第二話 八日先の森
忘れてしまった八年前の約束。その手掛かりを追ううちに、森の異変が明らかになっていきます。
少女はアリアと名乗った。
初めて聞く名前だった。八年前に会ったと言われても、カノンの記憶には何も残っていない。屋敷へ案内する間、アリアは何度かこちらを見た。そのたびに何か言わなければと思うのに、言葉が出てこなかった。
父は応接間に四人分の席を用意させた。カノンとアリア、兄のディーン、それに父。母のエレナは、行方不明になったニナの叔母に付き添っている。廊下を人が通るたび、ディーンは扉の方を見た。ニナの捜索はまだ続いていた。
「八年前、息子とどこで会った?」
父の声は静かだったが、いつもより硬かった。
「アステリアです」
カノンは膝の上で手を握った。森で拾った石板に残っていた「アス」の二文字が、初めて続きのある言葉になった。
「そこは、どこにある?」
「今の地図では、見つけられませんでした」
アリアは肩から下げていた袋を椅子の脇に置いた。
「白い石の建物がたくさんあって、大きな時計塔がありました。あのとき私は八歳で、カノンは九歳でした。でも、どうやって帰ってきたのかは、よく覚えていません」
「それから八年間、会うことはなかったのか?」
「はい。帰ってからしばらくは、カノンの名前も思い出せなくて。おじいちゃんには話したと思います。でも、うまく説明できなくて、夢の話みたいになってしまって……」
アリアは袋から小さな帳面を取り出した。開かれたページには、鐘が鳴った日や井戸の水が減った日が、町の人々の名前とともに書き留められている。
「祖父が帰らなくなってから、私なりに調べてきました。今日はカノンに会うだけじゃなく、あの印がある森を確かめたかったんです」
帳面には、日付ごとに細かな書き込みが並んでいた。彼女は、約束を思い出してもらうためだけにここまで来たのではないらしい。
「祖父というのは、エドガーのことか?」
アリアが顔を上げた。
「おじいちゃんをご存じなんですか?」
「以前、一度話したことがある」
父はそれ以上説明しなかった。一度、椅子から立ちかけたものの、何も言わずに座り直した。気にはなったが、カノンはまず銀の髪飾りを机に置いた。
「これ、君の物で間違いない?」
アリアはそっと手を伸ばし、銀の花弁を指でなぞった。
「うん。八歳のとき、おじいちゃんにもらったの。ほら、ここ。留め具が少し曲がってるでしょう。前に踏んじゃったことがあって」
確かに、留め具の片側だけがわずかに内側へ曲がっていた。
「八年前に、あの街でなくしたの?」
「うん。ずっと見つからなかった」
八年前に失くした髪飾りが、どうして昨日、森に落ちていたのだろう。拾ったとき、前の晩の雨に濡れた様子もなかった。カノンは銀の花を見つめたが、答えは出なかった。
森で見た白い街と、そこで見かけた二人の子どものことを話した。日本の夢には触れなかった。今は、自分が見た光景を説明するだけで精一杯だった。
アリアは最後まで黙って聞いていた。
「私、その言葉を言ったと思う」
「『そっちへ行くな』って?」
「うん。カノンが行っちゃいけない方へ向かってると思って……でも、何が危なかったのか、そこが思い出せない」
カノンはすぐに次の質問をしなかった。八年前のことを覚えているアリアでさえ、分からないことがある。彼女に答えを求めるばかりではいけない気がした。
廊下で足音が止まり、兵が入ってきた。ニナはまだ見つかっていない。北門から森へ向かった者たちも、暗くなってからは小さな足跡を追えずにいるという。
ディーンが立ち上がった。
「東から川沿いを捜す。カノン、お前は夜明けまで休んでいろ」
「兄さんだって、ずっと捜してるだろ」
「俺は途中で兵と交代できる。お前まで倒れたら困るんだ」
カノンは言い返しかけたが、父も兄の言葉に頷いていた。今夜は任せるしかない。
アリアも屋敷に泊まることになった。部屋へ案内される前、彼女は机の髪飾りを布に包み、カノンに差し出した。
「もう少し持っていて」
「君の物なのに?」
「また何か見えたら、教えてほしいの。私も思い出したいから」
カノンは青い石に触れないよう気をつけて、布包みを受け取った。
翌朝、東の森で石畳が見つかった。
