第十一話 消える前の街
九歳のカノンが、目の前を駆け抜けていった。
思わず呼び止めそうになったが、声にはならなかった。自分と同じ黒髪の少年。その少し後ろを、幼いアリアが追いかけている。走るたびに栗色の髪が跳ね、銀の花飾りが日の光を受けて輝いた。
「私、あんなに足が速かったっけ」
隣でアリアがつぶやくと、オルフェが笑った。
「カノンを見失うまいと、必死だったからね」
カノンは幼い二人の背中を追った。
街の向こうに見える時計塔では、針が何事もないように時を刻んでいる。これまで銀の髪飾りが見せてくれたアステリアは、揺らぐ白い壁と、星の消えた空ばかりだった。けれど今は、露店に焼きたてのパンが並び、職人が通りの端で桶を洗っている。二階の窓から布を払う音がして、白い粉が風に舞った。
八百年前の街にも、当たり前の暮らしがあった。
オルフェは外套の襟を立て、顔を半分ほど隠した。
「若いころの私に会うかもしれない。同じ人間だと気づかれないとは思うが、騒ぎは避けたいね」
エドガーも灰色の頭巾を深くかぶる。カノンたちは荷を運ぶ人々に紛れ、子どもたちとの距離を保ちながら歩いた。姿を隠すつもりでも、賑わう通りでは誰かに声をかけられるかもしれない。目立たないようにするのが精いっぱいだった。
パン屋の前で、幼い二人が足を止めた。
九歳のカノンは値札を見て、がっくりと肩を落とした。幼いアリアが袋から硬貨を取り出し、何度も数えてから店主へ差し出す。二人が買えたのは、パン一つだけだった。
「覚えてる?」
アリアに聞かれ、カノンは少し考えた。
「一つしか買えなかったのは覚えてる。こんな店だったかな」
少年はパンを二つに割り、小さい方を自分に残して、大きい方をアリアに渡した。少女は二つを見比べ、受け取ったパンをさらに割る。その一片を少年の手に戻すと、二人はようやく食べ始めた。
カノンは苦笑した。昔の自分が何を考えていたのか、今なら少し分かる。
大きな荷車が通りかかり、二人の間を横切った。少年はパンを握ったまま車輪の後を追おうとしたが、向こうから声がした。
「カノン、そこで待ってて!」
荷車が通り過ぎると、幼いアリアが駆け寄ってきた。少年の袖をつかみ、確かめるように顔を見上げる。
「はぐれたら、勝手に走らないで。名前を呼んでよ」
「アリアって?」
「うん。私もカノンって呼ぶ。返事が聞こえたら、一緒にどっちへ行くか決めよう」
少年は素直に頷き、残りのパンをかじった。
あのパンがどんな味だったのか、今のカノンには思い出せない。けれど、荷車の向こうから自分の名を呼んだ声だけは、聞いた途端に懐かしく感じた。
隣でアリアが微笑んでいた。幼い二人をしばらく見つめたあと、その表情が静かに変わる。
あのころの自分たちは、もうすぐ離ればなれになる。今の彼女も、それを知っているのだ。
エドガーは歩きながら、青い布に残された印と街並みを照らし合わせていた。露店の裏を流れる水路、石畳に埋め込まれた細い金属線、時計塔の西へ続く階段。今の町では建物や道路の下に隠れているものが、ここでは確かめられる。
橋のたもとには、仕事の依頼を張り出す掲示板があった。明朝から働く石工の募集、三日後の市場へ運ぶ塩の荷、南門から戻る商人のための宿探し。どの紙にも、これから先の日付が記されている。
この人たちは、明日もここで暮らすつもりなのだ。
カノンが足を止めると、掲示板の前にいた年配の女性が、風で外れた紙を拾った。
「悪いけど、そこを押さえてくれるかい」
「あ、はい」
言われるまま紙の端を押さえる。女性はさびた釘を打ち直し、礼を言ってから足元へ目を向けた。
「それにしても、今日は地面がよく鳴るねえ。工事なら札を出してほしいものだよ」
石畳の金属線を靴先で軽く踏み、気味悪そうに離れる。
少し先でオルフェが手を振っていた。カノンは女性に会釈し、仲間のもとへ急いだ。街が消えることは知っている。だが、今目の前にいるこの女性を、どこへ連れていけば安全なのかまでは分からない。そのことが、ひどく歯がゆかった。
「北の線が、途中で枝分かれしているな」
オルフェが図面をのぞき込んだ。
「昔は鐘楼まで一本だったはずだ。観測台へ伸びる方は、後から足されたんだろう」
「誰が足したんですか?」
「少なくとも、私の工房じゃない。何のための線なのかも、当時は知らなかったよ」
