第六話 八百年前の男
開いた扉の隙間は、人ひとりが体を横にして通れるほどしかなかった。
その奥から、細い腕が伸びてきた。油と煤にまみれ、爪の際まで黒く汚れている。カノンが腕を支え、兵が肩を貸すと、男はようやく扉をくぐり抜けた。
男は壁にもたれて座り込んだ。髪には白いものが交じっているが、老人というほどではない。頬がこけ、顔色も悪く、いくつくらいなのか見当がつかなかった。
アリアが灯りを近づけると、男はまぶしそうに目を細めた。彼女はすぐに灯りを下げた。
「水は飲めていたんですか?」
ハロルドの問いに、男はかすかに笑った。
「向こうに井戸がある。食べ物も、古い避難用の貯蔵室に残っていた。そうでなければ、ここまで生きてはいられなかったよ」
扉の向こうには、暗い通路がいくつも伸びていた。狭い一室に閉じ込められていたわけではないらしい。ただ、外へ出られる道は、どこを探しても見つからなかったという。
「私はオルフェという。八年前は、もう少しましな格好をしていたんだがね」
そう言って笑おうとした男の前に、アリアがしゃがんだ。
「……おじいちゃんの友達なの?」
オルフェは彼女の顔を見つめた。煤で汚れた口元が、ゆっくりとほころぶ。
「エドガーの孫だね。大きくなったなあ」
アリアは返事をしなかった。男の袖をそっとつかみ、うつむいてしまう。カノンは声をかけるのをためらったが、どうしても確かめたいことがあった。
「俺にも会ったことがあるんですよね。八年前に、時計を貸してくれたって……」
「覚えていないか。君とアリアは、一緒に私の故郷へ来たんだ」
「アステリア、ですか?」
その名を聞いた途端、オルフェの顔つきが変わった。
「……まだ、その名を知る人がいるのか」
「古い記録で見つけました。でも、今の地図には載っていません」
オルフェは扉の奥へ目を向けた。暗い通路の先に、懐かしい街並みでも見えているのだろうか。しばらくして、静かに口を開いた。
「君たちの時代から見れば、八百年ほど前の街だよ」
「八百年……?」
カノンは思わず聞き返した。アリアも顔を上げ、ハロルドは手にした灯りを動かさずにいる。
「じゃあ、俺たちは八年前に、八百年も昔の街へ行ったんですか?」
「そうだ。そして私は、その街で生まれた」
オルフェは腰の工具袋に手を伸ばし、柄の曲がった小さな工具を取り出した。親指でその曲がりを押さえながら、少しずつ話し始めた。
アステリアで時計職人をしていたこと。塔の設備を調べている途中で、見知らぬ道に迷い込んだこと。道を抜けた先でエドガーに助けられ、自分の街がとうの昔に消えたと知ったこと。
「私が出てきた朝には、ちゃんと街があった。昨日まで顔を合わせていた人たちも、いつもの暮らしをしていたんだ」
オルフェは工具の先を見つめた。
「工房の隣に針金を売る店があってね。最後の朝、そこの店主に留め具を二つ注文した。昼までに取りに来いと、ずいぶん念を押されたよ」
「そのあと、塔へ?」
「ああ。結局、取りに戻れなかった」
エドガーは、オルフェのために古い記録を探してくれたという。見つかったのは、街が消えた日の記録だった。そこには、針金を売るその店も、失われた通りの一軒として記されていた。
「約束の時間になっても私が来ないから、あの人は怒っただろうな」
オルフェは苦笑した。カノンには、会ったこともない店主の顔までは思い浮かべられなかった。ただ、注文された二つの留め具が、いつまでも取りに来てもらえなかったことだけが、妙に心に残った。
アリアはオルフェの手元を見つめ、何も言わなかった。
「それから何年かして、九歳の君と八歳のアリアがいなくなった。二人を捜して道へ入ったら、行き着いた先は私の故郷だった」
「八年前の、あの白い街……」
「君たちには初めて見る街でも、私には見慣れた場所だったよ。帰りたくて仕方なかった場所でもある」
故郷を見つけたのなら、そこに残ることもできたのだろうか。カノンがそう考えたとき、オルフェの目が銀時計へ向いた。
「君たちを帰すために、最後に残っていた出口を使った。私もこちらへ戻れたんだが、そのとき時計が扉に挟まってしまった。内側からは外せなかったんだ」
「それで、ずっと地下に……?」
「通路を探して、金具を直して、外へ出る方法を試していた。八年もかかってしまったけどね」
軽く言おうとしているのは分かった。だが、カノンが九歳から十七歳になるまで、オルフェは誰にも会えず、この暗い地下で過ごしてきたのだ。扉の奥に続く通路を見ても、その長さは想像しきれなかった。
アリアが祖父の失踪を告げると、オルフェは目を閉じた。
「そうか。エドガーまで……」
「おじいちゃんを知らない? 一年前から帰ってこないの」
「ここに入ってからは、外のことが何も分からなかった。力になれなくて、すまない」
アリアは首を横に振った。オルフェはしばらく俯いてから、小さくつぶやいた。
「まだ捜していたのか、あの人は」
