子で話すルルを、ヤマトが黒い瞳で見下ろす。
少女の波打つ金色の髪が、落ちた気分に合わせて輝きを失っているようにも見える。
それだけ目に見えるほどに落ち込んでいると言うことで、しばらく寝食を共にしたせいで、ある程度の情がわいているだけに無視も出来ない。
ヤマトは面倒くさそうにため息を吐いた。
「……丁度、エドワード王子に用事があったんだ。放課後にでも一緒に行くか。勉強も3人なら進みがはやいだろうしな」
「ほ、本当ですか?!」
近頃1人では重い王城までの足取りも、ヤマトが居れば軽くなりそうで、ルルは喜んで声を上げた。
しかも勉強も見てくれると言う。王城でエドワードとヤマトの2人もの講師に見て貰えればきっと進みも早いだろう。
「ありがとうございます!」
嬉しそうに頬を緩めて笑うルル。
ちなみに廊下にいる高等部の生徒たちは遠巻きにルル達を眺めていた。
2人が深刻な話をしている様子なので近づくものはいなかったが、週に数回教室へ現れて共に机を並べる
年の離れた可愛い少女を、大部分の人たちは気に入っている。
そのルルの悲しげな表情をはらはらとした気分で見ていた彼らは、直後に見せた愛らしい笑顔に満足そうにうなずいて、それぞれが次の授業の教室へと戻っていくのだった。
「そろそろ本当に間に合わないぞ」
周囲の人間が教室へと引っ込みはじめたのを視界の端にとらえたヤマトは、次の授業の時間が近い事をルルにさとす。
「あ、本当ですね。えっと、では放課後に校門に待ち合わせでもいいですか?」
「あぁ」
「宜しくお願いします!失礼します!」
身をひるがえして高等部と中等部の校舎を繋ぐ渡り廊下の方へ駈け出すルル。
ヤマトも教室へと足を向けようとして、しかしふと思いたって小さな背中を振り返る。
「そう言えば、ルル…」
「はい?」
ルルは数歩歩いてしまっていた。
振り向くと当然さっきより離れた距離で、首を上向かせなくても楽に見えるヤマトの顔を不思議そうに見る。
「エドワード王子の魔法について、お前は何か知っているのか?王子が優秀な魔法使いだなんて聞いたこともなかったのだが」
「あ……ええと…」
ヤマトの問いかけに、ルルは表情を固めてしまう。
(旅の前にエドワードは魔法は使えないって言ってた…。でも間違いなく魔法を使ったんだよね)
ルルを守るために。使えないはずの魔法を使ったエドワード。
それもあっという間に周囲数十メートルを氷結、浄化してしまうほどの高度な魔法だ。
エドワードが倒れてしまったことでうやむやになったけれど、もちろん誰もが疑問に思っていた。
「あの…魔法については…口にださないでおいてもらえますか?」
「ふむ。公表されていないと言うことはやはり何か理由があるのだろうしな…。承知した」
「ありがとうございます。では、本当にこれで」
ルルはヤマトへと軽く頭を下げてから、自分に出来る精一杯の速さで歩いた。
次の授業に遅刻して罰則をくらうのは痛い。
これ以上の課題なんて何をどうやったって仕上げられないから、絶対に時間内に中等部へと戻らなければ。
前世でもそうだったけれど今世でも同じように学校の廊下を歩くのは校則違反なのだ。
中等部へと足を向けながら、ルルはさっきのヤマトの問いを頭の中で考える。
(そう。使えないんじゃなくて、何か理由があって使わないんだよね。でも今エドワードに聞くのはちょっと…)
今まで隠していたものを暴くのは、もっとしっかり目と目を合わせて話し合えるだけの状況になってからの方がいいと思ったのだ。
不安定な関係がますます揺らいでしまいそうで、だからルルは詳しく訪ねるのが怖かった。