第十三話 別々の出口
時計塔の通路を抜けると、外の空は灰色に変わっていた。
つい先ほどまで青かった空に、薄い雲のようなものが広がっている。街路や建物の輪郭は、ひとまず元の形を保っていた。だが遠くの屋根の上には、空だけを四角く切り取ったような白い穴が残っている。
年老いたエドガーが鐘楼への階段を上り、窓から街を見渡した。現在のエドガーも後に続く。二人は示し合わせたわけでもないのに、同じ場所へ手をつき、同じ角度で身を乗り出した。
カノンは思わず二人を見比べた。
「鐘楼につながる三つの系統は止まった」
年老いたエドガーが言った。
「だが、観測台から外へ伸びた線はまだ生きている。中央へ力が戻るたびに、この街のどこかが削られていく」
「階段に取り付けられていた銀の板ですか?」
「あれは線の継ぎ目だ。元を断たなければ、止まらない」
老人は使い込まれた青い布を広げた。
現在のエドガーが持つ布と、古い縫い目の位置は同じだった。ただし、老人の布には新しい道の印がいくつも増え、端には銀糸の花が一輪、縫い込まれている。
アリアがその花に指を近づけた。花弁の下に隠れる小さな結び目は、彼女が普段よく使う縫い方に似ていた。
「……これ、私が縫ったの?」
老人は布を少し傾け、彼女の指先を見た。
「そうだ。だが、いつ、どうして縫うことになるのかは、今は聞かないでくれ」
「教えたら、何か困るの?」
「これからお前が自分で確かめることを、私の言葉で決めさせたくないんだ」
アリアは納得しきれない様子だったが、花から手を離した。
現在のエドガーが老人を見た。自分なら何を言うか、分かっているような顔だった。
「先の出来事を知っているからといって、何もかも黙っていればいいわけじゃない」
老人は窓の外を見つめたまま続ける。
「話さずに後悔したこともある。今は、目の前にいる子どもたちを守ることを考えろ」
現在のエドガーは反論しなかった。確かめるようにアリアを見て、それから階段を下りてくる小さな影へ目を向けた。
傷のない九歳のカノンだった。
息を弾ませ、銀時計を握りしめている。時計の針は、手の中で落ち着きなく揺れていた。
「二つ目は止めた。でも、アリアが見つからない」
「もう一人の自分はどうした?」
十七歳のカノンが尋ねると、少年は眉をひそめた。
「塔の裏で会った。俺より先のことを知ってるみたいだったけど、いつの間にかいなくなった」
年老いたエドガーが頷く。
「あの子は一度、先の時刻を通って戻ってきた。お前もこれから同じ道を通ることになる」
「なんで、そんなことが分かるんだよ」
「今ここで聞くより、自分で見た方が早い」
少年はますます難しい顔になった。十七歳のカノンも、その顔に覚えがあった。考えても答えが出ないとき、自分はよくあんなふうに口を尖らせる。
隣のアリアが小さく笑ったが、すぐに塔が低くうなった。全員の視線が白い光の集まる中央へ向く。
年老いたエドガーが青い布を床へ広げた。
「外へ伸びる線を、ほかの道から切り離す。観測室と、塔の下で水が流れ込む場所。二か所を同時に閉じなければならない」
「そのために、また子どもを行かせるのか」
背後から声がした。若いオルフェが階段を上ってきたところだった。袖には、先ほど助け出した職人の血が少しついている。
現在のオルフェは柱の陰へ退いた。かつての自分に見つかれば、事情を説明するだけで時間を失ってしまう。
「子どもたちに、これ以上危ない仕事をさせる必要はない」
現在のエドガーが前へ出た。
「下は私が行く。上の観測室は、仕組みを知っているあなたが――」
「上は私が行こう」
年老いたエドガーが言葉を継いだ。
「閉じたあとで出口の位置がずれる。戻る道を確かめてきた私の方がいい」
「一人で大丈夫なのか?」
「一人じゃないさ」
老人は窓の外を指さした。
白い通りを、黒い外套の男が歩いてくる。背丈も歩き方も見慣れていた。顔が灯りの下に入ったとき、カノンはそれが二十五歳の自分だと分かった。
黒衣のカノンは塔に入るなり、老人の青い布をのぞき込んだ。
「もう三つとも止めたのか」
「ああ。あとは外の線だけだ」
二人の会話には余計な説明がなかった。何度も同じ図面を広げ、道を調べてきたのだろう。その短いやり取りから、カノンにもそれが伝わった。
八年後の自分は、今もまだアリアを捜している。
そう思うと、顔に刻まれた疲れが以前よりはっきり見えた。
黒衣のカノンは十七歳の自分を見て、何か言いかけた。だが口を閉じ、代わりに尋ねた。
「小さいアリアを見なかったか?」
「市場ではぐれてから、まだ見つかってない」
「観測台の下にいる。俺が迎えに行く」
そう言って男は踵を返した。呼び止めたいことはいくらでもあったが、幼いアリアが見つかったと聞けば、今は任せるしかなかった。
年老いたエドガーは若いオルフェを連れて観測室へ上がった。現在のエドガーは地下の水路へ向かう。カノンとアリアは上下の合図をつなぎ、現在のオルフェは銀板のそばで力の流れを調べることになった。
地下の床石を外すと、冷たい水が流れる深い溝が現れた。その向こうに、長いレバーが一本見える。手では届かず、足場も悪い。
「この鎖を使いましょう」
カノンは床に残されていた鎖をたぐり、先端の鉤をレバーの輪へ掛けた。現在のエドガーが鎖を握り、カノンも隣に立つ。
アリアは壁の印と青い布を見比べた。上の観測室の線と下の水路の線が、中央で重なっている。
「まだ引かないで。白い線が三つ重なってる」
