第十九話 雪の村
採石場から戻った夜、エドガーは机いっぱいに地下水路の図を広げた。
オルフェが書き残した古い点検記録と、現在のエドガーの青い布を照らし合わせていく。やがて、十二の印のうち北側の一つから、細い線が山の向こうへ伸びていることが分かった。
「使われなくなった点検用の通路だ。抜けた先に、小さな村がある」
「村にも、白い道が?」
「その可能性はある。だが、町の捜索記録には何も残っていない」
エドガーは銀時計の目盛りと図面の数字を確かめた。すべての道が好きなときに開くわけではない。それでも、今は入口が開く時刻と、向こう側につながる日付を読み取れていた。
行き先は、こちらから見てひと月半ほど前の村だった。
カノンは鞄の中の銀の花を思い浮かべた。昨日、採石場でレオから受け取ったばかりだ。アリアが誰かに託し、知らない年月を過ごしてきたもの。行った先に彼女の手がかりがあるとは限らないが、確かめずにいることもできなかった。
出発の支度をしていると、ディーンが部屋へ来た。手にした短剣を、鞘ごと机へ置く。
「持っていけ」
「兄さんのだろ。俺には自分の剣があるよ」
「狭い水路じゃ、長い剣は邪魔になる。これは予備だ」
カノンは鞘から少しだけ刃を抜いた。柄の端に、小さな傷が残っている。子どものころ、兄の目を盗んで持ち出し、石段へ落としたときにつけたものだった。
「まだ直してなかったんだ」
「使う分には困らない」
カノンが笑いかけると、ディーンは表情を緩めないまま言った。
「返しに来い」
「……うん。帰ってから返す」
「軽く言うな」
その声を聞いて、カノンは口を閉じた。八年前、森へ行く前にも、同じように帰ると約束した気がする。自分には短い出来事でも、待っていた兄にはそうではなかった。
「帰りの道が開く時刻も確かめた。閉じる前に戻るし、エドガーさんも一緒だ。予定が変わるなら、必ず知らせる」
ディーンは弟をしばらく見ていたが、やがて短剣を押しやった。
「分かった。町の方は任せろ。採石場の線は、俺とオルフェで調べておく」
カノンは短剣を腰に収めた。兄が同行しないのは、怪我のためだけではない。ここで誰かが調べ続けなければ、帰り道も見失ってしまう。
翌朝、二人は地下水路へ入った。
オルフェが入口の状態を見守り、戻る側の印も記録している。銀時計の針が振れ、濡れた石壁の間に白い扉が現れた。エドガーが先に荷物を通し、カノンもそのあとへ続く。
足を踏み出した途端、膝の下まで雪に沈んだ。
「うわっ……!」
体勢を崩したカノンは、とっさにエドガーの腕をつかんだ。振り返ると、白い扉はもう細くなり、ほどなく針葉樹の幹の間へ溶けるように消えた。
目の前には雪をかぶった山並みが広がり、左右には背の高い針葉樹が続いている。枝から雪が落ちる音だけが、ときおり静けさを破った。
「町では雪なんて降っていなかったのに」
「山を越えたうえに、ひと月半前だ。ここではまだ冬が残っているらしい」
エドガーも雪の深さまでは予想していなかったようで、外套の襟を立て直した。帰りの入口が開く時刻をもう一度確認してから、二人は落ちていた枝を杖にして歩き始めた。
日が高くなるころ、谷の奥に村が見えた。
家々の屋根には重たい雪が積もり、道らしい道も細い踏み跡になっている。戸口を雪に塞がれた家が目立ち、煙突から煙が上がるのは一軒だけだった。
エドガーがその家の扉を叩くと、中で椅子が倒れるような音がした。少しして戸が開き、木の棒を構えた少女が顔をのぞかせる。
十二、三歳だろうか。頬は赤く、指先にはあかぎれがあった。少女は二人の外套と見慣れない靴を眺め、棒を握り直した。
