第八話 十一日後の兄
剣を向けたまま、カノンは目の前の男を見つめていた。
八年後の自分だと言われても、すぐには信じられない。目元も声も、確かによく似ている。だが、十七歳の自分が二十五歳になったとき、どんな顔をしているかなど知るはずがなかった。
「……証拠は?」
男は背後の兵たちをちらりと見て、声を落とした。
「十歳の冬、父上の酒を盗んで飲んだ。一口でむせて、残りを井戸に捨てようとして――」
「もういい!」
続きは聞かなくても分かった。井戸の前でディーンに見つかり、水を使う人たちのことを考えろと散々叱られた。父には黙っていてやる、と兄が約束してくれたことまで覚えている。
兵たちがそろって顔を背けた。隣のアリアも、笑いをこらえるように口元を押さえている。
「……そんなにおかしいか?」
「ごめん。でも、少し安心したの」
男も口元を緩めた。その笑い方まで、よく知っているものに見えた。
カノンは剣先を下げた。これだけで相手の言葉をすべて信じたわけではない。それでも、これ以上、人に聞かせたくない昔の失敗を披露されるのは御免だった。
「兄さんは?」
「この先だ。兄さんが消えてから十一日後の森にいる。左肩を痛めてるんだ。詳しい話は、助けてからにしよう」
カノンは剣を鞘に収めた。確かめたいことは山ほどあるが、今は兄を連れ戻す方が先だ。
黒衣の男が奥の階段へ向かう。アリアも続こうとすると、男は振り返った。
「君はここで待っていてくれ」
「……私に何か起きるの?」
「足場が悪いんだ。向こうへ続く道も、まだ安定していない」
「だったら、誰が行っても危ないでしょう」
男は答えなかった。外套の胸元に手をやり、そこにしまった銀の髪飾りを確かめるように指を動かす。
八年間、アリアを捜し続けたという男だ。ようやく彼女が目の前に現れたのに、また危険な場所へ連れていくのは怖いのだろう。
だが、アリアは男の歩んだ八年間を知らない。ここへ来た理由も、やるべきことも、自分で決めている。
「地図を持っているのは私だよ。分からないことを調べたくて、ここまで来たのも私。危ない場所を教えてくれたら気をつける。でも、何も知らないまま待っているのは嫌」
男はしばらくアリアを見ていた。説得する言葉を探しているようだったが、やがて階段の右側を指さした。
「手すりには寄りかからないで。下の三段は水に浸かってる」
「分かった。ありがとう」
アリアが答えると、男は先に階段を下りていった。カノンも続き、最後の濡れた段でアリアに手を貸した。
階段の先は円形の石室だった。上の通路で見たものより大きな金属の輪が、斜めに傾いたまま据えられている。床を横切る細い溝には銀色の根が入り込み、輪の支柱の方へ伸びていた。
先ほど木の実から伸びた根だ。床の下を通って、この石室まで届いたらしい。
黒衣の男が支柱を軽く揺すると、鈍い金属音が響き、天井から砂がぱらぱらと落ちた。男は兵の一人に支柱を支えるよう頼み、もう一人には階段の入口へ下がるよう告げた。
「この床に大勢で乗ると危ない。呼ぶまで、そこで待っていてくれ」
兵たちはカノンを一度見たものの、すぐに指示された場所へ動いた。その手際から、男がこうした作業に慣れていることがうかがえた。
男は輪のそばに膝をつき、泥に埋もれた四角い金属板を拭った。
「ここに手を置いてみろ。兄さんと話せるはずだ」
カノンは板に触れ、耳を澄ませた。水の流れる音しか聞こえない。
「兄さん、聞こえるか?」
返事はなかった。指先を少しずらすと、板がかすかに震えているのが分かった。
「ディーン兄さん!」
ざらついた雑音の向こうから、聞き慣れた声がした。
