↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/35

第十一話 消える前の街

 九歳のカノンが、目の前を駆け抜けていった。


 思わず呼び止めそうになったが、声にはならなかった。自分と同じ黒髪の少年。その少し後ろを、幼いアリアが追いかけている。走るたびに栗色の髪が跳ね、銀の花飾りが日の光を受けて輝いた。


「私、あんなに足が速かったっけ」


 隣でアリアがつぶやくと、オルフェが笑った。


「カノンを見失うまいと、必死だったからね」


 カノンは幼い二人の背中を追った。


 街の向こうに見える時計塔では、針が何事もないように時を刻んでいる。これまで銀の髪飾りが見せてくれたアステリアは、揺らぐ白い壁と、星の消えた空ばかりだった。けれど今は、露店に焼きたてのパンが並び、職人が通りの端で桶を洗っている。二階の窓から布を払う音がして、白い粉が風に舞った。


 八百年前の街にも、当たり前の暮らしがあった。


 オルフェは外套の襟を立て、顔を半分ほど隠した。


「若いころの私に会うかもしれない。同じ人間だと気づかれないとは思うが、騒ぎは避けたいね」


 エドガーも灰色の頭巾を深くかぶる。カノンたちは荷を運ぶ人々に紛れ、子どもたちとの距離を保ちながら歩いた。姿を隠すつもりでも、賑わう通りでは誰かに声をかけられるかもしれない。目立たないようにするのが精いっぱいだった。


 パン屋の前で、幼い二人が足を止めた。


 九歳のカノンは値札を見て、がっくりと肩を落とした。幼いアリアが袋から硬貨を取り出し、何度も数えてから店主へ差し出す。二人が買えたのは、パン一つだけだった。


「覚えてる?」


 アリアに聞かれ、カノンは少し考えた。


「一つしか買えなかったのは覚えてる。こんな店だったかな」


 少年はパンを二つに割り、小さい方を自分に残して、大きい方をアリアに渡した。少女は二つを見比べ、受け取ったパンをさらに割る。その一片を少年の手に戻すと、二人はようやく食べ始めた。


 カノンは苦笑した。昔の自分が何を考えていたのか、今なら少し分かる。


 大きな荷車が通りかかり、二人の間を横切った。少年はパンを握ったまま車輪の後を追おうとしたが、向こうから声がした。


「カノン、そこで待ってて!」


 荷車が通り過ぎると、幼いアリアが駆け寄ってきた。少年の袖をつかみ、確かめるように顔を見上げる。


「はぐれたら、勝手に走らないで。名前を呼んでよ」


「アリアって?」


「うん。私もカノンって呼ぶ。返事が聞こえたら、一緒にどっちへ行くか決めよう」


 少年は素直に頷き、残りのパンをかじった。


 あのパンがどんな味だったのか、今のカノンには思い出せない。けれど、荷車の向こうから自分の名を呼んだ声だけは、聞いた途端に懐かしく感じた。


 隣でアリアが微笑んでいた。幼い二人をしばらく見つめたあと、その表情が静かに変わる。


 あのころの自分たちは、もうすぐ離ればなれになる。今の彼女も、それを知っているのだ。


 エドガーは歩きながら、青い布に残された印と街並みを照らし合わせていた。露店の裏を流れる水路、石畳に埋め込まれた細い金属線、時計塔の西へ続く階段。今の町では建物や道路の下に隠れているものが、ここでは確かめられる。


 橋のたもとには、仕事の依頼を張り出す掲示板があった。明朝から働く石工の募集、三日後の市場へ運ぶ塩の荷、南門から戻る商人のための宿探し。どの紙にも、これから先の日付が記されている。


 この人たちは、明日もここで暮らすつもりなのだ。


 カノンが足を止めると、掲示板の前にいた年配の女性が、風で外れた紙を拾った。


「悪いけど、そこを押さえてくれるかい」


「あ、はい」


 言われるまま紙の端を押さえる。女性はさびた釘を打ち直し、礼を言ってから足元へ目を向けた。


「それにしても、今日は地面がよく鳴るねえ。工事なら札を出してほしいものだよ」


 石畳の金属線を靴先で軽く踏み、気味悪そうに離れる。


 少し先でオルフェが手を振っていた。カノンは女性に会釈し、仲間のもとへ急いだ。街が消えることは知っている。だが、今目の前にいるこの女性を、どこへ連れていけば安全なのかまでは分からない。そのことが、ひどく歯がゆかった。


