第九話 帰ってきた兄
輪を抜けた先に、足場はなかった。
カノンはディーンの腕を離さないよう抱き寄せ、そのまま石の床へ倒れ込んだ。兄の左肩をかばって体をひねったため、背中をまともに打ちつけた。肺の空気を押し出され、声も出せなかった。
「カノン!」
アリアが駆け寄ってくる。その背後で大きな金属音が響いた。黒衣の男が支柱から飛び退くと、輪が傾き、内側に残っていた光が細く裂けて消えた。
ついさっきまで見えていた森はもうない。輪の向こうには、湿った石壁があるだけだった。
カノンは痛む背中を気にする余裕もなく、腕の中の兄をのぞき込んだ。
「兄さん、大丈夫か」
「……聞こえてる。そんなに大きな声を出すな」
いつもの小言が返ってきた途端、ようやく息が吸えた。ディーンは薄く目を開け、カノンの顔を確かめると、自分の下敷きになっている弟の腕を軽くたたいた。
「お前まで怪我をするぞ。もう離していい」
「分かった。でも、先に起こすから」
アリアにも手を借り、兄の体をゆっくりと起こして壁にもたれさせた。左肩の布には、新しい血がにじんでいる。ディーンが口を開きかけたところへ、黒衣の男が膝をついた。
「平気だって言うなら、手当てが済んでからにして」
兵から清潔な布を受け取ると、男は傷口に押し当てた。ディーンが歯を食いしばり、無事な右手で床をつかむ。カノンはその手を握った。代わってやれないのは分かっている。それでも、兄が痛みに耐えるのを黙って見ていることはできなかった。
兵の一人が救援を呼びに階段を駆け上がり、もう一人は担架に使えそうな物を探し始めた。アリアが灯りを寄せると、黒衣の男は短く礼を言い、傷を押さえる布を巻き直した。
手つきに迷いがない。布を留め、緩んでいないか確かめ、指先の色まで見ている。その手際のよさが、かえって気にかかった。自分の知らない八年間に、何を経験すればこんなふうに動けるようになるのだろう。
「これで運べる。なるべく肩を揺らさないようにしよう」
ディーンは目を閉じたが、カノンの手を握る力は残っていた。
「帰ろう、兄さん。母上たちが待ってる」
兄は目を閉じたまま、かすかに頷いた。アリアもほっとしたように胸元へ手を当てる。
けれど、黒衣の男は立ち上がると、光の消えた輪へ視線を向けた。
「俺は、ここから別の道へ行く」
「……屋敷には帰らないのか?」
「今は帰れない。迎えに行かなきゃいけない人がいるんだ」
男の視線が、アリアの髪に留まった。銀の花飾りが灯りに小さく光っている。彼女はそこへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「私を探してるって、さっき言ったよね」
「ああ」
「でも、私はここにいるよ」
アリアは戸惑っていた。目の前にいる自分では駄目なのか、そう尋ねられた男も、簡単には答えられないのだろう。一歩近づきかけて、結局その場に留まった。
「君には、これから出会う人たちがいる。君自身が選んで、歩いていく時間がある。俺が迎えに行くのは……その先で、帰れなくなった君なんだ」
アリアは黙ったまま男を見つめた。
カノンにも、少しだけ分かった気がした。八年後の自分がここにいるからといって、今の自分の代わりにはならない。目の前のアリアもまた、男が探している彼女の代わりにはならないのだ。
「そのアリアは、生きてるのか」
「生きてる。声も聞いたし、姿も見た。ただ、まだ連れて帰れていない」
「行く道が見つからない?」
「会いに行ける道と、二人で帰れる道は違うんだ」
男は外套から銀の髪飾りを取り出した。アリアの髪にあるものと同じ形だが、花弁の先には細かな傷があり、留め具には直した跡が残っている。男はその花を確かめるように眺め、布に包んで戻した。
「教えてくれないか。俺が今からできることを。八年もかかる前に、何か……」
最後まで言えなかった。八年間探し続けてきた本人に向かって、まるで努力が足りなかったかのような言い方をしてしまった。
男は怒らなかった。兄の手当てで指についた血を布で拭い、ゆっくりと口を開いた。
「アリアがいなくなったとき、俺はすぐそばにいた。手をつかんだつもりだったのに、次の瞬間には何もなかった。どの道に入ったのかさえ分からなくて、見つけた入口を一つずつ調べるしかなかったんだ」
そこで言葉を切り、アリアへ目を向けた。
「途中で会えたこともある。でも、そのときの彼女は俺より先の出来事を知っていた。次に会うまでには分かると思っていたことが、まだ分からないままだったりしてな。今、話せるのは俺が確かめたところまでだ」
八年後の自分なら、答えを知っていると思っていた。けれど、この男も手探りで進んでいる。カノンは返す言葉を見つけられなかった。
「一つ、覚えておけ」
男がカノンの腰の袋を指した。