カノンは足元の金属線をまたいだ。装置に詳しいオルフェにも、知らないことがある。石畳の下に埋まるものが、急に不気味に思えた。
通りの向こうで、人がぶつかる音がした。
工具箱を抱えた若い男と、幼いカノンたちだ。箱の蓋が開き、細かな金具が石畳に散らばる。九歳のカノンは慌ててしゃがみ込み、拾い集め始めた。
オルフェが立ち止まった。
「……私だ」
工具箱を拾い上げた男は三十歳ほどに見えた。髪は黒く、頬にはまだ丸みが残っている。けれど横顔には、地下から救い出したオルフェの面影があった。
「また君たちか。さっき塔の横で道を聞いただろう」
若いオルフェが、少年へ言った。
「分かったつもりだったんだ」
「なら、分からないまま走るんじゃない。危ないぞ」
少年が気まずそうに頭を下げる。若いオルフェは工具を確かめ、二人を連れて時計塔の方へ歩き出した。
そのとき、路地の出口に黒い外套が見えた。
カノンは反射的に立ち止まった。八年後の自分だった。
男は若いオルフェへ歩み寄ると、細い金具を渡した。傷のない面を上にして、相手の手のひらに置く。若いオルフェは一度だけ部品を確かめ、外套の内側にしまった。
エドガーが図面の余白へ、見えた形を書き写す。カノンものぞき込んだ。輪の一部を切り欠いたような金具で、外側から取り付けるためらしい溝があった。
「未来の俺が作ったんでしょうか」
「分からん。形だけ記録しておこう」
エドガーは余計なことを書き足さず、図面を閉じた。
「先に中へ」
黒衣の男の声が、かすかに届いた。
若いオルフェは幼い二人を連れて塔へ向かう。黒衣の男自身は子どもたちに近づかず、別の路地へ消えた。
「あれは何の部品なんですか?」
カノンが尋ねても、今ここにいるオルフェは首を振った。
「遠くてよく見えなかった。使われるところを確かめよう」
追いかければ、未来の自分から何か聞けるかもしれない。だが、九歳の二人まで見失ってしまう。カノンは黒衣の背中から目を離し、塔へ向かう子どもたちを追った。
時計塔が近づくにつれ、石畳の下から小さな震えが伝わってきた。露店の皿が触れ合い、かすかな音を立てる。風はないのに、噴水の水が吹き上がるたび、霧のように散った。
幼いアリアが少年の袖を引き、噴水を指した。二人は何か話してから足を速める。
「ここ、見覚えがある」
今のアリアも水面をのぞいた。
カノンは息をのんだ。父の資料室で銀の髪飾りに触れたとき、昼の空の下に星が映っていた、あの噴水だ。
まだ水面には青い空と時計塔が映っている。だが、端の方に小さな黒い点が一つ浮かんだ。揺れる水が一瞬だけ静まったとき、それは星の形に見えた。
「始まっているな」
オルフェは水路の蓋を開け、金属線に手を近づけた。触れなくても熱が伝わってくるのか、すぐに手を引く。カノンが銀時計を開くと、一本の針が逆向きへ一目盛り動いた。
そのとき、通りの先で悲鳴が上がった。
白壁の家が、端から透け始めていた。
壁に寄りかかっていた子どもが、支えを失って尻もちをつく。家の輪郭が薄くなるにつれ、その奥の石畳まで見えるようになった。瓦礫も、壁が崩れる音もない。そこにあった家だけが、少しずつ姿を失っていく。
家の前にいた母親が駆け寄った。子どもを抱き起こそうとするが、足元の石畳まで揺らいでいる。
薄くなった窓の奥には、人影が見えた。中に誰かいる。扉を探しているのか、壁際を行き来しているようだった。
「誰かいるのか! 聞こえるか!」
カノンが叫んでも、返事はない。すぐ目の前の壁にはまだ触れられるのに、向こう側からは物音ひとつ聞こえてこなかった。
人影のいる方へ回りたかった。だが、建物の周囲では石畳まで透け始めている。踏み込んでいい場所が分からなかった。
「右の石を踏め! 線の上は危ない!」
オルフェの声が飛んだ。
カノンは金属線を避けて駆け寄り、地面に座り込んだ子どもの腕を取った。母親も反対側から抱き起こす。親子が立った直後、二人のいた場所の石が色を失い、見知らぬ空がのぞいた。
カノンは母親の背を押し、子どもとともに路地の外へ逃がした。
「ありがとう、本当に……!」
母親は何度も頭を下げた。だが、振り返った家はもう見えない。中にいた人がどこへ行ったのかも分からなかった。カノンには、かける言葉が見つからなかった。
