第十八話 三十二日目
アリアが消えて、三十二日が過ぎた。
銀時計の針が動いたのは、この一か月で二度だけだった。
北門の石畳は、何度調べてもただの石にしか見えない。あの日の白い線を写した紙だけが、机の上に増えていく。カノンは昨夜書き直した図を広げ、門から地下水路へ伸びる線の端を指でたどった。
窓の外はまだ暗い。夜明けまで眠るつもりで寝台に入ったのに、気づけばまた机に向かっていた。
傍らには、年老いたエドガーから託された青い布がある。中央の街には、幾度も現れた光の線を記録する糸が重なり、十二の印から離れた場所には、中央を塗り潰した星が縫われていた。布の端にある銀糸の花は、いつかアリアが縫うものだという。
彼女がそこへたどり着く日がある。そう考えることはできても、今どこにいるのかは分からない。
北門の石を掘り返した日もあった。旧水路の水位が上がる夜には、オルフェと明け方まで待った。八百年前の街で見た銀板に似た品を買い集めて、ひとつずつ調べてもらったこともある。
どれも手がかりにはならなかった。
カノンは失敗した理由を紙に残した。同じ場所へ戻るなら、次は違うことを確かめたい。何も記録しなければ、明日も同じ期待を抱いて北門へ走ってしまう。
アリアの言葉についても、考えたことはある。
『まだ、来ないで』
『一緒に来たら、戻れなくなる』
あのとき彼女には、何が見えていたのだろう。星のない暗がりに倒れていた人影は誰なのか。思いつく理由はいくつもあったが、ノートのその欄だけは空けてある。
アリア本人が話してくれたことではない。今はまだ、そう書けなかった。
前の晩、ニナが廊下で声をかけてきた。
森から帰って一か月余り。あの三晩のことを思い出すたび、アリアが消えたのは自分が森へ行ったせいではないかと気にしているらしい。
「違うよ、ニナ。お前が帰ってきたことと、北門で起きたことは別だ」
そう言うだけでは納得できないようだったので、カノンは机で紙を広げ、分かっている出来事を順に描いた。ニナは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「アリアお姉ちゃんが帰ってきたら、私もお話ししたい」
「ああ。きっと喜ぶ」
ニナは襟元から小さな木彫りの鳥を出した。片方の翼だけが、少し厚く削られている。
「これ、覚えてくれてるかな」
「覚えてるさ。俺が失敗して、片方だけ削り直したんだ」
「失敗じゃないよ。ずっと持ってたんだから」
ニナは鳥を両手で包んだ。
カノンは彼女の見た人影や、森で聞いた声について、それ以上尋ねなかった。捜索のために聞く必要が出てくるかもしれない。けれど今夜、話しに来たニナまで調査の対象にしたくはなかった。
「居場所が分かったら、私にも教えてね」
「約束する」
鳥を襟元へ戻したニナを見送ってからも、その言葉が耳に残っていた。
戸を叩く音がして、ディーンが水差しを持って入ってきた。
兄の左肩には、まだ薄く包帯が巻かれている。傷は塞がったものの、剣を振ると痛むらしい。それでも毎朝、カノンより早く起きていた。
「また机で寝たのか」
「寝台には入った。早く目が覚めただけだよ」
「何時に?」
答えに詰まると、ディーンは机の地図へ視線を落とした。昨日と違う位置に、赤い線が一本引かれている。
「今日は採石場か」
「三日前の明け方、時計が一目盛りだけ動いたんだ。古い水路の位置と重なってる」
「エドガーから聞いた。俺も行く」
「肩は大丈夫なのか?」
「岩場を歩くくらいはできる。お前より慎重にな」
兄は水を注ぎ、カノンの手元へ置いた。飲み終わるのを待ってから、向かいの椅子に腰を下ろす。
「母上が、昨夜もお前の部屋に灯りがついていたと言っていた」
「心配させてるのは分かってる」
「俺も心配してるんだ」
いつもなら少し厳しい声で言われるところだった。けれどディーンは、地図の端が丸まらないよう手を添えただけだった。
八年前、九歳の自分がいなくなったとき、兄もこんなふうに地図を広げていたのだろうか。戻ってくると信じながら、何も分からない夜を過ごしていたのかもしれない。
「探すなとは言わない」
ディーンが言った。
「ただ、今日見つからなくても帰ってこい。調べたことは、帰ってから一緒に考える」
カノンは空になった杯を机に置いた。
「うん。必ず帰る。報告もする」
「それならいい」