「最後の木の実を乾かすな。必ず役に立つ。それと、時計の日付だけを信じて飛び込むなよ。向こうの足場と、帰り道が動くかどうかを確かめてから渡るんだ」
「……分かった」
カノンは袋の口を確かめた。残る木の実は一つ。これまで二度、同じ木の実が途切れた仕掛けをつないでくれた。
男が銀時計を取り出したので、カノンもオルフェから預かった時計を開いた。蓋の同じ場所に、花弁に似た小さな彫り込みがある。だが、男の時計は縁が磨り減り、何度も使われたことが見て取れた。
「エドガーの手紙は持ってるな。指定された日付を忘れるなよ」
「兄さんが森へ入った日から、八日後の夜」
「ああ。その夜、時計塔で調べることがある。ただ、先に何か起きたらオルフェに相談してくれ」
アリアが顔を上げた。
「おじいちゃんに会ったの?」
「会ったよ。旅の途中でも、ここへ来る前にも」
「……元気だった?」
「俺を叱るくらいにはな」
アリアは笑いかけたものの、すぐに唇を結んだ。
「どこにいるか、分かる?」
「今どの日付にいるかまでは分からない。でも、時計塔へ戻る道を調べていた。君に残した青い布も、そのためのものだ」
アリアは肩に掛けた袋を引き寄せた。エドガーがまだどこかを歩き、誰かと言葉を交わしている。アリアはそのことを確かめるように、しばらく袋を抱えたままでいた。
階段から兵たちの足音が聞こえた。二本の棒の間に外套を張った、簡易の担架を運んでくる。黒衣の男もしゃがみ、ディーンの足元を支えようとした。
その前に、どうしても聞いておきたいことがあった。
「九歳の俺が、二人いるところを見たんだ」
男の手が止まった。
「一人は銀時計を持って走ってた。もう一人は、それを見てた。服も顔も同じだった」
男は一度カノンを見てから、自分の胸を指した。
「今だって、俺とお前がここにいるだろ?」
「……ああ」
「あの二人も別の人間じゃない。自分がどの道を通ったか、順番に考えてみろ」
答えを教えられたわけではない。それでも、九歳の自分が二人いた光景を、もう一度思い浮かべることはできた。
兵の合図でディーンを担架へ移す。左肩が揺れたとき兄は顔をしかめたが、運び終えると、黒衣の男の袖を引いた。
「お前も、俺の弟なんだな」
「そうだよ」
男が顔を近づけると、ディーンはしばらくその顔を見ていた。八年の違いがあっても、自分の弟だと分かったのだろう。
「だったら、一人で何とかしようとするな。助けが要るなら呼べ」
男はすぐには返事をしなかった。兄の手が袖を離すまで待ち、それから静かに頷いた。
カノンが担架の片側を持ち上げると、兄がこちらを見た。
「お前にも言ってるぞ」
「分かってるって」
「今の返事は信用できないな」
アリアが吹き出した。カノンも笑いかけたが、黒衣の男の顔を見ると、うまく続かなかった。
階段へ向かう手前で、カノンは振り返った。男はすでに傾いた輪へ戻り、床の溝を灯りで確かめている。これからまた、アリアを探しに一人で向かうつもりなのだ。
「なあ」
呼ばれて男が顔を上げた。
「今度は、二人で帰れよ」
しばらく何も言わなかった男が、小さく頷く。
「ああ」
カノンは担架を持ち直し、階段を上った。
*
地上ではニナが待っていた。
担架を見ると駆け寄ろうとしたが、叔母に抱き止められた。肩の血に気づいたのだろう。ニナは唇を結び、動かなくなった。
「ニナ」
ディーンが無事な右手を上げた。
「迎えに来てくれたのか」
ニナは勢いよく頷いた。何か言おうとしたものの、結局、兄の指を握るだけだった。出発の声がかかるまで、小さな手は離れなかった。
川沿いの道へ出るころには、日が暮れ始めていた。兵の一人が医師を呼びに先行し、残りは歩きやすい場所を選びながら担架を運んだ。
帰り道は、来たときより長く感じた。石につまずきそうになれば足を止め、ディーンの顔色を確かめ、持ち手を交代する。早く屋敷へ戻りたい。けれど、急いで転べば、ようやく助け出した兄をまた傷つけてしまう。
カノンは何度も気持ちを抑え、足元を確かめながら歩いた。
途中の番小屋で医師と落ち合った。傷を診てもらっている間、カノンは戸口の外で待った。中からディーンのうめき声が漏れてきたときより、それが聞こえなくなったときの方が落ち着かなかった。
隣へ腰を下ろしたアリアが、水筒を差し出してくれた。
「兄さんに飲ませたきりでしょう。あなたも飲んで」
言われて初めて、自分も喉が渇いていることに気づく。水を飲み終えると、床に打ちつけた背中や擦りむいた膝が、今になって痛み始めた。
夜半を過ぎたころ、医師から、すぐに命に関わる状態ではないと聞かされた。カノンはそこでようやく、胸に詰まっていた息を吐いた。
ディーンを荷車に移し、屋敷へ向かう。夜明け前の薄明かりの中、見慣れた門が見えたときには、足の裏まで重くなっていた。
