第十七話 まだ来ないで
書斎にあの声が届いた日の午後、アリアは何度も髪飾りに手を伸ばしていた。
鏡の前で銀の花を留め直し、廊下へ出てからも、指先で青い石の位置を確かめる。カノンの視線に気づくと、何でもないことのように手を下ろした。
「また落としたら、八年後に拾ってくれる?」
「今度は自分で拾ってくれ。あの森をもう一度探すのは勘弁だ」
「ふふ、冗談だよ」
笑ったものの、アリアの目はすぐ窓の外へ戻った。
朝、書斎に届いた「まだ、来ないで」という声。聞き慣れたアリアの声そのものだった。これから先、どこかで彼女がそう告げるのだとしたら、そこには何が待っているのだろう。カノンにも答えは分からない。
エドガーとオルフェは北門へ調査に出ていた。年老いたエドガーから託された布には、町の北側を横切る線がある。実際に道が現れていないか調べるというので、カノンとアリアは結果が出るまで屋敷で待つことになっていた。
カノンには、まだアリアに話していないことがあった。
水車小屋で出会った二十五歳の自分は、北門の線を調べろと告げていた。危険があると知りながら止められなかった、とも。
朝から北門へ行く支度だけはしていた。けれど、その言葉をどう伝えるか決められないまま、外套を掛け直しては時間を過ごしていた。危険を知らせようとすれば、きっと「行かないでくれ」と言ってしまう。何も隠さないと約束したばかりなのに。
「アリア、北門のことで――」
話しかけたところで、廊下を走る足音が近づいた。
午後の初め、門から伝令が駆け込んできたのだ。兵は扉の前で息を整える間も惜しみ、ディーンへ報告した。
「北門の石畳に光が出ています。門の近くへは、まだ住人を入れていません」
ディーンはすぐ外套を取った。森で負った左肩の傷は塞がりきっておらず、剣を振ることもできない。それでも、兵を指揮するために行くつもりらしい。
「兄さん、肩が」
「剣を抜きに行くんじゃない。人を下がらせて、話を聞くだけだ」
ディーンは弟の顔を見た。
「お前も来るんだろう?」
「ああ。アリアと一緒に」
言い終えてから、カノンは隣にいる彼女を見た。
「さっき、北門のことで話しかけたのは、八年後の俺が気をつけろと言っていたからなんだ。先に伝えるべきだった」
「……分かった。行って、ちゃんと確かめよう」
アリアはそう答え、自分で外套を羽織った。
北門では、石畳に白い筋が浮いていた。
町の中央から門の下を通り、外へ伸びている。昨夜見た古い青い布にも、同じ方向へ縫い足された線があった。ただ、石の表面に現れた光は細く、まだ人が通れるような入口には見えない。
カノンは銀時計を開いた。針は動かなかった。
「いつもの道なら、つながっている日付が出るはずだ」
オルフェは線のそばにしゃがみ、石の継ぎ目を確かめた。
「出口がまだできていないのか、時計では読めない場所へつながっているのか。どちらかは、まだ分からん」
エドガーは兵に門前を空けるよう頼んでいた。ディーンも近くの家々を回り、窓から様子を見ている住人に屋内へ戻るよう声をかける。
カノンは古い布と石畳を見比べた。
「今朝、書斎で声がしたときも、ここに反応はあったのかな」
「それを確かめるために来た。見てくれ」
エドガーが年老いた自分の布を広げ、塗り潰された星の印へ触れた。指先にかすかな熱が伝わり、中央から外へ縫い足された線が淡く光る。
アリアの髪飾りも、青い光を宿し始めた。
「私が離れたら、変わるかな?」
「試そう。ただし、無理はするな」
彼女が数歩下がると、髪飾りの光は弱まった。ところが石畳の線は消えず、かえって外へ向かって長く伸びた。
「……髪飾りだけが原因じゃない」
カノンが言うと、オルフェが頷いた。八百年前の時計塔で閉じたはずの外側の線が、この町の別の場所へつながっているのかもしれない。
