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第十五話 俺の記憶じゃない

 時計塔へ戻ると、年老いたエドガーが青い布を広げ、床に膝をついていた。


 布には白い道が二本、途中から別々の方向へ縫い分けられている。現在のエドガーが持つ布には、まだない線だ。老人はその先を指で押さえ、カノンたちを見上げた。


「少女は森の側へ抜けた。少年は塔へ戻った。行き先は違うが、二人とも道を抜けられる」


 現在のアリアが、ゆっくりと息を吐いた。


 八歳の自分が泣きそうな顔でカノンを捜していた光景は、まだ目の奥に残っている。無事に帰れたと聞いても、幼い自分を置いてきたような心細さは消えない。それでも、彼女が十六歳になって今ここにいることは、誰よりアリア自身が知っていた。


 老人の傍らには、小さな包みがあった。九歳のカノンから預かり、先ほど自分も触れた銀板だ。包みの端から覗く金属には、アステリアの工房で見たものとは違う文字が刻まれている。


「十五歳のとき、父の書庫でこの板に触れたんです」


 年老いたエドガーは包みを手に取ったが、カノンへは渡さなかった。


「そのとき、何が見えた?」


「書庫の棚に、古い部品が置いてあって……何だろうと思って手に取ったら、知らない街が見えました。大勢の人が行き交う駅や、電車、光る画面みたいなものも」


 話しながら、カノンはあの日の冷たい金属の感触を思い出した。握った覚えのないものを、ずっと使っていた気がする。そんな妙な懐かしさがあった。


「最初は、自分が昔そこで暮らしていたんだと思ったんです」


「場所の名は?」


「日本。階段で銀板に触れたときに見たのも、同じ場所だと思います。でも、どうしてその名を知っているのか……」


 アリアは黙って聞いていた。日本という名前は、塔の階段で初めて聞いた。けれど駅や電車という言葉も、二年前から彼が一人で見てきた景色のことも、詳しく聞くのは今が初めてだった。


 現在のエドガーが懐から手帳を取り出した。筆記具を構えかけて、カノンの顔を見る。


「その街に、お前自身はいたのか?」


 カノンは答えに詰まった。


 教室の窓、駅の床、夜の店先。誰かと話したような記憶もある。なのに、その相手の声ばかりが耳に残り、そこに立っていたはずの自分の顔を一度も見たことがない。


「……分かりません。俺が見ているというより、誰かの目を借りているような」


 口にした途端、指先が冷たくなった。


 二年もの間、自分の中に突然現れた景色を、前の人生の記憶かもしれないと考えていた。そうでも思わなければ、知らない場所の言葉が分かり、使ったことのない道具の扱い方まで知っている理由を説明できなかったからだ。


 年老いたエドガーが、包みを少し開いた。


「私はこの板を長く調べた。塔の壁に取り付けられていたものと、材質がよく似ている」


「それじゃ、日本から来たんですか?」


「まだ分からん。見えた景色が日本だとしても、この板までそこで作られたとは限らない」


 カノンは頷いた。森の髪飾りも、触れれば別の時刻の光景を見せた。銀板に映った景色が、板そのものの来歴を示しているとは言い切れない。


 老人が包みを傾けたとき、視界の端にまた別の光が差し込んだ。


 雨の夜だった。濡れた道路を車が走り、誰かの手元で小さな画面が明るくなる。画面には文字が何行も並んでいた。読もうとした瞬間、白い光が重なり、言葉の形だけが消えてしまう。


 見えていたのは誰の手だろう。


 答えを探す前に、十五歳の冬の記憶がよみがえった。


 あの夜、夕食の皿を見下ろしていたはずなのに、目の前に知らない部屋の窓が重なった。窓の外には雨が降り、遠くで車の音がしていた。母が何か尋ねている。声は聞こえるのに、母の顔だけが遠い。


 カノンは食欲がないと答えて席を立ち、洗面台の水で顔を冷やした。指に触れる水はこの世界のものなのに、目を閉じれば、さっきまで見ていた別の部屋が戻ってくる。


 父に話せば、書庫の品を調べ始めるだろう。母ならまず熱を心配する。ディーンは剣の稽古を休めと言うに違いない。皆が気遣ってくれるのは分かっていた。それでも、何が起きているのか自分にも説明できないうちは、家族を不安にさせたくなかった。


 ハロルドには、異国の夢を見るとだけ話した。日本という名前も、駅や電車のことも、書き留めては消した。誰かに見られたとき、自分が何者なのか問い詰められるのが怖かったのかもしれない。


