第十話 八百年前への道
黒い服を着た、大人のカノンがいた。
アリアはそう話すと、机の上の捜索記録をそっと閉じた。八年前、時計塔で見かけた男のことは、それ以上思い出せないという。顔もはっきり見ていない。ただ、声を聞いたとき、幼いカノンと同じ人なのだと、なぜか分かったらしい。
カノンは水車小屋の地下で出会った、八年後の自分を思い浮かべた。あの男はアリアを見るなり足を止め、しばらく言葉を失っていた。八年間捜してきた相手と、まだ幼かったころにも顔を合わせていたのだとしたら、何を思ったのだろう。
「無理して思い出さなくてもいいよ」
「でも、覚えてることは話したいの。昔の私だけが知っていて、今の私には分からないなんて、悔しいから」
アリアの指は、閉じた記録の上に置かれたままだった。カノンも、九歳の自分が二人並んでいた光景を思い出す。目にしたことは説明できても、そこで何が起きていたのかは、まだ自分にも分からない。
ハロルドは古い旅行記と、八年前の捜索記録を並べていた。片方には八百年前のアステリアの塔が描かれ、もう片方には、帰還した九歳のカノンが語った塔の姿が書き留められている。どちらにも、頂が二つに分かれた塔があった。
「一つ、気になることがあるのですが」
ハロルドが記録を灯りにかざした、そのときだった。
窓の外から、硬い金属音が響いた。
鐘の音とは違う。何か大きなものが動き始めたような音だった。カノンたちが窓へ駆け寄ると、町の中央にある時計塔の周りに、人が集まり始めている。
八年前から止まっていた大時計の針が、動いていた。
しかも、普通とは反対の向きに。
「……戻ってる」
カノンは外套から銀時計を取り出した。一本しかない針がゆっくり動き、外側の目盛りも、それに合わせて位置を変えている。示しているのは、今の日付とは異なる古い印だった。
「オルフェさんは、まだ時計塔に?」
「いるはずです」
アリアが青い布をたたむ。ハロルドは兵に同行を頼み、三人は部屋を出た。
ディーンの部屋の前を通りかかったところで、扉が開いた。
「カノン。今度はどこへ行くつもりだ?」
寝台に背を預けた兄が、こちらを見ていた。左肩にはまだ厚い包帯が巻かれている。カノンは足を止め、時計塔で起きていることを手短に話した。
「オルフェさんに見てもらう。何が起きてるのか、まだ分からないんだ」
「分かった。戻ったら聞かせろ」
「……止めないの?」
「止めたところで、お前は行くだろう。それに、俺はこの肩だ」
ディーンは苦笑したが、すぐに真顔になった。
「兵を連れて行け。何か道が見つかっても、その場で勝手に決めるな。まず帰れるかどうか確かめろ」
「分かってる」
「今度こそ、だぞ」
カノンは頷き、兄から携帯用の灯りを受け取った。数日前なら、注意の途中で駆け出していたかもしれない。今は兵の準備が済むまで待つことにした。
*
時計塔の前は、見物人で混み合っていた。
逆向きに動く針を見上げ、声をひそめる者がいる。一方では、夕飯の時間まで戻ってくれればいいのに、と冗談を言う声も聞こえた。けれど誰も、止まっていた大時計が動き出した理由を知らなかった。
塔の中では、オルフェが歯車に耳を近づけていた。梯子を下りてきた袖には新しい油の染みがある。頬はまだこけているが、昨夜よりは顔色が戻っていた。
「外の針は、私が動かしたわけじゃないよ」
カノンの銀時計を見ると、オルフェは眉を寄せた。
「下の仕掛けから力が伝わっている。おそらく、あの銀色の根だ。切れていた線がつながって、声だけでなく、ほかの装置まで動き始めたらしい」
「危険なんですか?」
「まだ分からない。だから確かめているんだ」
オルフェは工具をしまい、地下へ続く階段を指した。ハロルドと兵も灯りを持って後に続く。
地下の扉は、先日開けたときのままだった。その奥から、石を踏む足音が聞こえてくる。カノンが進もうとすると、オルフェが片手を上げて止めた。
「誰だ。上へ通じる留め金を動かしたのは、私じゃないぞ」
「知っている」
答えた声は、通路の曲がり角から聞こえた。
