第五話 時計塔の地下
階段の壁に手をつくと、指先が湿った。
上の階では、灯りに照らされた歯車の形がはっきり見えていた。ところが、数段下りただけで空気が変わる。石の継ぎ目には水がたまり、壁には細かな文字が隙間なく刻まれていた。
先を行く兵が灯りを掲げる。その後ろで、ハロルドが足を止めた。
「この文字は、上の時計塔に刻まれたものより古いようですね」
「塔を建てる前から、ここにあったんですか?」
「その可能性はあります。古い建物の上に、時計塔を建てたのでしょう」
アリアは壁に指を当て、刻まれた線を一つずつ確かめていた。
「八年前に帰る途中で、こんな印を見た気がするの」
言い終えると、額を押さえて目を閉じた。カノンはすぐ隣で足を止める。
「少し休むか?」
「大丈夫。もう少しで思い出せそうだったから」
「無理はするなよ」
「それ、カノンに言われたくないな」
言い返す言葉が見つからなかった。アリアは壁から手を離し、先に進む兵の後を追った。
階段を下りきると、円形の広間に出た。壁には十二の印が円を描くように並び、その中央には、何かを取り外したような跡がある。資料室で見た図と、よく似た配置だった。
広間の奥を、大きな金属の扉が塞いでいた。
先ほどから続いていた、硬いものを叩く音は、その向こうから聞こえてくる。
カノンは扉へ近づきかけ、足元を見て立ち止まった。床に細い溝が走っている。ところどころ金属がはめ込まれていたが、外れた部分には緑色のさびが残っていた。
「誰かいるんですか?」
声をかけると、叩く音が止んだ。
しばらく返事はなかった。もう一度呼びかけようとしたとき、今度は三回、ゆっくりと音がした。
兵の一人が扉の縁に剣を差し込もうとしたが、アリアが呼び止めた。
「待って。扉に何かついてる」
灯りを近づけると、扉の中央に銀色の時計がはめ込まれているのが見えた。
丸い形は懐中時計に似ている。鎖は途中で切れ、文字盤にある針は一本だけ。上下の留め金が蓋の縁を押さえており、扉の仕掛けに挟まったようにも、仕掛けの一部として取り付けられたようにも見えた。
アリアが小さく息をのんだ。
「これ……カノンが持ってた」
「八年前に?」
アリアは頷いた。灯りの下で、その表情が強張っている。
カノンは時計を見つめた。覚えていないはずなのに、手のひらに何かを握ったときの重さだけが、妙にはっきりと思い浮かぶ。
「触ってみる」
「待って。またあの景色が見えたら――」
「そのときは、呼び戻してくれ」
アリアが答えるより早く、カノンは指先を伸ばした。冷たい銀の蓋に触れる。
目の前に白い石畳が広がった。
道の先に、九歳の自分が立っていた。
その背後から、もう一人の少年がやってくる。同じ黒髪に、同じ顔。服までよく似ていた。ただ、先に立っていた少年のシャツは肘のところが破れ、膝には血がにじんでいる。
二人とも、銀時計を持っていた。
後から来た少年が時計を胸元へ引き寄せる。先に立っていた少年も、自分の手にある時計を見下ろした。
『……俺?』
後から来た少年が立ち止まった。
先にいた方は答えず、後から来た少年は相手の膝を見た。自分と同じ顔をした相手に、自分にはない傷がある。そのことを恐れているように見えた。
カノンは二人の間へ近づこうとした。だが、足を踏み出す前に、手首をつかまれる感触があった。
「カノン、戻って!」
アリアの声だった。
白い道が消え、目の前に金属の扉が戻ってくる。ハロルドが片腕を支えていた。知らず知らずのうちに強く押しつけていたのか、時計の縁に触れていた指が痛んだ。
「何が見えましたか?」
カノンは口を開きかけて、言葉に詰まった。
「……九歳の俺が、二人いました」
口にしても、見たものの意味は分からない。アリアが扉の時計を見た。
「時計も、二つあったの?」
「ああ。二人とも同じような銀時計を持ってた」
