第三話 三晩いた少女
「さっきまで一緒だったのに」――ニナの言葉から、時間の謎が少しずつ動き始めます。
食堂に入ると、ニナが両手でパンを持ち、夢中になってかじっていた。
片方の靴をなくし、髪も上着も泥だらけで戻ってきた少女は、屋敷へ着くなり空腹を訴えた。隣に座る叔母が布で顔を拭こうとしても、ニナはパンを口から離さず、少し顔をそむけるだけだった。
「カノン兄ちゃん」
こちらに気づいたニナが顔を上げた。
「けがはしてないか?」
「足が痛い。あと、お腹すいた」
「分かった。まずは食べよう」
ディーンが石柱の向こうへ消えた直後、ニナは北門へ戻る道に現れた。ニナは「ディーン兄ちゃんは?さっきまで一緒だったのに」と繰り返すばかりで、詳しい話はまだ聞けていない。
ディーンはどこにいるのか。ニナはどうやって帰ってきたのか。確かめたいことは山ほどあったが、カノンは少女がパンを飲み込むのを待った。向かいに座ったアリアも口を挟まない。食堂の外に控えていた兵たちは、父に促されて廊下へ下がった。
ニナは三つ目のパンに手を伸ばしかけ、隣の叔母を見た。
「まだ食べていい?」
「もちろん。好きなだけお食べ」
叔母は笑おうとしたものの、表情はこわばったままだった。カノンが皿を近づけると、ニナは安心したようにパンを取った。
「最後にちゃんと食べたのは、いつだ?」
「昨日は木の実を食べたよ。ディーン兄ちゃんが割ってくれたの」
カノンは思わず椅子から腰を浮かせた。すぐにアリアが、机の下でそっと袖を引いた。
「……兄さんに会ったんだな」
「うん。肩が痛いって言ってた。でも、私には平気だって」
けがをしていても、兄ならそう言うだろう。ただ、今朝まで一緒にいたディーンが、ニナの言う「昨日」には肩を痛めていた。そのことが、どうにも飲み込めなかった。
「ニナ、向こうでは何回寝たの?」
アリアが尋ねた。ニナはパンを片手に持ち替え、空いた方の指を三本立てた。
「三回。最初は一人だったの。次の日にディーン兄ちゃんが来た」
「最初から一緒じゃなかったのね」
「うん。最初の夜は水車の音がうるさくて、あんまり眠れなかった」
ニナがいなくなったのは昨日の昼過ぎだ。こちらでは一晩しか経っていないのに、ニナは三晩を過ごしたという。
カノンは父に紙と筆記具を借りた。日付を考えるのは後にして、まずニナの話を順番に書き留めることにした。
「水車小屋は、どんなところだった?」
「最初はきれいだったよ。屋根もあって、水車が回ってた」
「最初は?」
「外に出て、もう一回入ったら壊れてたの。雨は降らなかったから、平気だったけど」
父が顔を上げた。
川沿いの水車小屋は十二年前の増水で建物の半分が崩れ、それきり使われていない。カノンも、壊れる前の小屋を見たことはなかった。
叔母が何か言いかけたが、父が小さく手を上げて止めた。今は口を挟まず、ニナの話を聞くつもりらしい。
「それで、小屋を出たあとは?」
「森に行ったの。ディーン兄ちゃんに会って、それから、あの小屋の下に戻った」
「兄さんに会ったのは二日目。それから二回寝て、帰ってきたんだね?」
「そう」
カノンはそこまで書き留めた。兄が通った石柱には八日後の日付があり、ニナは壊れる前の水車小屋を見ている。二人が途中で会えたのなら、あの森には異なる日付へつながる道がいくつもあるのかもしれない。
「兄さんは今、どこにいる?」
ニナはパンを皿に置き、服の内側から折り畳んだ紙を取り出した。
「これ、渡してって」
表にはカノンの名があった。急いで書くと文字の終わりが右へ跳ねる。見慣れたディーンの字だった。
折り目を開く指に、思わず力が入る。
『カノンへ。
ニナを先に帰す。俺はまだ戻れない。
水車小屋の地下に帰り道がある。入口は北側の床だ。黒い服の男が手を貸してくれた。日付もそいつに教わったが、あいつの言うことを全部信じるな。