「……外から来たの?」
「ああ。驚かせてごめん。勝手には入らないよ」
カノンは両手を見せた。
「道を調べに来たんだ。困っている人がいるなら、話を聞かせてほしい」
少女は少し迷ってから、扉を広げた。
「道のことなら、みんなにも話して」
残っていた村人は、少女を含めて七人だった。年寄りが三人、少女と母親、それに二人の大人。日中は火のある家へ集まり、交代で雪をかいていたが、夜にはまだ使える家へ分かれて休んでいるという。
少女の名はサナといった。
半年前、村外れの林に白い道が現れた。薪を取りに行った男が一人、その中へ消えた。探しに出た人間も戻らず、それ以来、道は夜になると場所を変え、納屋の裏や家の戸口にまで現れるようになったという。
逃げられる者は親類を頼って山を下りた。残った者たちも、村を離れる準備をしていたが、足の悪い老人や帰らない家族を待つ人がいた。
「どうして、ここに残ったんですか」
エドガーが尋ねると、炉のそばにいた老婆が薪を一本くべた。
「息子が戻ってきたとき、家に誰もいなかったら困るだろう」
火の揺れる横顔を見て、カノンは何も言えなくなった。自分もアリアを待っている。けれど、探しに出ることのできる自分と、この村を離れられない人たちを、同じ言葉では語れない。
カノンはアリアのことを尋ねた。栗色の髪で、十六歳くらい。銀の花の髪飾りをつけていた少女だ。
誰も見ていないと首を振るなか、サナだけが思い出したように顔を上げた。
「人は知らない。でも、銀の花なら見たよ」
サナが案内したのは、村外れの崖だった。
岩のくぼみに積もった雪を払いのけると、石の表面に五枚の花弁が刻まれていた。中心には小さな丸があり、花弁の先の形まで、カノンが持つ髪飾りによく似ている。
「これ、いつからあるんだ?」
「去年はなかったよ。夏にひどい雨が降ったあと、見つけたの」
カノンは鞄から銀の花を取り出した。布越しでも、青い石がわずかに温かい。石に刻まれた花と並べると、同じ形を写したものだと分かる。
岩へ手を伸ばしかけ、彼は一度指を止めた。父の書庫で銀板に触れたときも、北門で道が開いたときも、予想しなかったことが起きた。
エドガーが隣へ立つ。
「私が見ている。おかしなことがあれば、すぐ離せ」
カノンは頷き、手袋を外して、指先だけ花の刻みに触れた。
雪が消えた。
代わりに、雨の降る山道が見える。岩肌を流れる水の前に、少女がしゃがんでいた。栗色の髪が頬へ張りつき、泥のついた外套の袖をまくっている。
アリアだ。
彼女は小さな刃物で岩へ花を刻み終えると、何かに気づいたように振り返った。
『ここまで来たなら――』
雨が石を打つ音に、続きがかき消される。カノンが身を乗り出そうとした瞬間、最後の言葉だけが聞こえた。
『……戻って』
目の前に、雪の崖が戻った。
指を離したカノンは息を整え、見えたものをエドガーへ伝えた。サナは二人の顔を交互に見ていたが、雨の日に刻まれた花だと聞くと、崖の上を指した。
「あそこに、古い道があるよ。雪で埋まってるけど」
エドガーは岩肌の傾きと水の流れを調べ始めた。カノンも手伝おうとしたが、すぐには足が動かなかった。
「……また、戻れって言うんですね」
レオからは探すなと言われた。北門では来るなと止められた。ここでも同じだ。どの言葉にも、理由がない。
「なら、理由を探そう」
エドガーは雪を払いながら答えた。
「言葉の前が欠けていたんだろう。『戻って』だけでは、誰をどこへ戻したかったのか分からん」
カノンは岩の花を見た。隠された印ではなかった。雪さえなければ、崖を通る誰もが見つけられる場所だ。アリアは何のために、ここへ花を残したのだろう。
