第十六話 地図にない場所
時計塔から戻った翌朝、カノンは机の上に二枚の青い布を広げた。
一枚は現在のエドガーが使っている地図。もう一枚は、八百年前の街で年老いたエドガーから託された、色の褪せた布だ。
十二の印は、二枚ともほぼ同じ位置にあった。ただ、中央の街の描かれ方は違う。現在のエドガーの布には細い糸で街の形が示されているだけだが、古い布には、街に現れた光の線が幾重にも縫い足されていた。年月をかけて新たな線を記録するうちに、糸が重なり、厚みを増したのだろう。
カノンは、古い布の端に縫われた銀の花へ目を向けた。アリアが髪につけている飾りと、花弁の数が同じだった。
「この結び方、見たことある」
アリアが古い布を裏返し、花弁の根元を指した。
「小さいころ、おじいちゃんの真似をして縫ったの。糸を裏で二回結ぶから、表が少し膨らむんだよ」
現在のエドガーの布にも、端に小さな花が一つ縫われていた。アリアが裏を見せると、確かに同じところで糸が二重に結ばれている。古い布の花はそれより大きく、花弁の曲線も滑らかだった。
「そっちの花も、私が縫ったのかな」
「そうかもしれないな」
カノンが答えると、エドガーは口元を緩めた。だが古い布の花を見るうちに、少し寂しそうな顔になった。
「私がいない間も、針を持っていたんだな」
「うん。おじいちゃんが描いた道は勝手に変えたくなかったから、花だけ縫ったの」
「そうか。……次に新しい道を見つけたら、お前にも縫ってもらおう」
「いいよ。今度は一緒にね」
そのやり取りを聞きながら、カノンは古い布の細い線を目で追った。中央から外へ、十二の道を避けるように一本の線が伸びている。その終わりには星に似た印があり、真ん中だけが糸で黒く塗り潰されていた。
「ここは、どこなんだろう」
「少なくとも、私の知る地図にはない」
エドガーは現在の布と見比べた。
「あの街で会った年老いた私は、何年もかけてこの線を見つけたんだろう。だが今の私には、行き方も場所の名も分からない」
カノンが古い布を持ち上げたとき、裏の縁に滲んだ文字があるのを見つけた。エドガーは窓際へ運び、明るい方へかざす。
「『中央ではない。時計は反応せず。帰る道……なし』」
最後の文字は擦り切れていた。別の端にも短い書き込みがある。
「『空はある。星だけがない』……」
アリアが二枚の布を見比べた。
「星のない場所って、そこから呼ぶようになったのかな」
「分からん。年老いた私が実際に見た空なのか、何かの目印なのかもな」
エドガーは布を畳まず、今読んだ文字を書き留めた。自分の筆跡であっても、これから書くことになる言葉を、もう理解したつもりにはなれないのだろう。
古い布の折り目から、薄い紙片が滑り落ちた。
エドガーが拾い上げる。小さな紙の両面には細かな線が描かれ、その脇に短い文字が残っていた。
「これも私の字だ」
十二の印のうち、最も外側の線。その横に、こう記されている。
『銀の花を近づけたときだけ、線が現れる』
アリアは髪から銀の花を外した。
「ちょっと、試してみるね」
古い布の星の印へ近づけると、中央からそこへ伸びる糸が、指先に分かるほど温かくなった。青い石も淡く光る。カノンは銀時計を開いたが、針は動かない。
「反応してる……これで向こうへ行けるのかな」
「まだ分からんぞ」
背後から声がした。部屋へ入ってきたオルフェの袖には、機械油がついている。時計塔で水路を調べてから来たらしい。
「光ったことと、人が通れることは別だ。アステリアでは、道に流れ込む力が家ごと人を消した。入口も帰り道も分からないまま、試すものではない」
カノンが髪飾りと布の間へ手を差し入れると、温かさが弱まった。二つを離すと、星の印から熱はすっかり引いた。
「でも、どこを調べればいいかは分かりそうだ」
「それなら使える手がかりだ。まずは水路の記録と照らし合わせよう」
オルフェは紙片を受け取り、外側の印の横へ鉛筆で細い目盛りを足した。
「この刻みには覚えがある。昔、私が保守用の水路に付けた印だ。職人しか知らない通路が、まだ残っているかもしれん」
エドガーが身を乗り出す。
「記録は?」
「持ってきた。ただし、読むのは朝飯を食ってからだ。お前たち、顔色が悪い」
カノンは言い返しかけたが、昨夜ほとんど眠っていないのは事実だった。アリアも目の下に薄い影がある。エドガーが黙って布を畳み始めたので、カノンも銀時計の蓋を閉じた。