母は、外套を羽織る間も惜しかったのか、そのまま門まで走ってきた。
「ディーン!」
兄が体を起こそうとすると、母はすぐに胸へ手を添えた。
「挨拶は後。今は横になっていなさい」
言い方はいつもと変わらない。だが、ディーンの額に触れた指が震えていた。父は医師から容体を聞き、荷車のそばへ寄った。
「よく戻った」
それだけ言うと、父は運び込む兵たちのために道を空けた。兄が小さく頭を下げる。
カノンも何か言われる覚悟をしていたが、父は泥だらけの肩を一度たたいただけだった。
「お前も食べたら休め。話は昼に聞こう」
「……はい」
いつもの叱責がなかったことに、かえって言葉が出なかった。
温かい粥を食べ、服を着替えて寝台に横になると、すぐに眠りに落ちた。夢の中で兄の腕をつかみ損ね、カノンは飛び起きた。
暗い部屋で耳を澄ます。廊下の向こうから、母と医師が話す声が聞こえた。兄の部屋は隣だ。
今度は、その声を聞きながら眠った。
*
昼過ぎ、カノンが兄の部屋をのぞくと、ディーンは寝台に背を預け、匙を手に食事をしていた。
「寝てろって言われただろ」
「寝台からは出ていないぞ」
母が席を外した途端にこれだ。口答えしようとして、カノンはやめた。昨日はあんなに苦しそうだった兄が、自分の手で食事をしている。それだけで十分だった。
「肩は?」
「まだ痛む。少し熱もあるらしい。でも、昨日よりはましだ」
カノンが椅子に腰を下ろすと、ディーンは匙を止めた。
「ニナは、ちゃんと話せたか」
「三晩のことも、水車小屋のことも。兄さんが痛いのを我慢してたことまで話してくれたよ」
「そこまで話さなくていいのにな」
兄は困ったように笑い、食事を再開した。カノンはしばらくその姿を見てから、部屋を出た。
廊下でハロルドに呼び止められた。先生は古い帳面と、書き写した紙の束を抱えている。目の下には、はっきりと隈ができていた。
「少しはお休みになれましたか」
「はい。先生は?」
「古い記録を読み始めたら、なかなか区切りがつかなくて」
ハロルドは少し困ったように笑った。カノンは、一晩で何を見つけたのだろうと紙の束に目を向けた。
二人は隣の小部屋に入り、机へ資料を広げた。最初の帳面は、八年前にカノンが行方不明になった際の捜索記録だった。見つかった時刻、服の汚れ、目を覚ましてから話したことまで、細かく書き留められている。
「オルフェさんのお話を、古い文献と照らしてみました。アステリアが約八百年前に失われたという記述は、複数の史料に残っています」
カノンは頷いた。地下で聞いた話と、記録が一致している。
「それから、こちらを見てください。あなたが戻られたときの聞き取りです」
ハロルドが示した箇所には、短い言葉が並んでいた。
白い階段。水の流れる床。先が二つに分かれた塔。
「……これ、俺が言ったんですか」
「ええ。覚えていますか?」
カノンは首を横に振った。話した記憶はない。けれど、銀の髪飾りに触れたときに見えた白い街には、確かに頂の分かれた塔があった。
ハロルドはもう一枚、机に並べた。古い旅行記に描かれたアステリアの街並みだ。その中央にも、同じ形の塔が描かれている。
「当時は、どこかの屋敷か寺院のことだろうと思っていました。失われた街の記録と比べようなど、考えもしなかった」
ハロルドは紙を押さえたまま、静かに続けた。
「あなたは、今では覚えていないことを、八年前には話していたのですね」
カノンは記録へ目を落とした。九歳の自分は、この屋敷へ戻って何を聞かれ、どう答えたのだろう。文字が残っているのに、そのときの顔も気持ちも思い出せなかった。
「……鐘のことも書いてある」
戸口からアリアの声がした。ディーンの部屋へ持っていく水差しを抱えていたが、机の上の記録に目を留めたらしい。
カノンが椅子を引くと、アリアは水差しを端へ置き、記録をのぞき込んだ。
「三つ鳴った。三つ目の前に、下へ……」
言い終わらないうちに、アリアの指が机の縁をつかんだ。
「アリア?」
「待って。今、何か……」
彼女は目を閉じた。カノンはそばに寄りかけたが、そのまま言葉を待った。
「時計塔にいたの。私とカノンと、オルフェ。上から砂が落ちてきて、誰かが私を階段の横へ引っ張った」
アリアは恐る恐る目を開けた。
「その人、黒い服を着てた」
「地下で会った男か?」
「顔はよく見えなかった。でも、声を聞いたとき、不思議だったの。どうしてカノンが、向こうにもいるんだろうって」
アリアは机の上の塔の絵に目を戻した。
「九歳のカノンがいて……その後ろに、もう一人」
カノンは続きを待った。アリアが顔を上げ、はっきりと言った。
「大人になったカノンがいたの」
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