第二十話 分かれ道
アリアが消えて、一年が過ぎた。
十八歳になったカノンは、故郷からいくつもの山を越えた町に、仮の拠点を置いていた。
窓際の机には地図が積まれている。どの紙にも、見つけた道と、そこにつながる日付、そして確かめた結果を書き込んであった。印のない場所を探すための地図なのに、最近は行き止まりを示す印の方が増えている。
月に一度はこの町へ戻り、調査の記録をまとめて家に送った。雪の村でサナから預かった名前も、父に頼んで行方不明者の記録へ加えてもらっている。
先月届いたサナの手紙には、祖母が杖をついて庭まで歩けるようになったとあった。だが、消えた家の主の行方は、まだ分からない。
カノンの手帳には、その人の名と、片方だけ残った木の履物の焼き印がある。新しく書き足せることはないまま、頁だけが少し擦り切れていた。
母から届く荷物には、いつも乾いた果物が入っていた。ディーンは短剣を返せとは言わず、代わりに研ぎ石を送ってきた。添えられた短い手紙には、「刃を傷める使い方をするな」とだけ書いてある。
昔なら、心配しすぎだと笑っていたかもしれない。
今はどちらもありがたく受け取っている。旅先で家からの手紙を開く夜が、こんなに待ち遠しくなるとは思わなかった。
一年の間、数え切れないほどの話を聞いた。
西の廃塔では、同じ昼を三度迎えたという職人の記録を見つけた。川沿いの宿では、栗色の髪の少女が一晩だけ泊まり、壁に銀の花を描いたと聞いた。夜通し歩いて宿に着いたものの、花を描いたのは主人の娘で、何年も前からそこにあった。
外れた噂ほど、なかなか手帳を閉じられなかった。
話を聞いた場所へ戻り、言葉を確かめ直す。自分に都合のいいところだけを覚えていないか、一行ずつ読み返した。それでも違うと分かって、ようやく次の町の名を書く。
そんな日が、何度もあった。
春先には、アリアに似た少女がいるという知らせを聞いて、山の診療所まで足を運んだ。
少女は確かに栗色の髪をしていた。胸元にも、銀色の花がある。カノンは戸口で足を止め、一瞬、名を呼びそうになった。
けれど、花は衣服に縫われた模様だった。少女はカノンを知らず、故郷の川の話をするときも、何のためらいもなく別の土地の名を口にした。
人違いだ。
そう分かるまで、ほんの数分しかかからなかった。
カノンは礼を言って立ち去ろうとした。すでに次の村へ向かう道を頭の中で確かめていたが、診療所の戸を開けたところで、背後から呼び止められた。
「あの……ごめんなさい。探している人じゃなくて」
少女は薬の包みを胸に抱えていた。指先は赤く、薄い靴には山道の泥がついている。
「謝らなくていい。俺が勝手に勘違いしたんだ」
「弟に、この薬を届けたくて。でも、尾根に白い霧が出てるって……一緒に来るはずの人も、まだ戻らないの」
少女が指したのは、カノンの予定とは反対側の山だった。
道を変えれば、次の入口が開く時刻に間に合わないかもしれない。ようやく見つけた手がかりも、数日後には消えてしまうおそれがある。
カノンは開きかけていた地図を見た。
彼女に落ち度はない。髪の色が似ているというだけでアリアだと期待したのは自分だ。そのせいで、目の前の少女が困っていることまで見落としそうになっていた。
「弟さんの家は、どこ?」
少女が顔を上げた。
「薬を届けよう。霧の中を一人で歩くのは危ない」
診療所の医師に行き先と帰る予定を伝え、二人は川沿いの回り道を選んだ。雪解け水で道はぬかるみ、木の根が露出した坂では何度も足を取られた。少女は薬を濡らさないよう胸に抱えたまま、弟が熱を出した日のことを話してくれた。
ようやく家へ着いたとき、窓には明かりがともっていた。薬を受け取った家族に何度も頭を下げられ、カノンの方が困ってしまった。
帰り道、少女は弟が好きな花を教えてくれた。細い花弁が七枚ある、山の斜面に咲く白い花だという。
「さっきの銀の花とは、違うんだな」
