第十四話 銀の花の行方
幼いアリアが、白い通路の曲がり角で足を止めた。
両手で握った銀時計の針が、ゆっくりと逆へ動いている。壁には少女の背丈より少し高いところに、銀色の花が一輪描かれていた。五枚の花弁は、彼女が髪につけている飾りとよく似ている。
「こっちで合ってる?」
塔の方へ振り向いたが、返事はなかった。さっきまで先を歩いていた黒衣のカノンも、角を曲がった途端に見えなくなっていた。
現在のアリアが駆け寄ろうとすると、年老いたエドガーが腕を伸ばした。
「声は届く。だが、手を引いて別の出口へ連れていくことはできない」
「……分かってる」
返事をしながらも、アリアは動けなかった。八歳の自分が、覚えていたよりずっと小さく見える。あのとき通った道が、こんなにも長く、心細い場所だったなんて思わなかった。
カノンは彼女の隣に立った。幼い二人を同じ出口へ連れていけないことは、もう分かっている。それでも、道の先で何が起こるのか、見届けずにはいられなかった。
「アリア、時計を見て」
現在のアリアが呼びかけると、少女が振り向いた。年上の自分と目が合い、少し驚いたあと、時計を持ち上げる。
「針が止まっちゃった」
「だったら、慌てて進まないで。足元もよく見て」
少女は頷いた。
通路の右側が、薄い灰色に染まり始めた。白い壁の向こうに木々の影が浮かび、葉の触れ合う音が聞こえてくる。街に吹いていた乾いた風とは違う、土と草の匂いがした。
「森だ……」
カノンは目を凝らした。道の傾きも、木々の並び方も見覚えがある。八年前の森ではない。つい最近、牙狼に襲われたあの北の森によく似ていた。
幼いアリアは出口の手前まで進み、振り返った。
「カノンは?」
白い道には、九歳の少年の姿がない。
「先に行ってって言ったのに……」
少女は塔の方へ戻ろうとした。狭い曲がり角で振り向いた拍子に、髪の銀の花が石壁にぶつかる。小さな音がして、留め具が外れた。
「あっ!」
髪飾りが足元を跳ねた。花弁の先が石の角をかすめ、そのまま右側の出口へ滑っていく。
アリアが手を伸ばしたときには、銀の花は白い境目を越えていた。向こう側の落ち葉に受け止められ、草の間で小さく光る。
少女は追いかけようとしたが、手の中の時計が激しく震えた。足元の白い線も揺れている。思わず一歩後ずさり、髪に手をやった。
カノンは出口の向こうを見つめた。
あの斜面には覚えがある。牙狼が逃げていったあと、剣を収めた場所だ。草の間に落ちた銀の花を見つけたときのことまで、はっきりと思い出した。
その髪飾りが、今、目の前で落ちていった。
森の地面は通路より低く、銀の花は湿った土に触れず、重なった葉の上に載っていた。あの日は前夜に雨が降ったのに、拾い上げた髪飾りにはほとんど泥がついていなかった。その理由が、ようやく分かった気がした。
あの日、髪飾りを拾い、アリアへ返した。今も彼女は同じ花を髪につけている。目の前の少女が失ったものが、八年を隔てて自分の手に渡ったのだ。
カノンは無意識に、アリアの髪へ目を向けた。飾りはそこにある。同じ品が、違う時刻を通ってこの場所に重なっていた。
「カノン」
アリアが彼の袖をつまんだ。
「……あれ、私の髪飾りだよね」
「ああ。俺が森で拾ったのは、あれだ」
「八年も、あそこに落ちてたの?」
「違うと思う。道の向こうは、俺が拾った日の森につながってる」
彼はもう一度、葉の上に残る銀の光を見た。八年間、雨や風にさらされていたわけではない。あの日の森に、つい今しがた落ちたのだろう。
幼いアリアは髪を押さえたまま、唇を噛んでいた。いつもそこにあった花がなくなっただけで、自分の帰る場所まで失われたように感じているのかもしれない。
「……戻ろう」
少女はそう言って踵を返した。九歳のカノンが迎えに来ると、まだ信じている。
現在のアリアが声をかけようとしたとき、曲がり角の陰から黒衣のカノンが現れた。
「そっちは、もうすぐ閉じる」
「でも、カノンがまだ来てない」
「俺が探す。時計を貸してくれ」
男は少女の前にしゃがみ、差し出された銀時計を受け取った。蓋を閉じる乾いた音が、白い通路に響く。
「迎えに来るって言ったんだよ」
「ああ。聞いてた」
「あなたもカノンなんでしょ。だったら、連れてきてよ」
男は返す言葉を探すように、時計を握り直した。目の前の少女が何を待っているのか、誰より分かっているはずだった。
「……必ず会える」
「いつ?」
黒衣のカノンは答えなかった。
幼いアリアの目に涙が浮かぶ。けれど、泣き出す代わりに男の手を振り払い、通路の奥へ駆けていった。黒衣のカノンもすぐに後を追う。
現在のアリアは、遠ざかる足音を聞いていた。呼び止めても、八歳の自分が欲しい答えを渡せるわけではない。カノンも何も言えず、彼女の隣に立っていた。
やがてアリアは髪飾りを外した。掌で裏返し、花弁の端に指を滑らせる。さっき石壁に当たったところには、細い傷が残っていた。
「本当に、ここから来たんだね」
カノンは頷いた。自分が森で拾ったものが、今、彼女の手の中にある。見慣れた小さな花が、これほど遠い道を通ってきたとは思わなかった。
「……あの子、私のこと覚えてるかな」
「覚えてると思う。塔でも会ってるし、声も聞いた」
