第四話 約束の行方
二通の手紙に残された言葉。八年前の約束を追い、カノンとアリアは新たな手掛かりを探します。
父は封筒を机の上へ差し出したが、すぐには手を離さなかった。欠けた封蝋の跡を親指でなぞり、ようやく口を開いた。
「エドガーから預かったのは、彼が姿を消す少し前だ。銀の花を持った娘がお前を訪ねてきたら、これを渡してほしいと言われた」
「だったら、どうして昨日言ってくれなかったんですか?」
自分でも驚くほど強い声が出た。父の手が止まり、カノンは唇を結んだ。
「八年前、お前は行方不明になって、三日後に帰ってきた。そのあとも三日間、ほとんど目を覚まさなかった。ようやく起きたと思ったら、何があったのか覚えていなかったんだ」
カノンは黙って聞いた。九歳のころ、三日間いなくなっていたことは知っている。だが、帰ってからの自分がどんな様子だったのか、父の口から詳しく聞くのは初めてだった。
「ニナが見つからないうちに、ディーンまで消えた。お前まで、また帰ってこなくなるかもしれない。そう考えると、この手紙を出すのが怖かった」
父はようやく封筒を机に置いた。カノンは言い返しかけたが、兄が石柱の向こうに消えたときのことを思い出し、言葉を飲み込んだ。
封筒には、一通の手紙と、日付を書いた小さな紙が入っていた。父が暦と照らし合わせたところ、その日付は今日から八日後に当たるという。
『記した日の夜、時計塔へ行け。八年前、君が残した痕跡を確かめられる。
アリアには知らせるな。
あの子が八年前、なぜ君を置いて行けなかったのか。それを、君は忘れている。』
カノンは思わず隣を見た。アリアも手紙を読んでいた。目が合ったが、彼女は視線をそらさなかった。
「……覚えてる?」
「約束したことは覚えてる。でも、どうして引き返したのかは、分からない」
アリアは手紙に目を戻し、少ししてから言った。
「これ、おじいちゃんの字だと思う」
手紙を書いたのは、アリアが捜し続けている祖父だ。八年前の事情を知っているらしいその人が、孫には知らせるなと書き残した。カノンは紙の端を持つ指に力を込めた。
「……私には知らせるなって、書いてあるね」
「もう読んじゃったけどな」
「うん。でも、隠そうと思えば隠せたでしょう?」
「君自身のことだろ。俺だけで読んで、黙っているのは違うと思った」
アリアは折れた手紙の端を、指でそっと伸ばした。
「私を信じてくれたから、見せたわけじゃないよね」
すぐには答えられなかった。彼女が「思い出せない」と言ったとき、カノンは一瞬、隠していることがあるのではないかと疑った。自分も八年前の記憶を失っているくせに、アリアには答えを求めようとしていた。
「信じたいよ。でも、何を約束したのか、俺にも分からない」
「……うん。私も、全部は覚えてない」
アリアはしばらく手紙を見つめていた。祖父が姿を消す前なら、直接話を聞く機会もあったはずだ。それなのに、彼は何も言わず、手紙をカノンの父に託した。
「おじいちゃん、どうして私には話してくれなかったんだろう」
その問いに、カノンは答えられなかった。
「もし私が引き返したのなら、どうしてそうしたのか知りたい。あなたに許してもらうためだけじゃない。あのとき、何があったのか……私も思い出したいの」
彼女はもう、うつむいていなかった。カノンはその顔を見て、今のアリアを疑っても八年前の出来事は分からないのだと思った。
父が二通の手紙を机に並べた。一通にはディーンの筆跡と、アリアによく似た文字。もう一通にはエドガーが残した言葉。同じ謎につながっているとしても、書かれた時期も、ここへ届いた経緯も違う。
「いっぺんに答えを出そうとするな。分かっていることから確かめなさい」
剣の稽古でディーンにもよく言われる言葉だった。カノンは手紙をそれぞれ包み直した。
その日のうちに、カノンはアリアを父の資料室へ案内した。ニナは叔母に付き添われて休んでいる。父に呼ばれた家庭教師のハロルドも、古い地図を何枚か抱えてやって来た。
机の上に地図を広げ、一枚ずつ年代を確かめる。どの地図を見ても、アステリアという地名はなかった。ただ、地図の中央付近だけは、描かれ方がまるで違う。大きな湖があるものも、道も町も記されていないものもあった。
「おじいちゃんも、この辺りを調べてた」
アリアは袋から青い布を取り出して広げた。周囲には十二の印が縫い付けられ、中央には、糸をほどいたような跡がある。
カノンは森で拾った石板を取り出した。欠けた縁に刻まれた曲線が、青い布の線とよく似ていた。石板を回して見比べると、失われた部分にどんな模様が続いていたのか、少しだけ想像できた。
「こちらを見てください」
ハロルドが棚から薄い冊子を取り出した。古い記録を書き写したもので、かすれた文字の横には、ハロルド自身の訳が添えられている。
