第七話 八年後の俺
水車小屋が見えてきたのは、翌日の昼過ぎだった。
森を抜けると、川の音が近くなった。傾いた水車の軸には草が絡まり、屋根は半分ほど崩れている。梁の間から空がのぞいていた。
ニナは途中から兵の馬に乗せてもらっていた。付き添いの叔母も一緒だ。ようやく帰ってきた少女を、あの森へ連れ戻すのは気が進まなかった。それでも、入口を知っているのはニナだけだった。道を教えてくれたら、あとは叔母と外で待っていてほしい。カノンは屋敷を出る前から、何度もそう話していた。
馬から下りたニナは、壊れた小屋を見て首を横に振った。
「最初に来たときは、こんなじゃなかった」
「水車も、ちゃんと回ってたんだね」
「うん。お母さんの声がしたときも」
叔母がニナの肩に手を置いた。ニナは少し迷ってから、あのときのことを話し始めた。
母親の姿を見たわけではないという。声が聞こえて、そちらへ向かった。近くには栗色の長い髪の女の人もいて、何か叫んでいたらしい。けれど水車の音が大きく、言葉までは分からなかった。
「その人、お姉ちゃんに似てた」
ニナがアリアを見る。
アリアは驚いたように目を見開いた。昨日、ニナが持ち帰った手紙には、彼女によく似た筆跡が残されていた。今ここで違うと言い切れないのだろう。
「その人が何て言ったか、少しでも覚えてる?」
「お母さん、そこ……って。あとは分かんない」
ニナはうつむいてしまった。アリアは少女と目の高さを合わせた。
「ありがとう。今はそれだけで十分だよ。あとで思い出したら教えてね」
ニナが顔を上げ、こくりと頷く。
「でもね、お母さんの声は、ちゃんと聞こえたの。『ニナ、こっちよ』って」
ニナは叔母の手を握った。
「前にも、そうやって呼んでくれたから。違う人の声だなんて思わなかった」
叔母は何も言わずに、その小さな手を包み込んだ。ニナの母親は、生前、台所から庭にいる娘を呼ぶときによくその言葉を使っていたという。
亡くなった母の声がしたなら、追いかけずにはいられなかったのだろう。カノンにも、その気持ちは分かる気がした。だからといって、本当に母親がそこにいたとも言えない。
「声は、どっちから聞こえた?」
ニナが指したのは水車ではなく、小屋の北側の床だった。そこには崩れた屋根の板が幾重にも重なっている。兵たちが板を調べ始めると、叔母はニナを少し離れた場所へ連れていった。
「もう一度入って、お母さんを捜さなくてもいいんだよ」
ニナは不満そうに唇を結んだが、やがて頷いた。叔母が母親の声を聞いたことまで疑っているわけではないと、伝わったのかもしれない。
屋根板を片づける間、カノンは水車の裏手へ回った。石壁には、増水した川が残した古い泥の跡がある。父から聞いたとおり、この小屋が壊れたのは十二年前だ。
ニナが生まれるより前の水車小屋。それをあの子は、つい昨日まで自分がいた場所として覚えている。
カノンは銀時計を取り出した。針が、いつもと反対の方向へ動いている。オルフェから教わった目盛りに合わせようと蓋を回してみたが、針の動きは落ち着かず、日付を読み取れなかった。
「いくつも道があるってことかな」
隣に来たアリアが青い布を広げた。水車小屋を示す印からは、二本の線が伸びている。一方は途中で糸を抜かれ、もう一方は布の中央へ向かっていた。
「見つけたぞ!」
兵の声が小屋から響いた。
板の下には、地下へ続く石段が隠れていた。ニナは叔母に付き添われて入口まで戻り、のぞき込むと大きく頷いた。
「ここ。ディーン兄ちゃんと下りたの」
「ありがとう、ニナ。あとは俺たちが行くよ」
カノンがそう言うと、ニナは不満そうに眉を寄せた。けれど、ディーンを迎えに行って必ず戻ってくると伝えると、小さな手がカノンの手をつかんだ。
「ディーン兄ちゃん、肩が痛いの我慢してたよ」
「うん。もう知ってる。だから迎えに行くんだ」
「カノン兄ちゃんも、我慢しすぎちゃ駄目だよ」
思いがけない言葉に、カノンは返事に詰まった。隣でアリアが笑いをこらえている。
「……分かった。気をつける」
ニナはそれを聞いて、ようやく手を離してくれた。
石段を下りたのは、カノンとアリア、それに兵が二人。残りの兵とニナたちは地上で待つことになった。
地下には湿った石と水の匂いがこもっていた。入口から差し込む光が届かなくなると、兵の掲げる灯りだけが頼りになる。やがて通路の先に、金属でできた大きな輪が見えてきた。