「うん。あれは私が好きな花。弟は、もっと変わった形のが好きなの」
少女は笑った。カノンも、ようやく落ち着いてその顔を見ることができた。
診療所へ戻るころには、次の道が開く時刻を過ぎていた。
悔しくなかったわけではない。その晩、手帳の予定欄へ「間に合わず」と書き、しばらく筆を止めた。それから、薬を届けた家の場所と、霧の出た山道の様子を続けて記した。
人を助けたことを、アリアに近づけなかった言い訳にしたくなかった。だから、どちらの出来事も残した。
同じ宿で火を囲んでいたエドガーが、手帳を閉じるのを見て言った。
「一年前のお前なら、人違いと分かった時点で次の町へ向かっていただろうな」
「その方が、早かったかもしれません」
「何に早かったんだ?」
カノンは答えられなかった。
アリアに会いたい。その思いは、以前と何も変わっていない。けれど、自分が今日あの子を置いて出発していたら、薬はどうなっていただろう。
雪の村で聞いた人々の名が、手帳にはまだ残っている。誰かの行方を探すということは、道の先にいる人だけを見ることではないのかもしれなかった。
エドガーは何も付け加えず、火に薪を足した。
それからも二人は旅を続けた。手帳の頁が増え、季節が移り、調べてきた道が少しずつ一本の水路へ集まっていった。
そして今、カノンたちは、古い石橋のたもとに立っていた。
橋の下では、岩の間を南へ抜ける流れと、草地へ向かって西へ曲がる流れが合わさっている。水面には同じ空が映っているのに、その先の行き先はまるで違った。
エドガーが古びた青い布を広げた。八百年前のアステリアで、年老いた自分から受け取った方だ。布の中央には、幾度も現れた光の線を縫い足した記録が重なり、端にはアリアの手になる銀糸の花が咲いている。
「ここから先は、二つに分かれる」
エドガーの指が、川の両側を順に示した。
「南に開く道は、アリアの痕跡がある場所へ続く可能性が高い。年老いた私が、この近くに花の印を残している」
「西は?」
「オルフェが若いころ使っていた工房だ。アステリアの塔から外へ伸びた線に、誰が手を加えたのか。その記録が残っているかもしれん」
カノンは二本の線を見比べた。
オルフェ本人は故郷の時計塔に残り、今も地下水路を調べている。西で探すのは、彼が昔残した帳面や部品だ。どちらも、これから先へ進むには必要な手がかりだった。
「両方、調べたいですね」
「私もだ。しかし南の道は、もうすぐ開く。次がいつかは分からない」
カノンは銀時計の蓋を開いた。針が拾っているのは、南へ続く入口の日付だ。方角まで教えてくれるわけではない。二人で調べた地形と、布に残された印があって初めて、行き先を選べる。
エドガーは鞄から小さな袋を取り出した。濡れた金属を削った粉と、銀板の刻みに似た模様の写しが収められている。底からは、欠けた留め具が一つ出てきた。
「ああ、それ、まだ持ってたんですか」
カノンは思わず笑った。
少し前、古い時計塔を調べたとき、固くなった留め具を無理に外そうとして欠けさせたものだ。エドガーには散々叱られた。ところが翌日、彼も同じ場所で手を滑らせ、残った金具まで曲げてしまった。
結局、町の職人に新しいものを作ってもらい、二人で交換した。作業のあとにエドガーが「お前が余計なことをするからだ」と言い、カノンが「最初に壊したのは俺ですけど、最後は違いますよ」と返したことまで覚えている。
「笑い事じゃない。西の工房で同じ形が見つかれば、水路のつながりを確かめられる」
「なかったら?」
「違うと分かる。それも、必要な答えだ」
エドガーは袋をしまった。一年前のカノンなら、失敗した場所の金具など持ち歩いてどうするのかと思っただろう。今は、その意味が分かる。
「私が西へ行く。昔の仕組みなら、私の方が調べやすい。お前は南で人に話を聞け」
「……一人で?」
「一年も一緒に歩いたんだ。そろそろ分かるだろう。二人とも同じ場所にいなくても、調査は進められる」