そのとき、アリアが門番の詰所の向こうを指した。
「あの家まで伸びてる」
白い線は道沿いの家の敷居へ入り込み、壁際を這い上がっていた。以前、アリアが井戸の水位を尋ねたパン屋の家だ。二階の窓には、主人の妻と小さな子どもがいる。兵が呼びかけていたが、階段の下まで光が入り込み、二人は降りられずにいた。
「裏口へ回れ! 階段を使わせるな!」
ディーンが兵へ指示を飛ばす。
アリアは髪から銀の花を外し、布の星の印から離してみた。石畳の線が家の方へ伸びかける。彼女が髪飾りを持って門の中央へ寄ると、今度は敷居から白さが引いた。
代わりに、掌の青い石が熱くなった。
「ここなら、家から離れるみたい」
「アリア、近づきすぎるな」
エドガーが声を強める。
「どこへ力が移るのか、まだ分からん。家族が出たらすぐ下がれ」
「うん。出るまで、ここにいる」
アリアは唇を結び、髪飾りを持つ手を動かさなかった。熱さに眉をしかめても、二階の窓から目を離さない。
やがて裏口から兵の声がした。母親が子どもを抱いて出てくる。子どもは肩越しにアリアを見たが、母親に促され、兵と一緒に門から離れていった。
「出たぞ!」
合図を聞くなり、カノンはアリアのそばへ駆け寄った。
「もういい。下がろう」
アリアが手を下ろすと、石に浮いた線は家へ戻らず、門の影へ集まっていった。青い石の熱は、すぐには引かない。
「おじいちゃん、今の変化を書いておいて。花を離したときと、近づけたときで、線の向きが違った」
「ああ。お前の立っていた位置も残しておく」
エドガーが手帳へ書き込むのを見届け、アリアはようやく銀の花を髪へ留め直した。指先が少し赤くなっている。
「熱かっただろ」
「ちょっとだけね」
「『ちょっと』には見えなかったけど」
「でも、あの子は出られたよ」
カノンは言い返せなかった。その言葉を聞くと、危険だから離れろと命じるだけでは済まない気がした。
門から少し距離を取ったところで、彼はアリアの隣に立った。
「昨日、日本のことを話しただろ。まだ、伝えてなかったことがある」
「今、聞いてもいい?」
「ああ。今のうちに聞いてほしい」
カノンは十五歳の冬、父の書庫で銀板に触れたときのことを改めて話した。日本という名が自然に浮かんだこと。駅や電車の景色を自分の昔の暮らしだと思い込んでいたこと。そして、そこにいたはずの自分の顔だけが、どんなに探しても思い出せないこと。
「昨日は、誰かの記憶かもしれないって言った。でも、どうしてそれが俺に見えるのかは分からない。……黙ってたのは、怖かったからだ」
アリアは先を急がせずに聞いていた。
「今も怖い?」
「少し。自分の過去だと思ってたものが、違うかもしれないから」
「だったら、分からないままでも話してよ。私も、一緒に考えられるから」
カノンが頷こうとしたとき、石畳の方から乾いた音がした。
白い線の縁に、薄い銀色の板が落ちていた。いつ現れたのか分からない。十五歳のとき書庫で触れた部品と、よく似た色をしている。
兵の一人が拾おうとすると、オルフェが手を伸ばして止めた。
「素手では触るな。何が起きるか分からん」
布を重ねて板を拾い、刻まれた細い線を調べる。文字なのか模様なのか、カノンには判別できなかった。
だが、目を凝らした瞬間、北門の景色に別のものが重なった。
机の上に光る画面がある。その中に、何行もの文字が並んでいた。誰かの指が画面の途中で止まる。
カノンと、アリア。
そこに二人の名前があると、なぜか分かった。けれど文字を読もうとすると、画面が遠ざかっていく。
「……カノン?」
アリアが肩に触れた。カノンは視線を上げ、石畳の感触を確かめる。銀板を見ただけなのに、あの景色が入り込んできた。