輪のそばの壁には、古い文字と数字が刻まれていた。アリアが青い布を広げ、同じ形の印を探す。
「ここ、帰る道って書いてあると思う。その上に、十一って数字がある」
カノンは輪へ近づき、銀時計の蓋を開いた。小屋の外では定まらなかった針が、今は同じ位置を指している。外側の目盛りを合わせると、日付が読めた。
「……兄さんが消えてから、十一日後だ」
「ニナが通った道なの?」
「日付は兄さんの手紙と同じだ。でも、出口が違う。ニナは兄さんが消えた日の町へ戻ってきた。ここは、今いる水車小屋からつながってる」
手紙の日付は、兄が消えてから十一日後。こちらでは、あの朝からすでに一日が過ぎている。兄のいる場所でも時間が進んでいるなら、ただ待っていれば会えるというものではない。
「兄さん! 聞こえるか!」
輪の向こうへ呼びかけても、返事はなかった。片側の金具に触れると、かすかな雑音が伝わってくる。昨夜、時計塔の地下で聞いた声を思い出した。
もう少しで、また声が届くかもしれない。
カノンは腰の袋を開いた。
ニナが持ち帰った木の実は三つ。そのうち一つは昨夜、時計塔の地下で根を伸ばし、オルフェに預けてきた。残る二つから一つを取り出す。
硬い殻に、細いひびが走った。
カノンが木の実を床の継ぎ目から流れる水へ近づけると、割れ目から銀色の根がのぞいた。根はゆっくりと伸び、濡れた石の上を這って金属の輪へ向かっていく。
離れた二つの場所で、同じ木の実が壊れた仕掛けをつなぎ始めている。偶然にしては出来すぎていたが、今は理由を考えている場合ではない。
カノンは銀時計を握り直した。空いた手を剣の柄へ添える。
そのとき、奥の通路から足音が聞こえた。
兵が灯りを掲げた。
水路脇の階段を、一人の男が上ってくる。黒い外套の裾には乾いた泥がこびりつき、頬には細い傷があった。
東の森で、石柱の向こうに見えた男だ。
カノンは剣を抜きかけて、動きを止めた。男が灯りの下へ出たのだ。
見覚えのある目と鼻、口元。鏡に映る自分とは違い、頬には疲れの色が濃く、表情にもどこか険しさがある。それでも、顔立ちは見間違えようがなかった。
男もこちらを見ていた。だが、すぐにカノンの隣へ視線を移す。
アリアを見た途端、男の足が止まった。
「……生きてたんだな」
声はかすかに震えていた。
アリアは自分を指さした。
「私……ですか?」
男は答えなかった。何か言おうとして唇を開く。けれど、言葉になる前に口を閉じてしまった。
カノンは剣を抜き、二人の間へ半歩踏み出した。
男が自分と同じ顔をしている。それだけでも理解できないのに、アリアを見る目には、もっと恐ろしいものがあった。ようやく会えたという安堵と、失うことへの怯えが、同時に浮かんでいるように見えた。
「お前、誰だ」
男はカノンへ顔を向けた。剣先を見て、かすかに笑う。
「俺も、そう聞いたよ」
「ふざけてるなら、やめてくれ」
「ふざけられたら、どんなによかったか」
その言い方まで、どこか自分に似ていた。
男が身じろぎすると、黒い外套の合わせ目から銀色の花がのぞいた。
アリアが反射的に髪へ手をやった。今朝、カノンから返してもらった髪飾りは、確かにそこにある。
男の持つ花は、花弁の先が少し歪み、青い石の縁にも小さな傷がついていた。けれど、留め具の片側がわずかに曲がっているところまで同じだった。
「どうして……あなたも、それを持ってるの?」
アリアが尋ねると、男は花を手の中に包み込んだ。
「これを手掛かりに、八年間、君を探した」
アリアの手が、髪飾りからゆっくりと離れた。
八年間。
カノンは目の前の男を見つめた。自分と同じ顔をしているのに、どうして年上に見えるのか。ついさっきまで説明のつかなかったことが、その数字を聞いた途端、一つの答えに結びつきそうになった。
認めていいのか分からない。剣を握る手に、思わず力が入る。
「……俺が今、十七歳なのは知ってるか」
「知ってる」
男は逃げずに、真っすぐカノンを見た。
「俺は、お前が帰れなかった八年間を生きたカノンだ」
カノンは何も言えなかった。
地下を流れる水の音だけが、二人の間に響いていた。
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