「北の線が、途中で枝分かれしているな」


 オルフェが図面をのぞき込んだ。


「昔は鐘楼まで一本だったはずだ。観測台へ伸びる方は、後から足されたんだろう」


「誰が足したんですか?」


「少なくとも、私の工房じゃない。何のための線なのかも、当時は知らなかったよ」


 カノンは足元の金属線をまたいだ。装置に詳しいオルフェにも、知らないことがある。石畳の下に埋まるものが、急に不気味に思えた。


 通りの向こうで、人がぶつかる音がした。


 工具箱を抱えた若い男と、幼いカノンたちだ。箱の蓋が開き、細かな金具が石畳に散らばる。九歳のカノンは慌ててしゃがみ込み、拾い集め始めた。


 オルフェが立ち止まった。


「……私だ」


 工具箱を拾い上げた男は三十歳ほどに見えた。髪は黒く、頬にはまだ丸みが残っている。けれど横顔には、地下から救い出したオルフェの面影があった。


「また君たちか。さっき塔の横で道を聞いただろう」


 若いオルフェが、少年へ言った。


「分かったつもりだったんだ」


「なら、分からないまま走るんじゃない。危ないぞ」


 少年が気まずそうに頭を下げる。若いオルフェは工具を確かめ、二人を連れて時計塔の方へ歩き出した。


 そのとき、路地の出口に黒い外套が見えた。


 カノンは反射的に立ち止まった。八年後の自分だった。


 男は若いオルフェへ歩み寄ると、細い金具を渡した。傷のない面を上にして、相手の手のひらに置く。若いオルフェは一度だけ部品を確かめ、外套の内側にしまった。


 エドガーが図面の余白へ、見えた形を書き写す。カノンものぞき込んだ。輪の一部を切り欠いたような金具で、外側から取り付けるためらしい溝があった。


「未来の俺が作ったんでしょうか」


「分からん。形だけ記録しておこう」


 エドガーは余計なことを書き足さず、図面を閉じた。


「先に中へ」


 黒衣の男の声が、かすかに届いた。


 若いオルフェは幼い二人を連れて塔へ向かう。黒衣の男自身は子どもたちに近づかず、別の路地へ消えた。


「あれは何の部品なんですか?」


 カノンが尋ねても、今ここにいるオルフェは首を振った。


「遠くてよく見えなかった。使われるところを確かめよう」


 追いかければ、未来の自分から何か聞けるかもしれない。だが、九歳の二人まで見失ってしまう。カノンは黒衣の背中から目を離し、塔へ向かう子どもたちを追った。


 時計塔が近づくにつれ、石畳の下から小さな震えが伝わってきた。露店の皿が触れ合い、かすかな音を立てる。風はないのに、噴水の水が吹き上がるたび、霧のように散った。


 幼いアリアが少年の袖を引き、噴水を指した。二人は何か話してから足を速める。


「ここ、見覚えがある」


 今のアリアも水面をのぞいた。


 カノンは息をのんだ。父の資料室で銀の髪飾りに触れたとき、昼の空の下に星が映っていた、あの噴水だ。


 まだ水面には青い空と時計塔が映っている。だが、端の方に小さな黒い点が一つ浮かんだ。揺れる水が一瞬だけ静まったとき、それは星の形に見えた。


「始まっているな」


 オルフェは水路の蓋を開け、金属線に手を近づけた。触れなくても熱が伝わってくるのか、すぐに手を引く。カノンが銀時計を開くと、一本の針が逆向きへ一目盛り動いた。


 そのとき、通りの先で悲鳴が上がった。


 白壁の家が、端から透け始めていた。


 壁に寄りかかっていた子どもが、支えを失って尻もちをつく。家の輪郭が薄くなるにつれ、その奥の石畳まで見えるようになった。瓦礫も、壁が崩れる音もない。そこにあった家だけが、少しずつ姿を失っていく。


 家の前にいた母親が駆け寄った。子どもを抱き起こそうとするが、足元の石畳まで揺らいでいる。


 薄くなった窓の奥には、人影が見えた。中に誰かいる。扉を探しているのか、壁際を行き来しているようだった。


「誰かいるのか! 聞こえるか!」


 カノンが叫んでも、返事はない。すぐ目の前の壁にはまだ触れられるのに、向こう側からは物音ひとつ聞こえてこなかった。


 人影のいる方へ回りたかった。だが、建物の周囲では石畳まで透け始めている。踏み込んでいい場所が分からなかった。


「右の石を踏め! 線の上は危ない!」


 オルフェの声が飛んだ。


 カノンは金属線を避けて駆け寄り、地面に座り込んだ子どもの腕を取った。母親も反対側から抱き起こす。親子が立った直後、二人のいた場所の石が色を失い、見知らぬ空がのぞいた。