「向こうの誰かが、俺たちの名前を見てた」
「名前を? 何に書いてあったの?」
「光る画面だ。俺にも読めそうだったのに……それ以上は分からなかった」
アリアは銀板へ目を向けたが、カノンを急かさなかった。オルフェも余計な断定はせず、金属片を布で包んだ。
そのとき、足元から鈍い音がした。
石畳の白い線が、門の影に向かって太くなっていく。先ほどまで糸ほどの幅しかなかった光が、石の継ぎ目を越え、足元を横切った。
「全員、門から離れろ!」
ディーンの声に、兵たちが住人を下がらせた。カノンもアリアの手を取り、後退する。
「開くぞ!」
オルフェが叫んだ。
白い線の中央が黒く染まり、空中に薄い面が立ち上がった。昼の光が当たっているのに、そこだけが星のない夜のように暗い。向こう側の景色は見えない。
アリアが立ち止まった。髪飾りが髪を引くほど激しく震えている。
「おじいちゃん……あの向こうに」
エドガーは古い布の星の印を見た。
「年老いた私がいるかもしれん。だが、今は入ってはいけない」
「分かってる。近づかない」
アリアは自分から一歩下がった。その腕をカノンが支え、二人でさらに距離を取ろうとする。
不意に、足元から風が吹き上がった。
黒い面がこちらへ膨らみ、門の砂を巻き上げる。オルフェは水路の流れを切り替えるレバーへ走った。エドガーは古い布を畳み、胸に抱え込む。銀糸の花だけが折り目からのぞいていた。
アリアは髪飾りを外した。石が熱を持ち、指先が痛い。足元へ置こうと身を屈めた、そのときだった。
『まだ、来ないで』
書斎で聞いた声が、今度ははっきり響いた。
カノンにも、エドガーにも聞こえた。今ここにいるアリアと同じ声が、黒い向こう側から呼びかけている。
「行かない! だから、閉じて!」
アリアが叫ぶ。答えの代わりに風が強まった。
少女の靴が石畳を滑り、体が黒い面へ引き寄せられる。カノンがとっさに手首をつかんだ。ディーンは傷のない方の腕でカノンの腰帯をつかみ、後ろへ引く。
「踏ん張れ! 石の割れ目に踵を入れろ!」
カノンは足を開いて体を低くした。エドガーも駆け寄り、アリアの肩を支える。三人が引き戻そうとしても、彼女の体は少しずつ前へ滑った。
水路の方から、重い金属音がした。オルフェがレバーを動かしたのだ。白い線の片側が暗くなる。だが黒い面は消えず、細長く形を変えながら脈打っている。
「……誰か、いる」
アリアは面の奥を見つめた。
「見るな、アリア!」
「おじいちゃんじゃない。誰かが……倒れてる」
カノンには暗闇しか見えなかった。アリアは前へ進もうとしているわけではない。それでも視線を離せず、風に引かれながら奥の人影を追っている。
『カノン、まだ駄目』
再び声がした。聞き慣れた響きなのに、最後の言葉にはひどく疲れた気配があった。
「何が駄目なんだ! そこに誰がいる!」
カノンの問いに返事はなかった。銀時計を開いても針は止まったままだ。いつ、どこへつながっているのか、何も教えてくれない。
アリアが髪飾りを握り直した。青い石は、指の間から光が漏れるほど強く輝いている。
「これを、離せば……」
言い終わる前に、黒い面から細い光が伸びた。
光はアリアの手の銀の花へつながり、さらにエドガーが抱える布の銀糸の花へ走る。アリアは慌てて手を開いたが、髪飾りは落ちなかった。指先から少し浮き、見えない糸で引かれるように揺れている。
「カノン……」
手首を握っていた感触が、急に薄くなった。
布越しに触れているようだった。カノンが必死に握り直しても、アリアの腕の輪郭が指の間から遠ざかる。
「アリア!」
彼女はカノンを見た。目に涙が浮かんでいる。怖くないはずがない。それでも、空いた方の手を彼の胸へ伸ばし、押し返した。
「離して」