「カノン?」


 アリアの声に、目の前の景色が時計塔へ戻った。古い石床の冷たさが靴底に伝わる。


「……大丈夫。また、少し見えただけだ」


 今見えた手には覚えがない。それなのに、その手の持ち主を知っている気もする。逆に、向こうの誰かが自分を知っているのではないかという妙な感覚もあった。


 どちらも、確かめようがなかった。


「銀板に触れてから、ずっと日本を知ってると思ってた。でも……あれは、俺の記憶じゃないのかもしれない」


 言葉にすると、思った以上に怖かった。


 二年間、自分の過去かもしれないと抱えてきたものが、知らない誰かのものだったら。いったい自分は、何を思い出そうとしていたのだろう。


 アリアは銀板から目を離し、カノンを見た。


「それが分かったら、カノンは変わるの?」


「……分からない。俺の中にあるのに、俺が生きたことじゃないなら」


「九歳のあなたが何をしたかも、今まで覚えてなかったでしょう」


「ああ」


「でも、あの子はちゃんとここにいた。街を助けて、私を捜してた。今のあなたも、ここにいるよ」


 カノンが何も答えずにいると、アリアは少し困ったように笑った。


「知らなかったことが増えたからって、今まで知ってたカノンがいなくなるわけじゃないと思う」


 カノンは胸に残っていた息をゆっくり吐いた。誰かの記憶かもしれない。それでも、九歳の自分がアリアを捜したことも、今日この街で人を助けたことも変わらない。


 自分の過去を、銀板一枚で決めつける必要はなかった。


 そのとき、鐘楼の扉が開いた。


 入ってきた黒衣のカノンは、外套の肩を裂き、片手に血をつけていた。八歳のアリアの姿はない。現在のアリアが真っ先に近づいた。


「あの子は? 森へ出られたの?」


「ああ。向こうで、別の人に預けた」


「誰に?」


 男は答えず、十七歳のカノンへ視線を移した。何があったのか、今は話すつもりがないらしい。


 現在のカノンはその手の血が気になったが、尋ねるより先に年老いたエドガーが銀板を包み直した。


「これを、十五歳のカノンが触れた書庫へ届けなければならない」


 黒衣のカノンが手を差し出す。現在のカノンは、思わず包みを見た。


「また俺に触らせるために?」


 老人はすぐには答えなかった。


「触れずに済めばよかったと、今でも思う。だが、十五歳のお前がこの板を見たことは、もう起きている」


 その声には悔しさがあった。誰かを苦しめるために、わざわざ過去へ品物を運ぶわけではない。それでも、あの冬に書庫の棚に板があった理由を、今ここで知ってしまった。


 老人が包みを渡すと、黒衣のカノンは結び目を確かめ、外套の内側へしまった。


「俺が持っていく。十五歳の俺が触れたあとも、書庫に残しておく」


「いつ行くんだ?」


「その日付へつながる道が開いたときだ。行きたいだけじゃ、扉は開かない」


 男は手元の銀時計を開いた。針はゆっくりと揺れ、今つながっている出口を指している。


 蓋の縁に小さな傷があった。黒衣のカノンはそこを親指でなぞり、若い自分に尋ねた。


「十五歳のとき、声を聞かなかったか?」


「声?」


「銀板に触れたときだ」


 カノンは記憶を探った。書庫には誰もいなかった。それなのに金属を握った瞬間、ひどく遠いところから誰かに呼び止められた気がする。


「……『離せ』って。そう聞こえたと思う」


「そうか」


 黒衣の男は、ほんの少しだけ口元を緩めた。それが安堵なのか、別の何かなのか、十七歳のカノンには分からなかった。


 塔の外では、現在のオルフェが帰り道の印を調べていた。石に浮かぶ白い線が、光っては消える。その間隔が次第に短くなっている。


「そろそろ戻った方がいい。閉じてしまえば、次にいつつながるか分からん」


 現在のエドガーは自分の青い布を畳み、アリアに預けた。年老いたエドガーの布は、まだ老人の手元にある。よく似た二枚が同じ場所に並ぶ光景にも、もう驚かなくなっていた。


 そこへ、若いオルフェが戻ってきた。崩れた通りで人を集め、安全な路地へ誘導してきたらしい。袖は汚れ、腕には濡れた図面を抱えている。


 柱の陰にいた現在のオルフェが動いたとき、若い男の目がその顔を捉えた。


「……お前、誰だ?」


 現在のオルフェは、ゆっくり外套の襟を下げた。隠している時間はもうない。


「今夜のことを覚えている、お前だ」


 若い男が息をのむ。目の前の相手の顔を、信じられないというように見つめていた。