山を吹き抜ける風が強まり、サナが外套の裾を押さえた。カノンは見上げるのをやめ、二人とともに村へ戻った。
夕方、持参した塩と乾いたパンを分けると、サナの母親が温かい汁を作ってくれた。カノンは火のそばで村の見取り図を描き、白い線を見た場所を一つずつ聞いて回った。
最初は東の丘、次は中央の納屋の裏。そのあと西の家並み。順番に何か意味があるのかもしれないが、まだ決めつけることはできない。
「明るくなったら、西の水路を調べよう」
エドガーが言うと、サナは壁へ立てかけていた棒を手に取った。
「夜に出たら?」
「まず逃げる。道へ近づかないでくれ」
「おばあちゃんは足が悪いの。西の家で休んでるから、すぐには走れない」
カノンは図面に西の家と、そこまでの通路を書き加えた。
「だったら、今のうちに移せないかな」
「さっき聞いたけど、動くと痛いって。朝になったら、みんなで運ぶつもり」
薪も人手も足りていない。カノンはエドガーと相談し、夜の見張りを交代で受け持つことにした。何かあればすぐに人を起こす。それでも十分とは思えず、西の家の戸口へ、雪を踏み固めた道を一本作った。
夜半、鍋を打ち鳴らす音が村に響いた。
カノンが外へ飛び出すと、雪の上に白い線が三本立っていた。東の丘、村の中央、西の家並み。道の縁に触れた雪が、音もなく消えていく。
銀時計を開く。針は激しく揺れ、近づく線によって異なる目盛りを指した。一本の入口が枝分かれしているわけではないらしい。
「同時に三か所か……!」
エドガーは見取り図を広げ、各所にある古い水路の弁の位置を確かめた。村の設備はアステリアのものとよく似ているが、何十年も使われていない。三か所とも動く保証はなかった。
「東は俺が行きます。丘に人がいる!」
「私は中央を止める。西の家の者を先に逃がせ!」
サナと母親が西へ走った。カノンも東の斜面へ向かいかけたが、一瞬だけ足が鈍る。西にも灯りがある。あの家には、歩くのが難しいサナの祖母がいる。
どちらへ行っても、もう片方には間に合わないかもしれない。
カノンは短剣の柄を握り、東へ走った。
斜面では老人が二人、足を取られながら雪を下っていた。白い線はその背後から追ってくる。カノンは近い方の老人に肩を貸し、もう一人には自分の腕をつかませた。二人を岩の陰へ逃がすと、雪に埋もれた古いレバーを掘り出した。
金具は氷で固まっている。短剣の刃で隙間の氷を削り、折らないよう鞘の先で残りを崩した。両手でレバーを押すと、凍った金属が軋み、白い線が細くなる。
消えた。
遠く、村の中央でも何かが倒れる音がした。エドガーがもう一つの装置を動かしたのだろう。
カノンは老人二人の無事を確かめ、西へ走った。
家の前にはサナと母親が立っていた。母親が扉へ向かおうとするのを、サナが必死に止めている。
「おばあちゃんが、中に!」
西端の家は、壁の片側から白く透け始めていた。窓越しに見える棚や椅子も、輪郭が薄くなっている。戸は歪み、いくら引いても開かないらしい。
「下がって!」
カノンは二人を押しのけるようにして戸へ走った。足元の雪が白い線へ溶け込み、靴底の感触が一瞬消える。
ディーンの短剣を戸の隙間に差し込み、こじ開ける。柄に刻まれた傷が掌へ当たった。刃を折らないよう力をかけ直すと、留め金が外れ、戸が内側へ開いた。
部屋の奥で祖母が立ち上がろうとしていた。片足を引きずり、壁へ手をついている。
「俺につかまって!」
返事を待つより早く、その背に腕を回した。祖母は軽かった。けれど雪の上へ出るには、数歩がひどく遠い。