何を捜していたのか、カノンには分からなかった。尋ねようとしたところで、兵が扉の近くから戻ってきた。外した留め金のそばに落ちていた銀時計を拾ったのだ。
オルフェは時計を受け取ると、縁の汚れを指で払ってカノンへ差し出した。
「今度は、君が持っていてくれ」
「でも、これはあなたの……」
「八年前にも貸したんだ。帰る前にちゃんと返してくれたよ。今は私より、君に必要だろう」
カノンが両手を出すと、オルフェはその上に時計を載せた。
思ったより重い。初めて持つはずなのに、指が自然と蓋の縁に掛かった。開いてみると、針は一本だけで、その周囲を細かな目盛りが囲んでいる。外側には、暦を読むためらしい輪も重なっていた。
「普通の時計とは違うんですね」
「これは、道の向こうがいつの日付につながっているかを確かめるためのものだ。先の日付なら針は一方へ、前の日付なら逆へ動く。年や月は、外側の目盛りと合わせて読む」
「針が止まっていたら?」
「日付を読み取れないということだ。壊れたと決めつけて、そのまま道へ入ってはいけない」
オルフェの声は、それまでより少し厳しくなった。カノンは時計を握り直す。誰かから同じ注意を受けたような気がしたが、相手の顔は思い出せない。
「さっき、この時計に触れたとき、九歳の俺が二人いるところを見たんです。二人とも銀時計を持っていました」
オルフェは工具を袋に戻しかけたまま、手を止めた。
「……見えたのか」
「同じ時計だったんですか?」
「ああ。同じ時計だ」
「でも、二人が同時に持っていたんですよ」
「同じ人間でも、違う時刻から同じ場所へ来れば、二人並んで立つことはある。今の君と九歳の君がそこで出会っても、同じことだ」
カノンは手の中の時計を見下ろした。二人に見えた九歳の自分は、どちらも本当に自分だったのか。そうだとしても、なぜ二人が同じ場所にいたのかは分からない。
もう一度尋ねようとしたとき、足元の金属板から声が響いた。
『誰か、聞こえるか』
カノンは顔を上げた。
聞き間違えるはずのない声だった。
「兄さん!」
金属板の前に膝をつく。銀色の根が床の溝を伝い、切れていた金属の間をつないでいた。オルフェのいた通路だけでなく、さらに別の場所まで声が届くようになったらしい。
「兄さん、俺だ! カノンだよ!」
雑音に混じって、疲れ切った声が返ってきた。
『カノン? お前、どこにいる』
「町の時計塔の地下だ。ニナは無事に帰ってきた。兄さんの手紙も読んだよ」
しばらく間が空いた。向こうで大きく息を吐く音がした。
『そうか……ニナは帰れたんだな』
「ああ。今は屋敷で休んでる。兄さんは? 肩をけがしたって聞いた」
『左肩だ。森から逃げ込んだときにやられた。帰るための金具があるんだが、片手じゃ回せなくてな』
「じゃあ、手伝いに行く。今どこにいる?」
ディーンは地下の帰還装置について話した。そばには、金具を調べるのを手伝ってくれている男もいるという。
『お前によく似た男だ。話は通じるが、どうにも妙なやつでな。何もかも知っているような顔をする』
「……黒い外套を着てる?」
『見たのか?』
石柱の向こうに立っていた男が、カノンの頭に浮かんだ。黒い外套の胸元で揺れていた銀の花も。
「兄さん、その男――」
金属板が甲高く鳴り、声が途切れかけた。オルフェが板の脇に手を当て、アリアは銀の根に触れそうになっている鉄片を持ち上げた。
「兄さん! まだ聞こえる?」
『……水車小屋の、北側だ。ニナなら、場所を――』
そこで声は途切れた。
カノンは何度か呼びかけたが、返事はなかった。金属板に手を置いたまま、扉の奥へ続く溝を見つめる。
兄は生きている。いつものように無茶を叱り、ニナの無事を聞いて安心する、あの兄が。それなのに、今は声しか届かない。ほんの少し前まで、同じ屋敷にいたのに。
「……水車小屋だ」
カノンが顔を上げると、アリアはすでに青い布を広げていた。
「ニナなら入口を覚えているかもしれない。確かめよう」
ハロルドも兵たちに声をかけた。屋敷へ伝言を送り、明日の夜明けに出発する準備を整えるという。肩を負傷したディーンを連れ帰るなら、手を貸す人間も必要だった。
オルフェは伸びた根の脇に小さな石を置き、鉄片が触れないようにした。
「私はここを見ていよう。開いた扉がまた閉じてしまっては困るからね」
「オルフェさんも、来ないんですか?」
「この地下のことなら、私が一番よく知っている。君たちが帰ってくる道を、ここで守っておくよ」
カノンは時計を大切に外套へしまった。階段へ向かいかけたところで、オルフェに呼び止められる。
「カノン。知らない日付を、知ったつもりで読むなよ。分からなければ、そこで止まるんだ」
「はい。気をつけます」
「昔から返事だけはよかったな」
思わず笑うと、アリアも隣で小さく笑った。どうやら、八年前の自分は今とそれほど変わっていなかったらしい。
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