こちらへ来るなら、一人では来るな。できることなら、兵とハロルド先生に任せろ。』
最後の一行だけ、ほかより筆圧が強かった。
こんなときまで、兄は自分が無茶をすると思っているらしい。カノンは少しだけ笑いかけた。だが、手紙の末尾に目をやった途端、その気持ちは消えた。
書かれていたのは、兄が消えた今日から十一日後の日付だった。
「……十一日後?」
アリアが手紙をのぞき込み、父も身を乗り出した。カノンは今朝、石柱に刻まれていた日付を紙に書き、その隣に手紙の日付を並べる。
「兄さんが入った先は八日後。そこから三日過ごして、この手紙を書いたんだ」
アリアは二つの日付を見比べた。
「向こうで過ごした時間も、そのまま進むんだね」
「それをニナが、今日のこの場所まで持ち帰ってきた……」
口にしても、まだ実感が湧かなかった。目の前にいるのは、パンを食べ終えて眠そうにしている九歳の少女だ。その小さな手が、自分たちにはまだ訪れていない日付から兄の手紙を運んできたのだ。
ニナは今度、小さな袋を机に置いた。中から硬い木の実が三つ転がり出る。殻には細い筋があり、その部分だけが銀色に光っていた。
「ディーン兄ちゃんに持っていって。あげようと思ったのに、袋ごと私が持って帰ってきちゃった」
「昨日食べた木の実とは違うのか?」
「うん。きれいだったから拾ったの。でも硬くて、割れなかった」
見たことのない木の実だった。銀色の筋が何なのかも分からない。それでも、ニナが兄に渡したがっているのなら、預かっておこう。カノンは少女に断って袋を受け取った。
口を閉じるとき、ニナの襟元から小さな木彫りの鳥がのぞいているのに気づいた。
「それは、なくさなかったんだな」
「靴より大事だもん」
昔、カノンが削ってやった鳥だ。片方の翼だけ妙に分厚いのは、あまり上手に作れなかったせいだった。ニナは鳥を服の内側へしまい、眠そうに目をこすった。
叔母がニナを休ませようとしたところで、アリアが一つだけ尋ねた。
「ニナは、どうして水車小屋へ行ったの?」
ニナの手が止まった。
「お母さんが呼んだの」
叔母の顔がこわばる。ニナは叱られると思ったのか、慌てて続けた。
「ほんとだよ。『ニナ、こっちよ』って。お母さんの声だった」
カノンは筆記具を持つ手を止めた。
ニナの母親は、もう亡くなっている。
「ほかに誰かいたか?」
「お姉ちゃん。髪が長くて……」
ニナの目がアリアへ向いた。何か思い出しかけたように首をかしげたが、そのまま叔母の肩に顔を預ける。もう眠気には勝てないらしい。
カノンも、それ以上は聞かなかった。
ニナが叔母に連れられて食堂を出たあと、カノンはディーンの手紙を裏返した。薄い染みのそばに、兄とは違う筆跡で言葉が書かれている。細く、少し右へ傾いた字だった。
『八年前、君が何をしたか思い出して。
ごめんね、カノン。今度こそ、ちゃんと迎えに行くから。』
カノンは紙をアリアの方へ向けた。彼女は読み終えても、しばらく目を離さなかった。
「見覚えがある?」
「……似てる」
「誰の字に?」
アリアは答える代わりに、カノンが先ほど使っていた紙を引き寄せ、余白に自分の名前を書いた。最後の線がわずかに上へ跳ねた。手紙に書かれたカノンの名前にも、同じ癖がある。
「私の字に」
自分で書いた名前と手紙を見比べながら、アリアは言った。
「でも、こんなの書いてない」
今朝までなら、似た字の別人が書いたのだと思ったかもしれない。だが、これも兄の手紙と同じ紙に書かれている。カノンには、偶然だと片づけられなかった。
父は机に並んだ二枚の紙をしばらく見つめ、それから上着の内側に手を入れた。
「もう一通、見せるものがある」
取り出した封筒は古く、封蝋の端が欠けていた。表にはカノンの名前があり、その下に、エドガーと記されていた。
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