第一話 星の消えた夜
八年前の約束と失われた記憶をめぐる、時間移動ファンタジーです。どうぞお楽しみください。
牙狼の爪が、カノンの外套を裂いた。
茂みから飛び出した獣を避けたつもりだったが、身を引くのがわずかに遅れた。足元の木の根につまずきかけ、どうにか踏みとどまる。剣はまだ鞘の中だ。
「……兄さんが兵を連れていくわけだ」
十七歳のカノンが一人で北の森へ来たのは、牙狼の足跡くらいなら自分にも見つけられると思ったからだった。最近、この森では目撃が相次ぎ、兄のディーンが兵を連れて見回っている。まさか、探していた獣そのものに出くわすとは思わなかった。
牙狼が低く唸り、こちらへ向き直った。毛を逆立てた背は、カノンの腰に届くほど高い。開いた口から唾液が糸を引いて落ちた。背を向けて逃げても、すぐに追いつかれる。
カノンは剣を抜き、低く構えた。
獣が再び飛びかかってきた。カノンは横へ踏み込み、剣を振る。刃が牙狼の肩口を切り、柄を握る手に重い衝撃が伝わった。牙狼は鳴き声を上げ、着地すると片方の前脚をかばいながら茂みへ逃げ込んだ。
枝の揺れが見えなくなっても、しばらく剣を下ろせなかった。追いかける気にはならない。もう一度向かってこられたら、今度も無事に済むとは限らなかった。
息を整えて外套を見る。裂けたのは服だけで、体に傷はなさそうだ。ただ、屋敷に帰ればディーンに見つかる。何を言っても、最初に返ってくる言葉は決まっていた。
「先に謝っとくか……」
剣を収めたとき、草の間に小さな光が見えた。
銀の花だった。
五枚の花弁をかたどった髪飾りで、中央には青い石がはめ込まれている。花弁の先は細く曲げられ、葉脈を思わせる線まで刻まれていた。森で働く人が身につけるような品には見えない。
しゃがんで拾い上げると、思いのほかきれいだった。昨夜は雨が降り、周囲の草にはまだ水気が残っている。それなのに、髪飾りには泥がほとんどついておらず、留め具の隙間まで乾いていた。
不思議に思い、青い石を確かめようとした。
親指が石に触れた瞬間、森の匂いが消えた。
代わりに感じたのは、日に熱された白い石の匂いだった。
目の前に、見知らぬ街が広がっていた。白い石畳の道に沿って白壁の建物が続き、その向こうには大きな塔がそびえている。
小さな少女が、カノンのすぐ横を走り抜けた。栗色の髪に揺れているのは、今しがた森で拾った銀の花だった。
『待って!』
少女は泣きながら叫んでいた。呼び止めているのはカノンではない。少し先を走る、黒い髪の少年だ。
『まだ、そっちへ行っちゃ駄目!』
少年が振り返りかけた。九歳くらいだろうか。横顔が見えたとき、カノンは妙な懐かしさを覚えた。頬の輪郭も、眉の形も、よく知っている気がする。
もっとよく見ようとしたところで、少女の声が遠ざかった。
膝に、湿った土の冷たさが伝わってきた。
森に戻っていた。カノンは片膝をつき、髪飾りを握ったまま地面に手をついていた。どれほどの間、そうしていたのか分からない。
これまでに見た夢とは違っていた。
十五歳の冬から、カノンはときどき日本という場所の夢を見る。窓が幾つも並ぶ高い建物、大勢の人を乗せて走る鉄の箱、手のひらほどの薄い板を指で操作する人々。学校、電車、コンビニ――聞き慣れない言葉なのに、何を指すのか分かる。目が覚めたあとも、夢に出てきた駅への道や、あの薄い板の使い方を覚えていた。
前の人生の記憶なのかもしれない。そう考えたこともある。けれど、日本での自分の名前も、いつ死んだのかも思い出せなかった。
父には話していない。九歳のころ、カノンは三日間行方不明になったことがある。父は今でも、ときおりカノンの顔を確かめるように見る。余計な心配をかけたくなかった。家庭教師のハロルドにも、異国の夢を見るとだけ伝えていた。
夢の中には、同じ幅の文字が何行も並ぶ画面が現れることもあった。何を読んでいたのか思い出そうとするたび、画面は駅のざわめきに紛れるように消えてしまう。