 カノンは母親の背を押し、子どもとともに路地の外へ逃がした。


「ありがとう、本当に……!」


 母親は何度も頭を下げた。だが、振り返った家はもう見えない。中にいた人がどこへ行ったのかも分からなかった。カノンには、かける言葉が見つからなかった。


 店主たちは戸板を閉め、通りの人々に避難を呼びかけている。アリアは道を塞ぐ荷車を動かす人たちに加わり、エドガーとオルフェは金属線の分岐を調べ始めていた。


「このままだと、ほかの通りまで消えてしまう」


 エドガーはアリアの青い布を広げ、家が消えた場所を青い糸で小さく縫い留めた。すでに残されていた印のそばに、新しい印が増えた。


 オルフェが、観測台へ伸びる線を指した。


「道が勝手に広がっている。人の通りまで力が流れ込めば、支える金具がもたない」


「止められないんですか?」


「鐘楼につながる三つの装置を止める。それぞれのレバーを押し下げればいい。離れた場所にあるから、一度に全部は無理だ」


 カノンは時計塔を見上げた。鐘は一つしかない。


「じゃあ、三度鳴った鐘は……」


「それぞれの系統を止めると、あの鐘が鳴る仕組みだ。鐘が鳴るから街が消えるんじゃない。止めた合図として鳴るんだよ」


 エドガーが顔を上げた。


 八年前の記録には、三度鳴った鐘のことが残っていた。街が消える前触れだと思っていた音は、消失を食い止めようとする人々の働きを知らせる音だったのだ。


 カノンは時計塔へ向かおうとした。だが、幼い二人と若いオルフェの姿は、もう人混みの向こうへ消えている。


 オルフェが足元の線を示した。


「外から止められる系統が一つある。私たちはそちらへ行こう。塔の中は、あのころの私と子どもたちが向かったはずだ」


「でも、あいつらを放っておけない」


「ここを止めずに塔へ走ったら、逃げている人たちまで巻き込まれる」


 カノンはさっき助けた親子を探した。二人は他の人々とともに通りの向こうへ歩いていく。助けられたのは、あの親子だけだ。家の中にいた人には、手が届かなかった。


 今できることを放り出して、過去の自分だけを追いかけるわけにはいかない。


「……分かった。どこから手をつける?」


 エドガーは南の街路へ、オルフェは北の水路へ向かった。カノンとアリアは二人の合図を受け取れる分岐点に残る。離れすぎないよう、それぞれの姿を確かめながら動いた。


 アリアは青い布を広げ、工房と時計塔の印を指でつなぐ。カノンは銀時計を開き、針が大きく揺れる場所を彼女に伝えた。互いの見ているものが違うからこそ、二人で確かめる必要があった。


 南側からエドガーの声が届いた。


「そこだ! 細い方を閉じろ!」


 アリアが布の上で位置を示す。カノンが石蓋を外すと、細い溝の奥に古びたレバーがあった。両手で押しても、びくともしない。根元に砂が詰まっているらしい。


 小刀の背で隙間を叩き、石の粉を少しずつかき出す。


 背後で人々の叫び声が上がった。別の家の輪郭まで揺らぎ始めている。


 カノンは思わず振り返った。逃げる人々の先では、アリアが荷車を押して道を空けている。目が合うと、彼女はカノンへ向かって大きく頷いた。


 今は、任せよう。


 カノンはレバーに向き直り、もう一度力を込めた。


 固まっていた金具が軋み、レバーが下がる。石畳の下で重いものが動き、金属線から淡い光が消えた。


 時計塔の鐘が、一度鳴った。


「止まった?」


 駆け戻ったアリアが尋ねる。


 揺らいでいた家の壁に、はっきりと影が戻っていた。窓も元の形を保っている。この一帯の異変は、少なくとも止まったようだった。


「ここは大丈夫だと思う。でも――」


 言い終わる前に、北の路地から悲鳴が聞こえた。


 オルフェが向かった方角だ。まだ合図はない。カノンとアリアは顔を見合わせ、青い布を拾って走り出した。


 時計塔の横から、小さな影が飛び出してきた。


 九歳のカノンだった。銀時計を握りしめ、何かを捜すように辺りを見回している。右膝の布が裂け、血がにじんでいた。幼いアリアの姿はない。


「アリア!」


 少年が叫んだ。今のアリアが足を止める。


 そのすぐ後ろから、もう一人の少年が現れた。


 同じ黒髪、同じ顔、同じ服。ただし、後から来た少年の膝には傷がない。こちらも銀時計を握っている。


 先に塔から出てきた少年が振り返った。互いの顔を見た二人は、まるで鏡を挟んで向かい合ったように動きを止める。


「……俺?」


 二人の声が重なった。


 カノンは、自分の手の中にある銀時計を見下ろした。二日前、時計に触れたときに見えた光景と同じだった。


 先に塔から出てきた少年の右膝には、まだ乾いていない血がついていた。


挿絵(By みてみん)

お読みいただきありがとうございます。

物語を楽しんでいただけたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。