食堂には、焼きたてのパンと根菜の入った温かい汁が用意されていた。
皿を受け取ったとき、母がカノンの袖を見て眉を上げた。白い粉がまだ残っている。八百年前の時計塔でついた汚れだ。
「時計塔に行くたび、服に何かつけて帰ってくるのね」
「ちゃんと気をつけてるんだけど」
「あなたの『ちゃんと』は、昔からあてにならないもの」
母はそう言いながら、彼の皿へパンをもう一切れ添えた。叱る声にはいつもの調子が戻っている。カノンは礼を言い、湯気の立つ汁を口に運んだ。
向かいの席では、アリアが食べることも忘れて古い布の花を眺めていた。エドガーが自分のパンを半分に割り、彼女の皿へ置く。
「冷めるぞ」
「……うん」
アリアはようやく顔を上げた。昨日は八歳の自分が泣きながら白い道を歩いていた。その翌朝、こうして祖父と食卓を囲んでいる。カノンにも、どちらが夢なのか分からなくなる瞬間があった。
食事を終えると、四人はエドガーの家へ向かった。
エドガーがいなかった一年の間に、庭の草はずいぶん伸びていた。書斎の戸だけはアリアが時折開けていたらしく、蝶番は軽く動いた。窓を開けると、乾いた紙と木の匂いが朝の空気に混じる。
アリアが机の下へしゃがみ、小さな引き出しの留め金を外した。
「そこまで知っているのか」
エドガーが呆れたように言う。
「昔、お菓子を隠してたでしょう」
「あれは保存食だ」
「干し葡萄はお菓子にもなるよ」
カノンが笑うと、エドガーは渋い顔のまま手帳を一冊取り出した。引き出しの奥には研究資料も入っているらしい。手帳の表紙には、銀の花の印が押されていた。
前半には、オルフェと調べた水路の記録が並んでいる。季節による水位の違い、星のない夜に時計の針がどう振れたか、十二の印と一致しない反応。エドガーの筆跡は、失踪直前の日付で途切れていた。
「ここは、私も覚えている」
エドガーは一年前の記録を指で押さえた。
『十二のいずれとも一致しない反応。銀の花を近づけたときのみ、中央の外側に線が見える』
「だから調べに出たんだ。すぐに戻るつもりだった」
その先は白紙だった。
アリアがゆっくりとページをめくる。帰ってこなかった一年は、祖父の手帳にも空白のまま残っている。彼女は何かを尋ねかけたが、次の紙に気づいて指を止めた。
挟まれていたのは、出発前に写した水路図だ。端が水でよれ、青い布と同じ順番で十二の印に番号が振られている。
オルフェが七番目の線を指した。
「ここは工房にいたころ、私が塞いだ入口だ。図面だけは残したが、今も使えるとは限らない」
「どうして塞いだの?」
アリアの問いに、オルフェは図面の隅を指で叩いた。
「誰かが通ったあと、近くの井戸の水が急に減った。人が出ていっても、道を支える力は残る。あれ以上流れ込ませたくなかったんだ」
カノンは水車小屋の床下で聞いた水音を思い出した。水が通った途端、閉じかけていた輪が持ち直した。井戸の水が消えたのなら、その水は見えない道へ流れ込んだのかもしれない。
「水が、別の線へ回った可能性もありますね」
「ある。だが確かめるまでは決めつけるな」
エドガーはその言葉を手帳へ書き、横に小さく『未確認』と添えた。
「年を取った私の記録を読んでいるだけでは足りないな。これから調べることは、私たち自身で確かめて残そう」
アリアは、その言葉を聞いて祖父を見た。次にどこへ行くかではなく、何を記録するかを先に決めてくれたことが、少し嬉しそうだった。
アリアは引き出しの奥から、もう一冊の帳面を取り出した。以前、カノンの父の資料室で見せてくれた帳面よりも古い。祖父が失踪してから、町の異変を記し始めた最初の一冊だった。
「これも見て。おじいちゃんがいなくなってから、私がつけてたの」
北門の井戸が空になった日。戻った水が妙に温かかった日。誰も触れていない鐘が短く震えた日。日付とともに、最初に異変に気づいた住人の名前まで書いてある。
「おじいちゃんの布に勝手に書き足していいか、分からなかったから」
エドガーは一枚ずつページをめくった。彼自身の調査では見落としていた井戸の記録もある。
「よく調べたな」
「分からないことばっかりだったけど、聞いて回れば何か見つかると思って」
「なら、その帳面にはお前の名前を書いておけ」
「私の?」