夜が明けるころ、エドガーが合流した。オルフェは町の地下水路に残り、採石場へ続く水の流れに変化があれば、見張りの兵を通じて知らせることになっている。
三人は北門を出て、使われなくなった石切り道を上った。
採石場に人が入らなくなって、十年以上が経つ。岩壁の下には水が染み出し、木の足場は片側が崩れていた。風が抜けるたび、釘の緩んだ板が小さく鳴る。
エドガーが壁を順に叩いていく。一か所だけ、石の奥に空洞があるような乾いた音がした。
「下に通路があるかもしれん」
ディーンは傾いた足場を見上げ、崩れかけたところへ近づかないよう二人を止めた。持参した縄を頑丈な岩に結び、帰りの目印にする。
「ここから先で何か開いても、まず足場を確かめる。北門の二の舞はごめんだ」
「分かってる」
カノンは銀時計を開いた。針は動かない。
やがて、東の岩肌に朝日が差した。光の届いた石の縁に、細い白い筋が現れる。
時計の針が、一目盛り動いた。
「……ここだ」
思わず手を伸ばしたところで、ディーンに手首をつかまれた。カノンは兄を見て、それから自分の手を下ろす。
エドガーが現在の青い布を広げ、壁の印と照らし合わせた。十二の道にも、年老いた自分の布に増えていた星の印にも一致しない。岩の下には、古い水路の分岐を示す五本の刻みが残っていた。
「時間の扉ではなさそうだな」
「でも、時計は反応しました」
「地下で別の設備につながっているのかもしれん。日付を拾える場所が近くにあるだけという可能性もある」
カノンは岩の刻みを見つめた。八百年前のアステリアで、職人たちが水路につけていた印と同じ形だ。
「水の流れを追えば、入口が分かるかもしれない」
言い終える前に、壁の内側から音がした。
こつ、こつ。
誰かが石を二度叩いたような音だった。
三人は顔を見合わせる。ディーンが一歩進み、同じ間隔で二度叩き返した。
少し間があって、また二度。
「人がいるのか?」
カノンが呼びかけると、壁の向こうで足音がした。銀時計の針が揺れるが、行き先の日付までは読み取れない。
石の継ぎ目に小さなくぼみがある。エドガーがその位置を確かめ、カノンがゆっくりと金具を回した。白い線に沿って石が左右へずれ、冷たい湿気が流れ出してくる。
奥には浅い水の流れる通路があった。
その向こうから、一人の若い男が現れた。二十歳くらいだろうか。濡れた外套を引きずり、頬が少しこけている。こちらの顔を確かめると、男はほっとしたように壁へ背中を預けた。
「……来たか」
カノンは足を止めた。
「俺を知ってるのか?」
「知ってる。お前にとっては、初対面なんだろうけどな」
ディーンが弟の前へ半歩出た。剣の柄へ手を置きながら、男の背後を確かめる。誰かが追ってくる様子はない。
カノンは男の首に下がるものを見つけた。
紐の先に、銀の花が揺れている。中心には青い石。五枚の花弁のうち、一枚の先がわずかに傷ついていた。
見間違えるはずがなかった。
「それ……アリアの髪飾りだろ」
男は花を手に取り、紐を外した。
「本人から預かった」
「いつ?」
「俺にとっては、三年前だ」
カノンはすぐには答えられなかった。
アリアが北門で消えてから、まだ三十二日しか経っていない。だが、時間の道を通れば、先に出会った人の方がずっと長い年月を過ごしていることもある。
あの日、黒い場所の向こうで彼女がどうなったのか。それすら分からずにいた。
「……アリアは、生きてたのか?」
「ああ。俺が会ったときは、間違いなく生きていた」
男は言葉を選んでいた。今も無事だとは、軽々しく言わない。その慎重さが、かえってカノンには信じられた。
エドガーが傍らへ来る。
「君の名前を聞いてもいいか」
「レオだ」
「レオ……」
カノンは声に出して覚えた。レオが花を差し出したが、受け取る前にもう一つだけ聞いた。
「アリアは、何て言ってた?」
レオは一度唇を結んだ。そこにある言葉を、どう渡すべきか迷っているようだった。
「『カノンが来たら渡して』。そう言って、これを預けた」
「それだけ?」
「……『まだ私を探さないで』とも」
また、その言葉だった。
カノンは息を詰めた。北門で聞いた声と、別れ際のアリアの顔がよみがえる。
「理由は?」
「聞いたよ。でも、全部は教えてくれなかった」
カノンの足は、自然と通路の奥へ向きかけた。ディーンが肩に手を置く。今度は振り払わず、そこで踏みとどまった。
「俺は三十二日、探したんだ。これから八年も探すことになるって、知ってる。それなのに、探すなって……」