「水路の記録は捨てるな。余った紙も、測り損ねた線もだ」


「待て、それはどういう――」


「話はあとにしろ」


 年老いたエドガーが二人の間へ入った。


「彼らの帰る道が閉じる」


 現在のオルフェは若い自分の抱えた図面へ目を落とした。聞きたいことも、伝えたいことも山ほどあるだろう。だが今は何も付け足さず、アリアたちを出口へ促した。


 年老いたエドガーが、自分の古びた青い布を畳んだ。


「これを持っていけ。私が書き足した道が、きっと必要になる」


 差し出された布を、現在のカノンが受け取る。アリアの腕には現在のエドガーの布がある。二枚の地図は、こうして同じ時刻へ運ばれることになった。


「あなたは、どうするんですか?」


 現在のエドガーが尋ねた。


「この夜のあとを調べる。西にも、まだ確かめるべき場所がある」


 老人は答えてから、現在の自分をまっすぐ見た。


「知らないまま決めるな。あの子に話せることは、話してやれ」


 現在のエドガーは、アリアを一度見てから頷いた。


「……分かった」


 いつか自分も目の前の老人になる。そのとき、何を悔やむことになるのかは分からない。だが、帰ったあとに孫と話す時間なら、まだある。


 黒衣のカノンは塔に残るという。銀板を運ぶべき日付へ続く道は、まだ開いていない。


 白い出口の手前で、彼は十七歳の自分を呼び止めた。


「十五歳の俺が、何を怖がっていたか……今は少し分かる」


「俺も、今日やっと分かったことがあるよ」


 二人はそれ以上、何も言わなかった。顔も声も同じはずなのに、背負っている時間は違う。聞けば答えてもらえそうなことほど、カノンには尋ねにくかった。


 彼はアリアの手を取り、白い道へ向かった。


 先にアリアが入り、現在のエドガーとオルフェが続く。カノンは最後に振り返った。崩れかけた街の灯りの前に、年老いたエドガーと黒衣の自分が立っている。


 あの二人がこれからどれほど長い道を歩くのか、十七歳のカノンにはまだ分からなかった。


 足を踏み出すと、白い光が視界を覆った。


 次に靴底が石に触れたとき、そこは見慣れた時計塔の地下だった。


「カノン様!」


 扉のそばにはハロルドと兵たちが待っていた。こちらを出てから、まだ一晩もたっていないらしい。


 ハロルドは四人を順に見渡したあと、カノンの袖についた白い粉に目を留めた。出かけるときにはなかった汚れだ。兵たちは扉の留め金を確かめ、時計塔の針がいつもの動きを取り戻したと報告している。


「無事だったんですね」


「……俺たちは」


 カノンはそこで言葉を切った。


 白い街の窓から手を伸ばしていた人を思い出した。助け出せなかった職人も、消えた家もある。今ここへ四人で帰れたからといって、あの夜のすべてが無事に終わったわけではない。


「助けられなかった人もいた。でも、街が全部消えるのは止められた」


 ハロルドはすぐに慰めの言葉をかけなかった。頷いて、続きを待ってくれた。カノンは知っていることから一つずつ話した。何百年も前の街が別の日付につながっていることも、そこで九歳の自分を見たことも。


 地上へ出ると、ディーンが寄こした兵がまだ待っていた。帰りが遅れた理由を兄に報告してほしいという。カノンは自分の口から話すと伝え、屋敷へ戻ったら会うと約束した。


 八年前のことを、少しずつ言葉にできそうな気がしていた。


 その前に、確かめるべきものがある。


 アリアは現在のエドガーから預かった青い布を広げ、汚れや破れがないことを確かめた。カノンも、年老いたエドガーから受け取った布を床に広げる。


 二枚には同じ十二の印と、中央の街が縫われていた。だが古びた布には、そこから外へ延びる細い線が一本増えている。


 線の先には、まだ何も縫われていない場所があった。


「……ここを探すんだな」


 カノンが指を置くと、アリアも隣にしゃがんだ。


「一人で行くつもりなら、先に言ってね」


「言うよ。今度は、ちゃんと」


 アリアはその答えを聞いて、ようやく小さく笑った。青い布を畳み、現在のエドガーへ返す。


 八年前、幼い二人は別々の出口へ向かった。今は同じ地図をのぞき込み、まだ描かれていない道を見ている。


 次の道では、行き先も帰り方も、二人で確かめよう。


挿絵(By みてみん)

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