「人に尋ねて、確かめて、書き残したのはお前だろう。私の記録じゃない」
アリアは表紙を開き、少しためらってから自分の名を書いた。
カノンはその様子を見ていた。祖父を待つだけの一年だったわけではない。自分で町を歩き、住人の言葉を聞き、帰ってくる人のために手がかりを残していたのだ。
「北門の井戸、明日もう一度見に行きたい」
アリアが言うと、エドガーはすぐに頷かなかった。手帳に日付を書き、次に同行者と帰宅する時刻を記した。
「一人では行かないこと。それから、危なくなったら調査をやめる」
「分かった。住んでいる人にも先に話すね」
彼女は自分の字で、予定の横へ付け加えた。
しばらくしてアリアが、手帳から顔を上げた。
「おじいちゃん。また、あの道へ行くの?」
エドガーは古い布に目をやった。
「行くことになるだろう。だが、いつ、どこへ行くかを私一人では決めない」
「私も行くか、ここで待つか、決めていい?」
「もちろんだ。ただし危険は先に話す。知らないまま選ばせたりはしない」
祖父が答えると、アリアの肩から少し力が抜けた。エドガーも、自分がいない一年に彼女が何を考えていたのか、ようやく聞けたのかもしれない。
「……約束だよ」
「ああ。約束する」
カノンは窓の外へ目を向けた。いつか年老いたエドガーになるとしても、それを理由に今、黙って出ていく必要はない。昨夜の白い街で交わされた約束を思い出し、胸の奥が少し痛んだ。
そのとき、机の上で小さな音がした。
アリアが外して置いた銀の髪飾りが、木目に触れてかすかに揺れていた。窓から風が入ったのかと思ったが、彼女の両手は手帳の上にある。
青い石が光った。
「……触ってないよね?」
アリアが問いかける。誰も答える前に、古い布の銀糸の花も、内側から温まるように淡く輝いた。
「みんな、少し離れろ」
オルフェの声に、カノンたちは机から一歩退いた。エドガーだけが布の端を押さえ、変化を見守る。中央の印から塗り潰された星まで、細い光が一筋走った。
何かが聞こえた。
『カノン』
カノンは顔を上げた。耳元ではない。厚い壁の向こう、ずっと離れた廊下から呼ばれたような声だった。
隣のアリアが息をのむ。呼び声は、彼女によく似ていた。いや、聞き慣れたその声そのものに思えた。
「聞こえてる!」
カノンが返事をしても、すぐには応えがない。銀の花の光が揺れ、かすかな雑音の奥から、言葉がもう一度届いた。
『もし、聞こえているなら……』
続きは途切れた。カノンは思わず机へ近づいたが、オルフェが片手を上げて止める。光の走る先に何があるか、まだ誰にも分からない。
「アリア、どこにいる!」
現在のアリアはすぐ隣にいる。そのことが分かっているのに、呼ばずにはいられなかった。彼女も何も言わず、星の印を見つめている。
ひときわ大きな雑音がして、最後の言葉が届いた。
『まだ、来ないで』
布から熱が引き、銀の花の光が消えた。
「アリア!」
もう一度呼んでも、返事はなかった。窓から入る風が手帳のページを一枚めくる。さっきまでの声が嘘だったように、書斎は静かになった。
エドガーは布を畳まず、星から中央へ伸びる線を指で確かめた。
「危険だから来るなと言っているのか、それとも誰かを待っているのか……この声だけでは分からん」
カノンは机の上の髪飾りを見た。
「でも、あの先にいるんだろう。いつかのアリアが」
アリアは拾い上げた髪飾りを掌に載せた。青い石はもう光っていない。
「……私の声だったね」
「ああ」
「いつか私が、あそこから呼ぶのかな」
答えは出なかった。アリアは鏡も見ずに髪飾りを留め直す。いつもの仕草だったが、指はわずかに震えていた。
「そのときは、ちゃんと理由も伝えたい」
「俺も、理由を聞かずに走ったりしないよ」
カノンは古い布に目を落とした。行くなと告げられた場所が、地図の上にはある。けれど、そこへ続く道も、待ち受ける危険も分かっていない。焦って踏み込めば、探したい相手をかえって遠ざけるかもしれなかった。
エドガーは開いた手帳に、短い一行を加えた。
『声は、こちらへ届いた。こちらの返事が届いたかは不明。』
カノンはその文字を確かめ、足元へ視線を落とした。
道は、どこにも開いていない。
声だけが、先に届いた。
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