「やめろとは言ってない」
レオはカノンの掌へ銀の花を載せた。
「会えたら、本人に聞いてくれ。俺も、あのときはちゃんと聞けなかった」
花は冷たかった。見慣れた留め具には修理の跡があり、以前よりしっかり固定されている。紐が通された小さな輪にも、使い込まれた擦れがあった。
この花はアリアと一緒に、カノンの知らない時間を過ごしてきたのだ。
彼は花弁の傷にそっと触れた。
視界に、雨の降る街が広がった。
水路沿いの屋根から雫が落ちている。アリアがレオの前に立ち、銀の花を差し出していた。髪は以前より伸び、頬には疲れが見える。それでも、カノンの知っているアリアだった。
『彼が来ると思う』
『いつ?』
『分からない。会う順番が違うから』
レオが何か言う。アリアは少し困ったように笑ったが、次の言葉は水音に紛れた。
カノンは指を離した。
乾いた岩壁と、足元の水の音が戻ってくる。手の中の花を強く握りかけ、傷つけないように指を緩めた。
「……まだ、続きがあるんだろ」
レオは頷いた。
「『私を見つけても、連れて帰らないで』」
エドガーの表情が変わった。ディーンも何も言わない。
カノンはしばらく花を見つめていた。
探すな。来るな。見つけても連れて帰るな。
どれも、アリアが残した言葉だ。けれど肝心の理由だけが、いつも抜け落ちている。
「……それは、本人から聞かなきゃ分からない」
「ああ。俺もそう思う」
レオはそれ以上、彼を説得しなかった。その目には、自分も同じように誰かを捜したことがあるのではないかと思わせる陰があった。
通路の奥で、水の音が急に大きくなった。
「水位が上がっている。ここはもう閉じるかもしれん」
エドガーが時計を確かめる。
「レオ、君はどうする?」
「俺には、こっちに戻る道がある」
レオは水の流れる先を指した。さらに奥へ、細い階段が上っている。この通路が閉じても、別の出口へ通じているらしい。
「また会えるよ、カノン」
「……どうして、そう言える?」
「俺が十七のころ、二十歳くらいのお前に会ったからだ」
カノンは顔を上げた。
「俺は今、十七だぞ」
「知ってる。だから、会う順番が違うって言っただろ」
レオは肩をすくめた。つい先ほどまでの重い声が、少しだけ軽くなる。
「お前はこれから俺に会う。俺はもう、そのときのお前を知ってる」
「じゃあ、今のお前は……」
「二十歳。あのころから三年経った」
カノンは頭の中で二つの年齢を並べてみた。三年先の自分と、三年前のレオ。今ここにいる二人は、どちらにとっても同じ順序で出会ってはいない。
「そのとき俺は、今日のことを覚えてるんだな」
「そうだ。俺はまだ知らなかった」
レオが笑う。カノンもようやく、かすかに笑い返した。
壁が動き始めた。三人は石の外へ出る。レオは通路の向こうに残り、閉じていく隙間から声を張った。
「カノン! 俺が会ったとき、アリアは確かに生きてた!」
白い石が合わさった。
採石場には、岩肌から落ちる水の音だけが残った。
カノンは銀の花を開いた掌に載せ、しばらく見つめていた。留め具の修理跡も、紐が擦れた跡も、青い石の縁の傷も、間違いなくそこにある。
三十二日間、アリアが生きていると信じることしかできなかった。今は、彼女がどこかで誰かと話し、自分に渡す品を託したことを知っている。
ディーンがカノンの銀時計を示した。
「さっきの数字、控えておいた方がいいんじゃないか」
針はもう止まっていたが、目盛りには今まで見たことのない日付のずれが残っている。行き先の方角までは分からない。だが別の時刻へ続く道が、この地下で何かとつながっていたのかもしれなかった。
カノンはその値を手帳へ写した。エドガーも布の水路図に採石場の位置を記し、閉じた扉の形を描き加える。
「帰ろう」
カノンは銀の花を布に包み、鞄の内側へしまった。
「エドガーさんの地図と、今日の日付を比べたい。オルフェさんにも見てもらおう」
ディーンは頷いた。兄が先に道を下り始め、エドガーもそのあとを追う。
カノンはもう一度だけ、閉じた岩壁へ目を向けた。
アリアが花を託した理由は、まだ分からない。迎えに行ったとしても、連れて帰るなと言われるかもしれない。
それでも、会う前から彼女の望みを決めつけたくはなかった。どうして帰れないのかを、本人の言葉で聞きたい。
鞄の中の小さな包みを確かめ、カノンは兄たちの後を追った。