昨夜そのあたりを通った兵によれば、そこには木の根が広がるだけで、石畳などなかったという。アリアと駆けつけると、ディーンが兵に命じて道の手前に縄を張らせていた。
朝霧の中に、二本の石柱が立っている。柱の間だけ、向こうの木々が妙に暗く見えた。
「ニナは?」
「まだだ。ただ、この先に小さな足跡がある」
兄が指した先には、ぬかるんだ地面があった。確かに子どものものらしい靴跡が残っている。だが、跡があるのは柱の向こう側だけだった。手前の土には、そこまで歩いてきた形跡がない。
アリアは石柱を見つめていた。
「見覚えがある?」
「八年前にも、こんな石の間を通った気がする」
アリアは袋から青い布を取り出した。広げると、ところどころに形の違う印が縫い付けられている。飾りの刺繍とは違い、後から糸を足した跡も多かった。布の端に、目の前の石柱とよく似た印がある。
「おじいちゃんが調べていたものなの。これを残して、一年前に帰ってこなくなった」
カノンは青い布と石柱を見比べた。偶然同じ形になったとは思えない。アリアの祖父が追っていた手掛かりは、確かにこの森へ続いていた。
ディーンが足元の石を拾った。
「柱には誰も触るな」
石を投げると、柱の向こうに落ちた。もう一つ投げても同じだった。兄は縄を腰に結び、端を兵たちに持たせた。
「一歩だけ入ってみる。俺が引けと言ったら、すぐに引き戻してくれ」
「兄さん、待って。何があるか分からないんだぞ」
「ニナがこの先にいるかもしれない。確かめずには戻れない」
カノンは言い返せなかった。自分が兄の立場でも、同じことをしたかもしれない。
ディーンの靴が石畳を踏んだ。
次の瞬間、兄の姿が朝霧に溶けるように薄くなった。兵たちの握る縄が急に軽くなり、地面へ落ちる。切れた端は、焼けたように白く乾いていた。
「兄さん!」
カノンが駆け出すと、アリアが腕をつかんだ。振りほどこうとして、彼女まで前につんのめりそうになる。
「待って、あそこを見て!」
石柱の向こうにあった森が、石の壁に変わっていた。驚いて見つめる間にも壁は消え、今度は水が見えた。
「今、入ったら、ディーンさんと同じ場所へ行けるとは限らない!」
カノンは石柱の手前で踏みとどまった。つい今しがた兄が消えた場所に、見知らぬ水面が揺れている。どちらへ踏み込めば兄を追えるのか、見当もつかなかった。
アリアはカノンの腕をつかんだままだった。指先が震えているのが伝わってきた。
石柱の内側に刻まれた線が、淡く光り始めた。読めない文字の下に、見慣れた数字が並んでいる。兵の一人が持っていた捜索記録を開き、今日の日付と照らし合わせた。
「八日……先の日付です」
カノンも数字を追った。今日から一日ずつ数えていく。何度確かめても、示されているのは八日後だった。
「向こうは、八日後なのか?」
「そう読める。でも、ディーンさんがどこへ出たかまでは……」
アリアが言葉を切った。
柱の向こうの景色が、また森に変わっていた。木々の間に、男が立っている。
黒い外套を着た男だった。こちらを見ているが、顔までははっきり見えない。それでもカノンは、なぜか目をそらせなかった。初めて見る相手のはずなのに、どこか見覚えがある。
その男の手元で、銀色の花が揺れた。
カノンは思わず胸元を押さえた。アリアから預かった髪飾りは、布に包んだまま、確かにそこにある。
「待て!」
声を上げたときには、男の姿はもう消えていた。柱の向こうには、こちら側と変わらない森が広がっていた。
カノンは地面に落ちた縄をたぐり寄せた。兵が手伝おうとしたが、渡せなかった。ついさっきまで、この縄の先には兄がいたのだ。
アリアが隣にしゃがんだ。
「探そう。どこにつながったのか、きっと手掛かりがある」
カノンは切れた縄を握り直し、ようやく頷いた。
そのとき、後ろにいた兵が息を呑んだ。
北門へ戻る道に、小さな人影があった。片方の靴を失くし、服も膝も泥だらけになった少女が、こちらを見ている。
「カノン兄ちゃん」
ニナだった。
少女はカノンたちの足元にある縄に気づき、不思議そうに首をかしげた。
「ディーン兄ちゃんは? さっきまで一緒だったのに」
お読みいただきありがとうございます。
物語を楽しんでいただけたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです!