『……カノンか? 若い方の』
「そっちでも、もう会ったんだな」
『ああ。どっちも俺の言うことを聞かない。まったく、似た者同士だ』
思わず笑いがこぼれた。兄は怒っている。自分がここまで来たことを叱るだけの元気が、まだ残っている。
「助けに来たよ」
『ニナは?』
「無事だ。外で待ってる」
『……そうか。よかった』
声が少し途切れ、何かを引きずるような音がした。その後に聞こえた息遣いは荒い。カノンは金属板へ身を寄せた。
黒衣の男が隣にしゃがむ。
「兄さん、そっちの輪は動く?」
『お前、もうそこまで来たのか』
「今朝、水車小屋に着いた。こっちで帰り道を開けてみる」
カノンは二人の会話を聞きながら、胸の奥が落ち着かないのを感じていた。兄の声はいつもと変わらない。けれど、向こうの兄は自分が過ごしていない十一日間を生き、左肩を傷めている。
金属板の向こうで歯車がきしんだ。
『少しなら回る。だが、枯れた根が歯車に絡んでいて、途中で止まる』
「そこを押さえてて。無理に回すと軸が折れる」
男は支柱の脇の留め具を外した。床の溝を這う根の先が淡く光り、光は金属の輪へと伝わっていく。やがて輪の内側に、水面のような薄い膜が現れた。
膜の向こうにあった石壁が、少しずつ透けていく。
現れたのは、霧に包まれた森だった。
石柱に背を預けているのはディーンだ。左腕を布で吊り、右手で足元の輪を押さえている。肩の布には、乾いた血の色とは違う染みが広がっていた。
「兄さん!」
カノンは立ち上がった。輪の向こうで兄の唇が動く。しかし声は届かず、足元には白い曇りが残っている。こちらからは兄の姿が見えるのに、ディーンは出口を探すように辺りを見回していた。
思わず駆け寄ったカノンの腕を、黒衣の男がつかんだ。
「待て。向こうの戻り口が動いてない。今渡ったら、お前まで帰れなくなる」
「どうすれば直せる?」
「あの石柱の裏だ。黒く枯れた根が歯車に絡みついてる。兄さんの片手じゃ届かない」
カノンは兄の左肩を見た。あの状態で機械の下に潜らせるわけにはいかない。
「俺が行く。どこを切ればいいか教えて」
腕をつかむ男の手に力がこもった。だが、引き止めはしなかった。
「歯車が止まったのを確かめてから刃を入れろ。細い銀色の根は切るな。太くなって黒く枯れたところだけを落とすんだ」
「分かった。こっちは頼む」
アリアが青い布を広げ、印の一つを指さした。
「戻る輪の下に、これと同じ印があると思う。光が弱くなったら、すぐ修理をやめて戻って。消えるまで待っちゃ駄目だよ」
いつもより早口だった。カノンが顔を上げると、アリアは布の端を強く握りしめている。
「帰ってくるよ」
「……それ、前にも言った」
白い石畳の景色が、ふいに頭をよぎった。幼いアリアに、先へ行くよう告げた記憶がある。なのに、離れていくのが怖かった。そのときの気持ちだけが残り、肝心な出来事は思い出せない。
続きを思い出そうとしても、今はその時間がなかった。
「今度は、帰り道を確かめてから行く」
アリアはしばらく彼を見てから、一度だけ頷いた。
黒衣の男が輪の支柱に両手を添える。カノンは剣の位置を確かめ、光の膜へ足を踏み入れた。
冷たい霧が頬に触れた。背後の石室の音が遠のき、代わりに鳥の羽音と、兄の荒い息が聞こえてくる。
「来るなと書いただろう」
ディーンが右手を差し出した。カノンはその手を握り、ぬかるみを避けて石柱のそばへ上がる。
「ちゃんと読んだよ」
「だったら言うことを聞け」
「叱るのは帰ってからにして。今は肩を見せて」