「嫌だ。絶対、離さない」
「……一緒に来たら、戻れなくなる」
今朝まで隣にいたアリアの声だった。
カノンは何か言おうとした。彼女がどうしてそれを知っているのか、確かめたかった。けれど指先がもう触れない。ディーンが腰帯を引く力と、エドガーの呼ぶ声だけが、はっきり分かった。
黒い面が急速に狭まった。アリアの姿も、その暗さの中へ薄れていく。
最後に、銀の花が彼女の掌へ戻るのが見えた。
風が止んだ。
門の下には石畳だけが残った。白い線も、黒い面も、消えている。
アリアはいなかった。
カノンは手を伸ばした姿勢のまま立ち尽くした。ついさっきまで、確かにその手首をつかんでいた。掌に残る温もりが、少しずつ失われていく。
エドガーが石の継ぎ目へ膝をつき、オルフェは水路の蓋を開け直した。ディーンは住人が戻ってこないよう兵に指示を出し、弟のそばへ戻る。
「時計を見せろ」
オルフェに言われ、カノンは銀時計の蓋を開いた。何かの拍子に行き先が刻まれていないか、何度も針を確かめる。
「……動いてない」
「日付を拾えていないんだ」
エドガーの声は、かすかに震えていた。
「今朝、声の届いた場所かもしれない。だが、この道を開く方法はまだ……」
そこで言葉が途切れた。カノンは北門の向こうを見た。住人が避難した道には、昼の光が差している。さっきまであった闇の痕跡など、どこにもない。
朝、アリアは冗談を言って笑っていた。
あの手で髪飾りを直し、彼と同じ地図を見ていた。たった数時間前には、分からないことも二人で考えようと言ってくれた。
そのアリアがいない。
水車小屋で会った二十五歳の自分が、何を抱えて歩いていたのか。八年間探し続けたという言葉の重さを、カノンは初めて身に受けた気がした。
ディーンが肩へ手を置いた。
「今日はここを調べる。お前はいったん家へ戻れ」
「アリアがいないのに、帰れるわけないだろ」
「ここに立っていたら、見つかるのか」
いつもなら言い返しただろう。だが今は、石畳を見つめたまま何も答えられなかった。
兄の手は肩から離れない。カノンは一度だけ、その手に体重を預けた。
「……じゃあ、俺も調べる。道が開いた場所も、今日起きたことも、全部残す」
「ああ。だが、一人で飛び込むな」
「分かってる」
エドガーは立ち上がり、古い布を開いた。オルフェが門の石に新しい印を刻む。白い線が現れた幅と、消えた位置。誰もまだ意味を知らない記録が、少しずつ増えていった。
カノンはアリアの最後の言葉を思い返した。
『一緒に来たら、戻れなくなる』
あれは、自分を突き放すための言葉ではなかった。アリアも怖がっていた。それでも、自分を向こう側へ引き込まないようにしていた。
なぜ彼女にそれが分かったのか。あの声は、いったいいつのアリアだったのか。
分からないことばかりだ。だからこそ、ここで諦めるわけにはいかない。
「探すよ、アリア。どこに行ったのか、必ず見つける」
カノンは銀時計を閉じ、北門の石に刻まれた印を見届けた。ディーンが歩き出すのを待ち、彼もその隣へ並んだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第17話をもって、第一章「忘れた約束」は終了となります。
八年前の約束をめぐる謎が少しずつ明らかになる一方で、カノンとアリアの物語は、新たな局面を迎えました。
第二章では、アリアの行方を追うカノンと、時を越えてつながる謎がさらに動き始めます。
ここまでの謎が、どのようにつながっていくのか。引き続き楽しんでいただけたら嬉しいです。
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次回から始まる第二章も、どうぞよろしくお願いいたします。