その中に、探していた地名があった。
「アステリア……」
ようやく手掛かりが見つかった。そう思ったのも束の間、カノンは次の行を読んで息を詰めた。そこには、街が消えたことが記されていた。
「これ、八年前の出来事じゃないんですね」
「ええ。この記録は、もっと古い時代のものです。詳しい年代は、原本を確かめてからお話ししましょう」
ハロルドは確かでないことを断言しなかった。カノンも今は、それでよかった。昨日から、日付の違う出来事が次々と目の前に現れている。確かなことを一つずつ知りたかった。
カノンは預かっていた銀の髪飾りを机に置いた。青い石が灯りを受け、白い机の上に淡い光を落とす。アリアが花弁に手を添えた。
「森でこれを拾って触れたとき、白い街が見えたんだ。目を開けたまま夢を見ているみたいだった。もう一度見えるかは分からないけど……」
アリアが手を離す。ハロルドも筆記具を置き、カノンのそばへ来た。
「気分が悪くなったら、すぐに手を離してください」
「はい」
カノンは髪飾りの留め具をそっと押さえた。
水の音が聞こえた。
目の前に、白い石造りの噴水があった。水面には、幾つもの星が揺れている。ところが、頭上を見上げると、空は明るい昼間だった。まるで水の中にだけ、別の夜が映っているようだった。
近くの壁際に机が置かれている。そこに座っていたのは、アリアだった。
今より髪が長い。外套の袖には繕った跡があり、指には細い布が巻かれていた。彼女が筆を動かすたび、その布の端が紙に触れる。
『ごめんね、カノン』
アリアは書いている言葉を、小さな声で読み上げていた。
『今度こそ、ちゃんと迎えに行くから』
カノンはその言葉を知っていた。ニナが持ち帰った手紙の裏に、まったく同じことが書かれていたからだ。
アリアは書き終えると、机の端へ紙を寄せた。そこには、紙を一枚通せそうな細い溝がある。近づけた紙の角が、何かに引かれるように震えた。
待ってくれ、と声をかけようとした。けれど彼女はこちらを見ない。
カノンが手を伸ばした瞬間、膝に鈍い痛みが走った。
気づけば資料室にいた。身を乗り出した拍子に、机の脚へ膝をぶつけたらしい。
「カノン、見えたの?」
アリアが椅子を寄せた。カノンは髪飾りから手を離し、ディーンの手紙を取り出した。裏返して確かめる。さっき聞いた言葉が、そこに書かれていた。
「これを書いてた。君が」
「……いつの私?」
「分からない。今より髪が少し長かった。外套の袖も、ここが破れてた」
カノンが指した場所を、アリアは自分の袖に触れて確かめた。今はまだ、どこも傷んでいない。
「じゃあ……これから書くのかな」
アリアは手紙を見つめたまま、声を落とした。八年前の記憶を探していたはずが、今度は自分の知らないこれからの姿まで見せられたのだ。
「迎えに行くって、どこへだろう」
カノンの問いに、答えられる者はいなかった。
ハロルドは時計塔の管理を任されている兵へ使いを出し、灯りを用意させた。
エドガーの手紙には、八日後の夜に時計塔へ行けとある。だが、その日を待っているうちに、兄を追う道が閉じてしまうかもしれない。今夜はせめて、塔に残る記録と入口だけでも確かめておきたかった。
父はすぐには許さなかった。それでも、ハロルドと兵を必ず同行させること、危険があれば引き返すことを条件に、ようやく首を縦に振った。
時計塔は、町の中央に立っていた。
八年前に止まった大時計は、昨夜三度も鐘を鳴らしたというのに、針を一目盛りも動かしていない。カノンは見慣れた文字盤を見上げた。夕暮れの光を受けた針の影が、昔と変わらない位置に落ちていた。
兵が鍵を開け、一行は塔の中へ入った。油と古い木の匂いがこもっている。灯りに照らされた歯車は、どれも動いていなかった。
奥へ進んだとき、アリアが足を止めた。
「ねえ、今、何か聞こえなかった?」
全員が耳を澄ます。
床の下から、金属が擦れ合うような音がした。
カノンが灯りをかざすと、石畳の継ぎ目に紛れた細い線が見えた。片側の石が、わずかに持ち上がっている。兵と力を合わせて押すと、重い床板がゆっくり回転し、下から冷たい空気が吹き上がった。
その下には、螺旋階段があった。灯りを差し入れても、どこまで続いているのか分からない。
兵が降りようとすると、ハロルドが先に灯りを差し出した。
「足元に気をつけてください。水があるかもしれません」
階段の奥から湿った空気が上がってくる。かすかに水の流れる音がした。
だが、それだけではなかった。
さらに奥から、硬いものを繰り返し叩く音が聞こえてくる。
誰かが、向こうから扉を叩いていた。
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