第十二話 三度目の鐘
後から現れた九歳のカノンが、目の前の少年をまじまじと見つめていた。
同じ顔、同じ服。どちらも銀時計を握っている。違うのは右膝だった。先に時計塔から出てきた少年はズボンが裂け、傷口から血がにじんでいる。後から来た少年の膝には、まだ傷一つなかった。
「お前、どこから来た?」
傷のない少年が尋ねると、もう一人は時計塔の裏口を指さした。
「そこから出た。お前は?」
「まだ塔に入ってない」
十七歳のカノンは、息をのんだ。
二人は別人ではない。傷のある少年は、少し先の時刻を通り、ここへ戻ってきた自分なのだ。同じ場所に、異なる時刻の自分が重なっている。
だが、確かめる時間はなかった。北側の路地では石畳が端から色を失い、逃げてきた人々がこちらへ押し寄せている。
「塔へ! 二つ目がまだ動いている!」
水路を調べていたオルフェが叫んだ。通りの向こうからは、若いころのオルフェまで走ってくる。現在のオルフェは慌てて外套の襟を立て、相手に顔が見えないよう壁際へ下がった。
若いオルフェは二人の少年を見比べたあと、血のにじむ右膝に目を留めた。
「先に戻ったのはお前か。塔の中で何を見た?」
「上に、もう一つ止めるところがある。そっちの俺が行く」
「場所を知っているなら、お前が案内すればいいだろう」
「駄目だ。俺が先に行ったら、さっき見たのと違ってしまう」
傷のある少年は、うまく説明できないことに苛立っているようだった。若いオルフェも戸惑ったが、やがて無傷の少年へ向き直り、その手の銀時計を指した。
「東の階段を上がれ。針が大きく振れるところに、装置を止めるレバーがある」
「それ、上でも聞いた」
「私はまだ話していないぞ」
互いに顔を見合わせる二人の頭上で、塔が低くうなった。若いオルフェはそれ以上の説明を諦め、傷のない少年の背を押す。少年は銀時計を握り直し、東の階段へ走っていった。
傷を負った少年は塔の裏へ回った。十七歳のカノンはその姿が角を曲がるまで見送ったが、追いかけはしなかった。彼がどの道を通ってここへ来たのか、まだ分からない。
「……私を捜してたんだね」
隣でアリアがつぶやいた。
九歳の少年が呼んでいたのは、八歳だったころのアリアだ。市場ではぐれて以来、どこにいるのか分からない。カノンも捜しに行きたかったが、塔の入口では人々が立ち往生していた。崩れた石の下に、職人が脚を挟まれている。
「先に、あの人を助けよう」
カノンとアリアは戸口へ駆け寄った。二人で石を持ち上げ、駆けつけた若いオルフェが職人の脚を引き出す。幸い、男は肩を借りれば歩けた。アリアが避難できる通りを教えると、彼は何度も頭を下げて離れていった。
その間に、エドガーと現在のオルフェは塔の内壁を調べていた。円を描くように並んだ十二の印。その中央へ白い光が集まり、細い金属線が鐘楼の上まで伸びている。
「二つ目は、あの少年が止めに行った」
オルフェが階段を見上げた。
「だが三つ目には、まだ力が流れている。私たちはそちらを探そう」
エドガーは青い布を広げ、壁の印と照らし合わせた。かつて自分で描いた図面にはない枝が、観測台から外へ伸びている。十二の印のどれにもつながっていない。
「こんな線は描かなかったはずだ」
「工房にも記録がないよ」
オルフェは膝をつき、壁際の金属線に耳を近づけた。やがて顔を上げる。
「観測台へ流れた力が、また中央へ戻っている。逃げ場をなくした力が、街のあちこちへ流れ込んでいるのかもしれない」
そのとき、頭上で金属の軋む音がした。
東の階段を上った少年が、レバーを動かしているのだろう。重いものを引きずるような音がしばらく続き、やがて――。
二度目の鐘が鳴った。
北の路地で、色を失いかけていた石畳の揺らぎが止まった。逃げていた人々も足を緩め、何人かが恐る恐る振り返っている。
「……鐘が鳴ると、止まるんだね」
アリアが塔を見上げた。
カノンは銀時計を開いた。針は一度大きく跳ね、それきり止まっている。八年前の聞き取り記録に残された三度の鐘を、街が消える前触れだとばかり思っていた。
「そうじゃなかったんだ。止めた知らせだった」
九歳の自分が今、あの上で何かを止めた。アリアもそれを確かめるように頷いた。
けれど、安心するには早かった。二つの線が暗くなっても、壁の中央に集まる白い光は脈打ち続けている。床の震えも収まらない。
鐘楼へ向かう途中、カノンは階段脇の壁に妙なものを見つけた。古い銅板の上に、小さな銀色の板が取り付けられている。留め具は周囲の金具と形が違い、縁には擦り切れた文字らしきものが残っていた。
読もうとして、指先で埃を払った。
途端に、鐘の余韻が遠のいた。
夜の道を、光を放つ車が走っている。高い建物には四角い窓がいくつも並び、看板には見知らぬ文字が光っていた。それなのに、カノンはそこに書かれた言葉を読めた。