「そうじゃなくて……一人で歩いても、ずっと一人のままじゃないってこと」
カノンはアリアの横顔を見た。少女の小さな背中を見送ったばかりなのに、目の前の彼女はもう十六歳だ。その間に何があったのか、まだ知らないことも多い。
「少なくとも、今は一人じゃない」
「うん」
アリアは銀の花を髪へ戻した。留め具を確かめる指先は、まだ少し震えていた。
年老いたエドガーは青い布を広げ、懐から針を取り出した。髪飾りが消えた境目の位置に、糸で短い印を縫い足していく。
「少女の出口は、右の森につながっている。少年が入った道は反対側だ」
老人が左の通路を指したとき、向こうから走る足音が聞こえた。
「アリア!」
九歳のカノンだった。
少年は角を曲がり、立ち止まった。右の道にアリアの姿はない。壁へ向かってもう一度名を呼ぶが、返事は戻ってこなかった。
「先に行ったのか……?」
約束どおり追いかければ会えるはずだった。ところが、二つの出口は途中で重ならない。少年にはそれが分からず、時計の針を確かめながら道の奥へ急いだ。
「危ない!」
カノンの声が届くより早く、少年の足元で石段の端が崩れた。
踏み外した少年は片膝をつき、石の角に右膝を擦りつけた。ズボンの布が裂け、血がにじむ。それでも、痛がっている暇はないとばかりに立ち上がった。
「アリア、どこだよ……!」
白い通路が狭まり、背後で石の扉が閉じる音がした。少年が前へ走ると、道の先に時計塔の裏口が現れた。
ただし、そこに見える街の様子は、つい先ほどとは違っている。
年老いたエドガーが布を確かめた。
「十数分ほど前につながった。道が一度、戻る形になっている」
現在のカノンは息をのんだ。九歳の少年が通ろうとしているのは、別の場所だけではない。自分たちが、少し前に立っていた時刻だ。
出口の手前で、少年が足を止めた。
壁際に薄い銀板が落ちていた。時計塔の外壁から剥がれたものらしく、欠けた縁には文字が刻まれている。先ほど階段で見つけた銀板と、よく似た材質だった。
「オルフェに見せなきゃ」
少年が拾い上げた瞬間、現在のカノンは銀板の欠けた縁に目を奪われた。十五歳の冬、父の書庫で触れた古い部品。あれと同じ形ではないか。
「それ、どこにあった?」
思わず声をかけた。白い通路の出口にはまだ薄い光の境目があり、街路からこちら側は見えにくい。少年は驚いて顔を上げた。
「……お前も、俺?」
カノンは一瞬答えに迷った。少し前、二人の九歳の自分が向かい合った光景を思い出す。今目の前にいる少年は、そのうち膝に傷のあった方だ。
「そうだ」
「アリアは? あっちにいた?」
「ああ。別の道を通ってる。無事だ」
少年は大きく息を吐いた。痛めた膝をかばいながら、握っていた銀板を差し出す。
「じゃあ、これ持ってて。俺、アリアを探さなきゃ」
受け取った金属は冷たかった。だが、指が刻まれた文字に触れた途端、視界に別の光が差し込む。
夜の道路を、明るい車が走っていた。高い建物の窓、掌に収まる画面。そこに並んだ文字は見覚えがあるのに、誰が見ている景色なのか分からなかった。
カノンは手を離した。白い通路の冷気が戻ってくる。
「……日本だ」
少年が首を傾げる。
「何それ」
「俺にも、まだよく分からない」
少年は不思議そうな顔をしたが、銀時計を握り直し、裏口へ向かった。カノンのそばを離れる前に、一度だけ振り向く。
「アリア、ほんとに無事なんだな?」
「うん。必ず、もう一度会える」
答えると、少年はようやく少し笑った。
そして石段を上がり、時計塔の外へ出ていく。
間もなく、その先にもう一人の九歳の少年が現れた。こちらの膝には傷がない。二人が顔を見合わせ、驚きに声を上げる。
カノンは思い出した。少し前、自分が時計塔で見た、あの場面だ。
あのとき先に現れた少年は、こうしてアリアを捜して戻ってきたのだ。傷の理由も、二人が同じ場所に立っていた理由も、ようやくつながった。
少年たちの声が遠ざかる前に、年老いたエドガーがカノンへ手を差し出した。
「その板は、一度預かろう」
カノンは銀板を見下ろした。日本の景色に触れたのは、これが初めてではない。
「十五歳のとき、父の書庫でこれを見たんだ。触れてから、あの場所の夢を見るようになった」
「……覚えていたのか」
「今、形を見て思い出した」
老人は銀板を布で包み、自分の荷物に収めた。
どうして八百年前の街にある部品が、二年前の父の書庫にあったのか。誰がそこまで運ぶのか。分からないことは残ったままだ。
ただ、銀板に触れて以来、カノンが日本の景色を見るようになったことだけは確かだった。
現在のオルフェが通路の入口から呼んだ。
「戻る道を確かめた。長くは開いていられない。そろそろ街へ戻ろう」
カノンは頷き、アリアの隣へ戻った。
幼いアリアが進んだのは森へ続く道。九歳の自分が選んだのは、時計塔へ戻る道。二人は互いを捜しながら、別々の出口へ向かった。
けれど今、アリアはカノンの隣にいる。銀の花も、彼女の髪に戻っていた。
「行こう」
アリアが髪飾りに触れ、小さく頷く。
八年前に交わした約束が、どんな道を通ってここへつながったのか。今度こそ、最後まで見届けるつもりだった。
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