やがて、灰色の外套を着た老人が姿を現した。裾には白い石粉が付き、肩には丸めた図面を抱えている。壁に手を添えて歩いてきた老人が灯りの中へ入ったとき、アリアが息をのんだ。
「……おじいちゃん?」
老人の足が止まった。
「アリア」
抱えていた図面が滑り落ちそうになり、老人は慌てて押さえた。その間にもアリアは駆け寄り、祖父の胸に顔を埋めていた。
エドガーは空いている腕を孫の背に回した。何か話そうとして、一度口を開く。それでも言葉が出なかったのか、ただアリアの肩を抱き寄せた。
「……帰ってこないかと思った」
外套に顔を埋めたまま、アリアが言った。
「すまなかった。心配をかけたな」
エドガーの声も、少しかすれていた。
カノンは二人のそばで立ち止まった。塔の異変は気になる。それでも、一年間祖父を待っていたアリアに、今すぐ離れろとは言えなかった。
「遅いぞ、エドガー」
横からオルフェが声をかけた。
エドガーはアリアを抱いたまま顔を上げ、相手を見た。まさかそこにいるとは思っていなかったのだろう。しばらく目を丸くしてから、険しい顔を作った。
「生きていたなら、もっと早く知らせろ」
「八年も扉を叩いていたんだがね。気づいてもらえなかったよ」
エドガーは言い返さなかった。アリアの肩からそっと手を離し、差し出されたオルフェの手を握る。
「……悪かった。探す場所を間違えた」
「続きはあとで聞く。先に、やることがあるんだろう?」
エドガーは頷いた。二人の手が離れると、彼は通路の奥を振り返った。
「今夜、古い道が開く。ここで立ち話をしている時間はない。帰りの位置を確かめてから、上で説明しよう」
*
地上へ戻ると、エドガーには水とパンが用意された。老人が腰を下ろすのを待って、ハロルドが机に図面を広げる。地下で見た印は、兵が書き写してきていた。
図面の周囲には十二の印があり、中央には何も描かれていない。ただ、端の一つから細い線が延びている。エドガーはその線を指した。
「アステリアへ続く道だ。向こうへ渡れば、あの街が消える直前の日に出る」
カノンの脳裏に、白い石畳を走る九歳の自分と、泣きながら追いかけるアリアが浮かんだ。あの場所へ、今度は自分の足で行けるのかもしれない。
「でも、手紙には八日後の夜と書いてありました」
「あれは、私が調べた道を次に確かめられる日付だ。今日ここへ来ると分かっていたわけではない。おそらく、銀色の根が別の仕掛けまでつないだんだろう」
エドガーは自分の手紙に添えた日付を確かめ、図面の横へ置いた。
「今夜開く入口は、それとは別だ。だからこそ、慎重に調べなければならん」
「行ったあと、ちゃんと帰れますか?」
アリアの問いに、エドガーはすぐには答えなかった。銀時計の目盛りを見てから、図面の線へ指を戻す。
「帰り道の印はある。ただし、印があるだけでは足りない。向こう側でも使えるか、確かめてから渡る。確かめられなければ、入らない」
昨夜、八年後の自分にも同じことを言われた。行けることと、帰れることは違う。カノンは黙って聞いた。
「八年前、俺たちがいた夜につながる道もあるんですか?」
「印は別に残っている。使えるかどうかは、現地で調べるしかない」
図面を巻きかけたエドガーの手を、オルフェが押さえた。
「街へ行くなら、私も同行するよ」
「お前、ようやく外へ出られたところだろう」
「だからこそ分かる音がある。向こうで若い私を見かけても、騒がないでくれよ」
「それが面倒なんだ」
二人のやり取りを聞いていたアリアが、祖父を見上げた。
「おじいちゃん。あの手紙、どうして私には見せちゃ駄目だって書いたの?」
エドガーは図面を巻く手を止めた。
「八年前の話を聞くたび、お前は思い出せないことを気にしていた。カノンも同じだった。先に一人ずつ話を聞いた方が、互いの記憶を混同せずに済むと思ったんだ」
「でも、私が約束を破ったみたいに書いてた」
「それは私が悪かった。なぜ引き返したのか、お前自身に確かめないまま決めつけた」
アリアはしばらく祖父を見つめていた。責めたいことは、まだほかにもあるのだろう。やがて、声を少し落として尋ねた。