店主たちは戸板を閉め、通りの人々に避難を呼びかけている。アリアは道を塞ぐ荷車を動かす人たちに加わり、エドガーとオルフェは金属線の分岐を調べ始めていた。
「このままだと、ほかの通りまで消えてしまう」
エドガーはアリアの青い布を広げ、家が消えた場所を青い糸で小さく縫い留めた。すでに残されていた印のそばに、新しい印が増えた。
オルフェが、観測台へ伸びる線を指した。
「道が勝手に広がっている。人の通りまで力が流れ込めば、支える金具がもたない」
「止められないんですか?」
「鐘楼につながる三つの装置を止める。それぞれのレバーを押し下げればいい。離れた場所にあるから、一度に全部は無理だ」
カノンは時計塔を見上げた。鐘は一つしかない。
「じゃあ、三度鳴った鐘は……」
「それぞれの系統を止めると、あの鐘が鳴る仕組みだ。鐘が鳴るから街が消えるんじゃない。止めた合図として鳴るんだよ」
エドガーが顔を上げた。
八年前の記録には、三度鳴った鐘のことが残っていた。街が消える前触れだと思っていた音は、消失を食い止めようとする人々の働きを知らせる音だったのだ。
カノンは時計塔へ向かおうとした。だが、幼い二人と若いオルフェの姿は、もう人混みの向こうへ消えている。
オルフェが足元の線を示した。
「外から止められる系統が一つある。私たちはそちらへ行こう。塔の中は、あのころの私と子どもたちが向かったはずだ」
「でも、あいつらを放っておけない」
「ここを止めずに塔へ走ったら、逃げている人たちまで巻き込まれる」
カノンはさっき助けた親子を探した。二人は他の人々とともに通りの向こうへ歩いていく。助けられたのは、あの親子だけだ。家の中にいた人には、手が届かなかった。
今できることを放り出して、過去の自分だけを追いかけるわけにはいかない。
「……分かった。どこから手をつける?」
エドガーは南の街路へ、オルフェは北の水路へ向かった。カノンとアリアは二人の合図を受け取れる分岐点に残る。離れすぎないよう、それぞれの姿を確かめながら動いた。
アリアは青い布を広げ、工房と時計塔の印を指でつなぐ。カノンは銀時計を開き、針が大きく揺れる場所を彼女に伝えた。互いの見ているものが違うからこそ、二人で確かめる必要があった。
南側からエドガーの声が届いた。
「そこだ! 細い方を閉じろ!」
アリアが布の上で位置を示す。カノンが石蓋を外すと、細い溝の奥に古びたレバーがあった。両手で押しても、びくともしない。根元に砂が詰まっているらしい。
小刀の背で隙間を叩き、石の粉を少しずつかき出す。
背後で人々の叫び声が上がった。別の家の輪郭まで揺らぎ始めている。
カノンは思わず振り返った。逃げる人々の先では、アリアが荷車を押して道を空けている。目が合うと、彼女はカノンへ向かって大きく頷いた。
今は、任せよう。
カノンはレバーに向き直り、もう一度力を込めた。
固まっていた金具が軋み、レバーが下がる。石畳の下で重いものが動き、金属線から淡い光が消えた。
時計塔の鐘が、一度鳴った。
「止まった?」
駆け戻ったアリアが尋ねる。
揺らいでいた家の壁に、はっきりと影が戻っていた。窓も元の形を保っている。この一帯の異変は、少なくとも止まったようだった。
「ここは大丈夫だと思う。でも――」
言い終わる前に、北の路地から悲鳴が聞こえた。
オルフェが向かった方角だ。まだ合図はない。カノンとアリアは顔を見合わせ、青い布を拾って走り出した。
時計塔の横から、小さな影が飛び出してきた。
九歳のカノンだった。銀時計を握りしめ、何かを捜すように辺りを見回している。右膝の布が裂け、血がにじんでいた。幼いアリアの姿はない。
「アリア!」
少年が叫んだ。今のアリアが足を止める。
そのすぐ後ろから、もう一人の少年が現れた。
同じ黒髪、同じ顔、同じ服。ただし、後から来た少年の膝には傷がない。こちらも銀時計を握っている。
先に塔から出てきた少年が振り返った。互いの顔を見た二人は、まるで鏡を挟んで向かい合ったように動きを止める。
「……俺?」
二人の声が重なった。
カノンは、自分の手の中にある銀時計を見下ろした。二日前、時計に触れたときに見えた光景と同じだった。
先に塔から出てきた少年の右膝には、まだ乾いていない血がついていた。
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