八年前に帰ってきたのは自分一人だと、父は言っていた。では、あの二人のうち、帰ってきたのはどちらなのだろう。
カノンは扉にはまった時計へ目を戻した。今の自分は、こんな時計を持っていない。父も、八年前に目を覚ましたときの持ち物として、時計のことは話していなかった。
それでも、見えた二人は確かに同じ時計を手にしていた。
「俺は今、ここにいる。だったら、どっちかは帰ってこられたんだよな」
アリアはすぐには答えなかった。
「二人は、どんなふうに立ってた?」
カノンが説明すると、アリアは床の埃に二本の線を引いた。片方の線の先を曲げ、もう片方へつなげる。
「二人のカノンじゃなくて、同じカノンが別々の時刻から来たのかもしれない」
「……そんなことがあるのか?」
「分からない。でも、八日先へ続く道があるなら、同じ場所に違う日の人がいても、おかしくない気がする」
カノンは床の線を見た。あの二人の片方が消えてしまったのだと決めつけるには、まだ分からないことが多すぎた。
そのとき、鞄の中で小さな音がした。
ニナから預かった、木の実の袋だった。取り出してみると、三つのうち一つにひびが入っている。割れ目から細い根がのぞき、灯りを受けて銀色に光った。
「……芽が出てる?」
カノンは床に布を敷き、その上へ木の実を置いた。
根がゆっくりと伸びていく。布の端を越え、湿った床を探るように動いたかと思うと、金属が途切れている溝の中へ入り込んだ。
扉の向こうで、何かが落ちる音がした。
『そのまま、動かさないでくれ』
カノンは顔を上げた。今度は叩く音ではなく、はっきりと人の声が聞こえた。
アリアが灯りを低く掲げる。声は扉の下の方にある、小さな金属板から伝わってくるようだった。
「誰ですか? 扉の向こうにいるんですか?」
『いる。そっちから、留め金は見えるか?』
男の声だった。話し終えると、ひどく咳き込んだ。
カノンは扉の時計を押さえている金具について説明した。男は一つずつ位置を確かめ、左下のくさびを少し持ち上げてほしいと言った。
兵が剣の柄で押してみたが、びくともしない。アリアが木の実から伸びた根の先を照らすと、その奥に細い隙間が見つかった。
「ここ、金属が切れてる。根が隙間に入って、声が通るようになったのかも」
『そうだ。根を抜かないでくれ。やっと声が届いたんだ』
男の返事には、どこか切実な響きがあった。
カノンは壁際に落ちていた鉄片を拾い、くさびの下へ差し込んだ。兵と一緒に力をかける。扉の向こうからも金具を動かす音がして、くさびがわずかに浮き上がった。
そのとき、銀時計の針が動いた。
普段の時計とは逆の方向へ、一目盛り。
「時計の針が……動いた」
『見えるのか?』
「はい。一本だけ針がある、銀の時計です」
向こうで男が長く息を吐いた。安堵したようにも、何かをこらえているようにも聞こえる。
『もう一度だ。同じように押してくれ』
カノンが鉄片を握り直すと、隣にアリアがしゃがんだ。
「カノン、ここを押さえて。私が灯りを持つから」
その声が届いたのだろう。扉の向こうで金具の音が止まった。
『……今、カノンと言ったか?』
カノンは鉄片を握ったまま動けなくなった。
「俺を知ってるんですか?」
すぐには返事がなかった。扉の向こうから、男が一度息を吸う音が聞こえた。
『知ってるよ。君に、その時計を貸したことがある』
銀色の根が溝の中で小さく震えた。
カノンは扉にはまった時計を見上げた。八年前の自分が持っていたという時計。その持ち主が、今、扉の向こうにいる。
『続きを頼む。あと少しなんだ』
カノンはアリアと目を合わせ、鉄片に力を込めた。内側からも金具を動かす音が重なる。
やがて、大きな留め金が鈍い音を立てて外れた。
お読みいただきありがとうございます。
物語を楽しんでいただけたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです!