傷口を調べる時間はない。カノンは兄を石柱の陰へ移し、左腕を吊っていた布がずれないように結び直した。顔色は悪く、唇も乾いている。ここまで一人で、どれほど無理をしてきたのだろう。
水筒を渡すと、ディーンは二口飲んで返してきた。
「お前の分を残しておけ」
「帰れば飲めるだろ」
兄は眉をひそめたが、言い返さなかった。カノンは石柱の裏へ回り、機械の下にかがみ込んだ。
狭いところに、小さな歯車が幾つも組み合わさっていた。奥の軸には太い黒い根が巻きつき、歯車はわずかに回っては止まる。その手前で、細い銀色の根が小刻みに震えていた。
剣では長すぎる。カノンは腰の小刀を抜いた。
「俺が支える。歯の間に指を入れるなよ」
ディーンは右手で機械の外枠を押さえた。カノンは歯車の動きが止まるのを待ち、黒い根に刃を当てる。
思った以上に硬かった。刃先を押しつけても表面が少し削れるだけで、黒い粉が頬に落ちてくる。力を込めると小刀が滑りかけた。カノンは手首を石壁に当て、刃がぶれないようにして少しずつ削った。
ようやく一本が折れた。
歯車が動きかけたが、すぐに別の根に引っかかる。
「あと一本だ」
兄の声に促され、カノンはさらに奥へ手を伸ばした。邪魔になっていた小さな金属板を指で押しのけると、そこだけが妙に熱い。
『カノン、そっちじゃない!』
幼い声が響いた。
次の瞬間、目の前に白い石畳が広がった。
小さなアリアが、道の真ん中で泣いている。その先を、銀時計を握った黒髪の少年が走っていた。森で銀の髪飾りに触れたとき、見えた光景と同じだ。
だが、今度は道の脇まで見えた。
柱の陰に、もう一人の少年が立っている。片膝を擦りむき、顔色は青ざめていた。走り去っていく少年と同じ服、同じ顔。その唇が何かを言おうと動く。
九歳の自分が、二人。
「カノン!」
肩を強く引かれ、額が金属の縁にぶつかった。
白い街が消え、森の音が戻ってくる。ディーンが右腕でカノンを抱えるようにして、歯車から引き離していた。
「手を巻き込まれるところだったぞ!」
「ごめん。今、昔の光景が……」
説明しかけたところで、カノンは口を閉じた。兄の顔色がさらに悪くなっている。しかも、背後の輪がさっきより細くなっていた。地面に刻まれた印の一つから、光が消える。
アリアが教えてくれた印だ。
もう迷っている時間はなかった。カノンは小刀を握り直し、残った根の下に刃を差し込む。今度は力任せに押さず、手前へ引いた。
乾いた音とともに、根が切れた。
止まっていた歯車が回り出す。石柱の上で金具が動き、輪の下半分を覆っていた白い曇りが裂けた。向こうの石室には、こちらへ手を伸ばすアリアが見える。
「兄さん、歩ける?」
「……支えてくれればな」
カノンは兄の右脇に入り、肩を貸した。ディーンが右腕を回す。二人が輪へ向かって一歩踏み出したとき、背後で機械が大きく跳ねた。
金属の折れる音が響く。
長く動かなかった軸が、急な回転に耐えきれなかったらしい。足元の光が端から消え、輪の縁が少しずつ狭まっていく。
出口まで十歩もない。だが、兄を支えながらでは、思うように足が進まなかった。カノンの靴がぬかるみに沈み、体勢を崩したディーンが倒れかける。慌てて帯をつかみ、引き寄せた。
その背後で、また子どもの声がした。
『次は、間違えるなよ』
思わず振り返りそうになる。
「前を見ろ!」
兄の声にはっとした。輪の向こうで、アリアが何か叫んでいる。黒衣の自分は、外れかけた支柱を肩で支えていた。
カノンはディーンの体を引き寄せた。二人で残る足場を蹴り、狭まりかけた光の輪へ飛び込んだ。
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