足元がぐらつき、銀板から手を離す。隣にいたアリアが、とっさに肩を支えてくれた。
「カノン? また何か見えたの?」
カノンは頷いた。銀の髪飾りに触れたときと似ている。だが、今見えたのは白い街ではない。
「……日本だ」
自分の口から出た名に、アリアが眉を寄せる。
「場所の名前?」
「たぶん。十五歳のころから、ときどき知らない道や建物が浮かぶんだ。なのに、あれが日本だってことだけは分かる」
誰にも話していなかった名前を口にすると、かえって胸の奥が落ち着かなくなった。アリアはすぐに問いを重ねず、カノンの顔色を確かめている。
エドガーが銀板をのぞき込んだ。
「その場所から、この板が運ばれてきたということか?」
「分かりません。触れたときに景色が見えただけです。板がどこで作られたかまでは……」
オルフェは小刀の先を留め具に差しかけ、すぐに引いた。
「今これを外せば、三つ目の系統へ力が流れ込む。先にそちらを止めよう」
階段の上で足音がした。九歳のカノンが手すりから身を乗り出している。
「二つ目、止めたぞ! 次はどこだ?」
息を切らしながらも、銀時計を得意そうに掲げていた。
その顔を見たとき、カノンは胸の奥にあったわだかまりが少しほどけるのを感じた。自分はあの街で、何か取り返しのつかないことをしたのではないか。記憶が欠けているせいで、そんな不安を抱えていた。
けれど、目の前の少年は必死に街を守ろうとしている。それだけは、もう疑わずにいられた。
エドガーが青い布の端を指した。三つ目の印は鐘楼の裏、街外れへ向かう通路と重なっている。
「裏に保守口がある」
オルフェは石壁の継ぎ目を探りながら言った。
「昔、危険だと思って塞いだんだ。それきり、忘れていた」
指先が小さな窪みに掛かる。引き出した鉄の取っ手を握ると、重い石板がゆっくり開いた。隙間から冷たい空気が流れ出してくる。
通路は狭く、二人並ぶのがやっとだった。エドガーが青い布を抱えて先に進み、カノンとアリアが続く。オルフェは最後に入り、扉が閉まらないよう石片をかませた。
行き止まりには、壊れた操作台があった。レバーの先が折れ、根元には砂が詰まっている。カノンが押し下げても、手を離した途端に元へ戻ってしまった。
「固定するものが要るな」
オルフェが工具袋を探る。適当な厚さの金具は見つからなかった。アリアは操作台の下をのぞき、割れた石片を一つ拾い上げた。片側が滑らかで、レバーの根元の隙間に合いそうだった。
「これなら挟めるかも」
「俺が押さえる」
カノンが両手でレバーを押し下げ、オルフェが緩んだ金具を支えた。アリアは二人の指に触れない位置を確かめてから、石片を隙間へ差し込む。エドガーは通路の入口に立ち、青い布の印と外の光を見比べていた。
「もう少し……そこだ!」
レバーが最後まで下がる。カノンがおそるおそる手の力を緩めても、石片がつっかえになり、元には戻らなかった。
三度目の鐘が鳴った。
音は狭い通路を震わせ、足元から伝わる地鳴りを一瞬かき消した。エドガーの青い布では、中央へ伸びる三本の線が次々と暗くなっていく。遠くの叫び声も、少しずつ弱まった。
カノンは息を吐いた。これで街を守れたのだろうか。
「三つの系統は止まった」
エドガーは布を畳まず、中央の印を見つめていた。
「だが、ここがまだ光っている」
その声に応えるように、行き止まりの壁へ白い筋が走った。石の継ぎ目がゆっくりと開き、隙間の向こうから足音が聞こえてくる。
現れたのは、年老いた男だった。
痩せた頬に、ほとんど白くなった髪。灰色の外套は擦り切れ、その腕には一枚の青い布が抱えられている。エドガーの持つ布とよく似ていたが、色は褪せ、端には銀糸で小さな花が縫い込まれていた。
「遅くなった」
男はそう言って、二枚の布を見比べた。
エドガーが動きを止める。声も顔立ちも、目の前の老人は彼によく似ていた。ただ、今のエドガーよりも長い年月を生きてきたことが、その顔に刻まれている。
「……私、なのか」
男は答える代わりに、階段の方へ視線を向けた。カノンが銀板を見つけた場所だ。
「三つの系統を止めても、外からつながる線は残る。あれを切らない限り、この街はまだ助からない」
カノンは三度目の鐘の余韻を聞きながら、老人の腕に抱えられた布へ目を戻した。銀糸の花は、アリアの髪飾りとよく似ている。
隣のアリアも気づいたらしい。布の端を見つめ、何かを思い出そうとするように指を動かした。
老人は布を渡さないまま、通路の外を指さした。
「先に子どもたちを集めろ。あの二人が別々の出口を選んだら、帰る場所まで変わる」
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