敷居を越えようとした瞬間、背後の床が消えた。
カノンは祖母を抱え、残った足場から雪へ飛び出した。肩から転がり、短剣の鞘が脇腹に食い込む。起き上がって振り返ったとき、家はもうなかった。
西側の二軒が、雪の上から切り取られたように消えていた。
祖母は生きている。息もしている。だが隣の家の主は外へ出てこなかった。どの日付へ運ばれたのか、それとも別の場所に落ちたのか、誰にも分からない。
サナと母親が祖母へ駆け寄った。カノンは二人に任せ、家のあった場所を見つめた。
東へ向かわなければ、西の家へ早く来られたかもしれない。だが東の老人たちを残していたら、二人はどうなっていたのだろう。
考えても答えは出なかった。
雪の端に、小さな木の履物が片方だけ落ちていた。底には、焼き印がある。カノンは拾い上げ、消えた家の方を見る。
持ち主が別の日付で生きているのなら、もう片方を履いているかもしれない。何も分からない今、いなくなったと断定することもできなかった。
エドガーが縄を張り、村人が跡地へ踏み込まないようにしていた。カノンはサナの母親へ履物を見せ、持ち主の名を尋ねた。
「朝になると、誰より早く井戸の氷を割ってくれる人だったよ」
教えられた名を、カノンは手帳へ書いた。履物の焼き印も写し、井戸のそばに残っていた斧の柄の形まで描く。
アリアを探すために来た村で、また別の誰かが行方不明になった。だからといって、その人を自分が救えなかった人数としてだけ残したくなかった。いつか別の道で名前を聞くことがあれば、見つけられるようにしたかった。
夜明け前、サナが外へ出てきた。
「おばあちゃん、眠ったよ。お母さんがそばにいる」
「そうか。よかった」
「……ありがとう」
カノンは手帳を閉じた。
「全部は止められなかったよ」
「うん」
サナは否定しなかった。雪に足跡をつけながら、消えた家のあった方を見た。
「いなくなった人も、探してくれる?」
「名前と、持ち物の印を記録した。別の道で何か見つけたら、必ず知らせる」
「私も覚えておく。もし帰ってきたら、ここにいたって分かるように」
サナは少しためらい、それからカノンを見上げた。
「おばあちゃんを助けてくれたことは、ちゃんとお礼を言わせて」
カノンは頷いた。助かった人の数で、失った人の数を打ち消すことはできない。けれど、救えなかったことを理由に、助かった人の命まで小さく扱いたくはなかった。
朝日が崖の上に差すころ、エドガーが戻る時刻を知らせに来た。雪の村から地下水路へつながる扉は、長くは開かない。二人は荷物をまとめ、サナに村の見取り図の写しを渡した。
「東と中央の装置は止めた。西の仕組みは、まだ調べ切れていない。また光が出たら、決して近づかずに人を避難させてほしい」
エドガーの言葉に、サナは真剣な顔で頷いた。
崖の道を歩きながら、カノンは銀の花が刻まれた石を振り返った。
『……戻って』
あれは誰に向けた言葉だったのだろう。今朝の出来事を知っていれば、東へ行く自分を止めたかったのかもしれない。あるいは、まったく別の危険を知らせていたのかもしれない。
分からないまま、答えを決めつけるつもりはなかった。
手帳には、消えた家の主の名がある。町へ帰ったら、別の日付から来た人の記録を調べよう。それでも見つからなければ、次の村で訊けばいい。
エドガーが雪の間に開いた白い道へ入った。カノンは腰の短剣と、鞄の中の銀の花を確かめる。
背後の村では、一軒の煙突から細い煙が上がっていた。
サナたちは、今日もここで生きていく。
カノンはもう一度だけ村の方を振り返り、それからエドガーのあとを追った。