「今日も、私を置いて行くつもりだった?」
「危ない場所へは連れて行きたくなかった」
エドガーは目をそらさなかった。
「だが、お前が調べてきたことも、青い布に残した印も必要だ。だから来てほしい、と言うだけでは勝手だな。行くかどうかは、自分で決めてくれ」
アリアは青い布を膝の上に広げた。端の方には、何度も縫い直した跡がある。彼女が祖父のいない一年で調べ、書き留めてきたものだった。
「行くよ。思い出せないことを、誰かに教えてもらうだけで終わらせたくない」
エドガーはそれ以上反対しなかった。
アリアは紙片を取り出し、青い布に縫われた印と照らしながら、確かめたい場所を書き始めた。幼い自分がカノンとはぐれた角。鐘が鳴った広場。銀の髪飾りを落としたかもしれない道。
「全部、今夜調べるつもり?」
カノンが尋ねると、アリアは首を振った。
「無理なら一つでもいい。でも、あなたが覚えてる場所だけを回ったら、私が覚えてることを見落とすかもしれない」
「そうだな。俺が知らないことも、教えてくれ」
「うん。分からないところは、分からないって言うね」
アリアは最後に、紙の余白へもう一行書き足した。
――あのとき、私は何が怖かったんだろう。
カノンはその文字を見て、白い街で泣いていた少女を思い出した。自分は逃げる少年の背中ばかり追っていた。アリアが何を見ていたのかは、まだ聞けていない。
*
夕方、出発前に屋敷へ戻ると、カノンは兄の部屋を訪ねた。
アステリアへつながる道が見つかったと話すと、ディーンは寝台から起き上がろうとした。ちょうど入ってきた母に止められ、しぶしぶ枕へ背を戻す。
「帰り道は確かめたのか」
「向こう側も確認してから入る。確かめられなかったら、今日はやめる」
「向こうを知っている人間は?」
「オルフェさんが一緒だ。エドガーさんも」
「こっちで待つのは?」
「ハロルド先生と兵たち。道が閉じても、次に開く日付を記録してもらう」
ディーンはしばらくカノンを見ていた。聞きたかったことに、どれも答えられたらしい。
「なら、行ってこい」
「いいの?」
「気をつけなければいけないことを、今のお前はちゃんと考えたみたいだからな。ただし、帰ってきたら全部話せよ」
「父上と母上にも?」
「もちろん。俺にもだ」
カノンが笑うと、ディーンは無事な右手を差し出した。握り返した手に、最後だけ強く力がこもった。
*
日が落ちる前に時計塔へ戻ると、地下の通路は白い光に照らされていた。
エドガーが床の目盛りを確かめ、ハロルドがその値を書き留める。図面と時計で帰り道の印を確かめたうえで、向こうへ渡るのはカノン、アリア、エドガー、オルフェの四人と決まった。兵たちは地上と地下に残り、道が閉じた場合も記録を続ける。
アリアは銀の花を髪に留め、青い布を肩に掛けた。カノンが銀時計を開くと、エドガーも自分の図面で針の位置を確かめる。
「まだ、街がある日の印だ」
オルフェが呟いた。長い地下暮らしで擦れた声が、わずかに震えていた。
「私は、あの日の朝、いつものように工房を出たんだ。その先で何が起きたのか、ずっと知らずにいた」
四人は光の中へ足を踏み入れた。
地下の冷たい空気が遠のく。湿った石の匂いに、どこからか花の香りが混じった。足元の光が消えたとき、カノンの靴は白い石畳を踏んでいた。
目の前には、人々の暮らす街が広がっていた。
子どもたちが噴水の周りを駆け回り、露店の主人が焼きたてのパンを台に並べている。客を呼ぶ声に荷車の音が重なり、見上げた塔の針は、何事もないように時を刻んでいた。
ここが、消える前のアステリア。
隣でアリアが息をのみ、祖父の袖をつかんだ。
「あの店……覚えてる。あの角で、私、カノンとはぐれたの」
彼女の視線を追った先で、一人の少年が角を曲がってきた。
黒い髪、見慣れた顔。九歳の自分だった。
その後ろを、銀の花を髪に飾った小さなアリアが追っていた。
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