鎖を握った二人が動きを止める。
水音に混じって、上の階から金属を叩く音がした。一度、間を置いてもう一度。観測室の準備ができたという合図だ。
アリアは印をもう一度見た。重なっていた光が少しずつ離れ、最後の一本が中央へ集まる。
「……今!」
カノンとエドガーは一緒に鎖を引いた。
重いレバーが倒れ、床下の水が一瞬だけ逆巻いた。同時に、頭上でも大きな金属音が響く。二か所の仕掛けが動いたのだ。
鐘は鳴らなかった。先ほどの三つのレバーとは違い、これは鐘楼につながる系統を止めるための装置ではない。外へ伸びた道そのものを閉じる仕掛けだった。
塔の中央に残っていた白い光が、糸のように細くなる。
壁を揺らしていた低い音が途切れた。
カノンはアリアと顔を見合わせ、階段を駆け上がった。外に出ると、消えた家は戻っていなかった。窓の向こうに見えた人影も、見つからない。だが、隣の通りで透けかけていた建物は、もう揺らいでいなかった。
助けられた場所と、間に合わなかった場所が、すぐ隣に並んでいた。
「ひとまず、これ以上は広がらない」
年老いたエドガーが観測室から下りてきた。若いオルフェも一緒だったが、現在のエドガーと老人を交互に見て、足を止める。
「……どういうことだ?」
「説明はあとにしよう」
老人は窓の外を指した。
「街の端に、まだ取り残された人がいる。職人を集めて助けに行ってくれ」
若いオルフェは二人の顔をもう一度見比べたものの、外から呼ぶ声を聞くと、工具袋をつかんで走り出した。
現在のオルフェは、その背中を見送った。あのころの自分には、何より先にするべき仕事があったのだ。
塔の中では、九歳のカノンが落ち着かない様子で歩き回っていた。
「アリアは? 見つかったの?」
「もうすぐ会えるよ」
年老いたエドガーが答えると、少年は顔をしかめた。
「もうすぐって、いつだよ」
カノンも同じことを聞きたかった。街の異変が収まったなら、一刻も早く二人を会わせたい。
やがて、白い通路の奥から足音が聞こえた。
現れたのは、八歳のアリアだった。栗色の髪が乱れ、唇を強く結んでいる。その隣には黒衣のカノンがいた。
「アリア!」
少年が駆け寄ろうとする。少女も顔を上げ、ぱっと表情を明るくした。
だが、二人の間には白い線が横切っていた。黒衣のカノンが腕を伸ばし、少年を止める。
「そこを越えるな。今開いている出口が閉じてしまう。アリア、先に向こうへ行って」
少女が不安そうに男を見上げる。
「カノンも来る?」
「この子が、あとから行く」
男は九歳のカノンを指した。その表情を、十七歳のカノンは読み取れなかった。
年老いたエドガーは青い布を裏返し、二本に分かれた白い線を指で押さえている。
「待ってください。あの二人、同じ出口に出るんじゃないんですか?」
カノンが尋ねると、老人は顔を上げた。
「同じ場所にはつながっていない」
「それを知っていて、別々に行かせるのか?」
「八年かけて、ほかに帰れる道がないか調べてきた。だが、ここから二人を同じ出口へ送る道は見つからなかった」
カノンは言い返そうとして、言葉を失った。相手が何もしなかったわけではないと、分かってしまったからだ。
それでも、幼い二人にはまだ、別々の場所へ行くことが伝わっていない。
現在のアリアが少女に声をかけた。
「怖くなったら、立ち止まって。周りをよく見てね」
少女は驚いて振り返った。年上の自分と同じ銀の花が、灯りの下で光っている。
黒衣のカノンが外套から銀時計を取り出し、少女の小さな手に載せた。
「これを持っていて。途中で俺に返してくれればいい」
現在のアリアは時計に目を向け、言い添えた。
「針が変な動きをしたら、無理に進まないで」
少女は時計を両手で包み、こくりと頷いた。
「それ、俺の時計じゃないのか?」
九歳のカノンが抗議すると、黒衣の男は少年の手を示した。
「お前のは、そこにあるだろ」
少年が掌を開く。確かに、同じ形の銀時計を握っている。
十七歳のカノンは、少女の手にある銀時計と、九歳の自分が握る時計を見比べた。自分の胸元にも、同じ銀時計がある。同じ時計が、異なる時刻を経て、この場所に三つ集まっていた。
八歳のアリアは白い道に一歩踏み入れ、振り返った。
「カノン、本当に来る?」
九歳の少年は背筋を伸ばし、いつものように笑おうとした。
「先に行って。俺もすぐ行く!」
「絶対?」
「絶対」
その声を聞いた瞬間、現在のカノンの胸が痛んだ。
八年前、自分はこうして約束したのだ。彼女と同じ道を通れると、疑いもしないまま。
黒衣のカノンは何も言わなかった。
幼いアリアが角を曲がる。白い光が揺れ、あっという間に小さな背中を隠した。
九歳のカノンも後を追おうとする。現在のカノンは止めかけた手を下ろし、老人の布を見た。
少年の道は時計塔の裏へ、少女の道は街外れへ伸びている。二本の線は、途中で交わっていなかった。
「……アリア、戻ってくるんだ」
現在のアリアがつぶやいた。
幼い彼女は先に行けと言われたのに、少年を置いて進むことができず、一度引き返そうとした。あの断片的な記憶の続きが、今、目の前で起ころうとしている。
老人は布を握りしめた。
「だが、戻っても同じ場所には出られない」
白い通路の角の向こうで、小さな足音が止まった。
ほとんど同時に、別の道の奥で石の扉が閉まる音がした。
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