だが、さっきの白い街は違う。石の熱さも、少女の泣き声も、まだはっきりと覚えている。あの子が泣いていた理由さえ、知っていたような気がした。けれど、いくら考えても思い出せない。
もう一度青い石に触れる勇気はなかった。髪飾りを布で包み、外套の内側にしまう。
そのとき、近くの土から角張った石の欠片がのぞいているのに気づいた。
拾い上げて泥を払うと、表面に円の一部らしい線が刻まれていた。線の縁には文字が並んでいたらしいが、石が欠けていて、読めるのは二文字だけだった。
「アス……」
その先は欠けていた。
カノンは石板を髪飾りとは別の袋に入れた。もう一度あんな光景を見せられたら、今度こそ立っていられる気がしなかった。
森を抜けるころには、日が傾いていた。道を外れていたせいで、思ったより帰りが遅くなった。遠くに見える町の屋根が夕日に赤く染まり、時計塔の上には早くも星が一つ見えていた。
鐘が鳴った。
カノンは立ち止まり、町の方を見た。
時計塔の大時計は、彼が九歳のときから止まっている。鐘の音も、それ以来聞いたことがなかった。
二度目の鐘が響くと、森の鳥たちが一斉に飛び立った。
空を見上げる。さっきまで時計塔の上にあった星が消えていた。雲は一つもない。夕焼けの色まで、急に薄くなっていく。
カノンは町へ急いだ。
屋敷の門に着くころには、兵たちも空を見上げていた。
「何があった?」
「それが、こちらでも分からず……。カノン様、森においでだったのですか」
答えようとしたところで、三度目の鐘が鳴った。町には夕闇が広がっている。それなのに、見上げた空には星が一つもなかった。
「カノン!」
門の内側からディーンが早足で近づいてきた。剣を下げたまま、カノンの顔と肩に目を走らせ、裂けた外套に目を留めた。
「どこへ行っていた」
「北の森。牙狼を見つけて――」
「一人でか」
やはり言われた。カノンが謝ろうとすると、兄は何かをこらえるように息を吐いた。
「その話は後だ。ニナを見なかったか」
「ニナがどうかした?」
「昼過ぎから姿が見えない。北門へ向かったのを見た者がいる」
ニナは九歳の少女で、屋敷で洗濯の仕事をする叔母に連れられ、よく遊びに来る。母親を亡くしてからは、ディーンやカノンのあとをついて歩くことが増えた。森へ行くなと言われれば、返事だけは素直にする。そこが少し、自分に似ていた。
「森では見なかった。門番は?」
「門を出るところは見ていないそうだ。兵を分けて捜している」
「俺も行く。北門から先の道なら分かる」
「お前は戻ったばかりだろう。まず、その服を――」
「カノン」
兄の言葉に、聞き覚えのない声が重なった。
門の外に少女が立っていた。白い外套の裾には旅の汚れがつき、肩にかけた袋を両手で握っている。栗色の髪だった。
その顔を見た瞬間、森で見た白い街が頭に浮かんだ。銀の花を髪につけ、石畳を走っていた少女。目の前の彼女はあの子より背が高く、顔立ちも大人びている。それでも、何かを言いかけてためらう口元には、確かに見覚えがあった。
「……やっと会えた」
少女は一歩近づいた。カノンは思わず外套の内側に手を入れ、布包みを取り出していた。銀の花弁が、開きかけた布の隙間からのぞく。
少女の目が、髪飾りに向けられた。
「それ、どこで」
「森で拾った。君の?」
少女はすぐには答えなかった。カノンを見つめていた目から、少しずつ安堵の色が消えていく。
「覚えてないの?」
「会ったことがある?」
ディーンが二人を見比べた。カノンにも説明できなかった。確かに見覚えはある。だが、それはほんの少し前、森で髪飾りに触れたときに見た光景の中でのことだ。
少女は袋を握る手に力を込めた。
「八年前、約束したでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、少年の背中が頭に浮かんだ。
白い道を走る、小さな自分の背中だった。
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