カノンはすぐに頷けなかった。
道を間違えたとき、隣で地図を広げてくれる人がいない。何かを見つけても、それがアリアの痕跡かどうか自分で確かめなければならない。
だが、エドガーと別の道を進めば、同じ時間に二つの手がかりを追える。自分の不安だけで、それを諦めたくはなかった。
「青い布は、持っていってください。西の印を調べるのに必要でしょう」
エドガーは古い布を畳み、カノンの胸元へ差し戻した。
「これはお前が預かったものだ。ここ数日、私が借りていただけだよ」
「南の道なら、印はもう写してあります」
「西も写した。現在の私が持っていたもう一枚は家に残してあるし、手帳もある。お前はそれを持って行け」
カノンが受け取ると、エドガーは布の端の花を指した。
「アリアに会えたら、これを見せてやってくれ。私が書いた線だけでは、きっと分からないことがある」
「そのときは、エドガーさんにも直接聞いてもらいますよ」
「……そうだな」
エドガーは小さく笑った。
橋を渡る前に、二人は川べりの石に腰を下ろして昼食を取った。母から届いた乾いた果物が、まだ袋に残っている。
エドガーは一つつまみ、甘すぎると顔をしかめた。そのくせ、しばらくするともう一つ取る。
「母さんに伝えておきます」
「何をだ」
「おいしかったって」
「余計なことを」
笑いながら袋をしまうと、川の音が二人の間に戻った。
「アリアは、今の私を見たらどう思うだろうな」
エドガーが水面を眺めて言った。
「前よりは、話すようになったつもりだが」
「喜ぶと思います。それから、なんで今まで話してくれなかったのって怒るかも」
「……あの子なら言いそうだ」
エドガーは苦笑し、懐から手帳を出した。
「西へ行くことも、戻る予定も、ここで書いておこう」
彼が記した日付を、カノンも自分の手帳に写した。今いる場所を示す印と、次に連絡できる見込みの時刻。予定どおりに戻れる保証はない。それでも、帰りを待つ相手に何も知らせず出ていくことだけは、もうしたくなかった。
カノンも南の入口の日付と、そこから戻るために調べた印を書き、エドガーに渡した。
「先に町へ戻ったら、父上にも知らせてください」
「お前もな。戻ったら、私の分まで書いておけ」
橋の向こうで鳥が鳴いた。
南の岸に、薄い白い光が浮かび始めている。入口が開く時刻が近づいていた。
「カノン。もし、アリアを見つけたら……」
エドガーは言いかけて、口を閉じた。
「何ですか?」
「いや。あの子に会ったら、私が自分で話す」
「約束ですよ。今度は、何も言わずにいなくならないでください」
「ああ。約束だ」
二人は握手した。
エドガーの指には、針を使う人間らしい硬いところがある。青い布へ線を縫い足すときも、夜更けに記録を読み返すときも、何度となく目にした手だった。
一年という時間を、ずっと隣で歩いてきたのだと、今さらのように思った。
西へ向かうエドガーの背が、橋の向こうの草地に小さくなっていく。姿が見えなくなっても、カノンはすぐには動かなかった。
少し前の自分なら、その静けさに耐えきれず走り出していただろう。けれど、ここで確かめなければならないことは分かっている。
鞄から古い青い布を取り出し、南へ続く印をもう一度たどった。次に訪ねる村の名を読み、手帳に書き留めた人々の名前も確かめる。サナの村で消えた家の主を、知っている人がいるかもしれない。
別の包みには、修理された銀の花が入っている。アリアが知らない年月を過ごした証拠だ。カノンはそれを開かず、上からそっと押さえた。
銀時計の針が動いた。
示された日付を手帳へ写し、ディーンの短剣が腰にあることを確かめる。
南の入口へ踏み出す前に、カノンはもう一度だけ西の空を見た。
アリアの痕跡があれば追う。知らない人が困っていれば、まず何があったのか聞く。選べなかった道の先にも、エドガーがいる。
そう思うと、少しだけ足が軽くなった。
カノンは白い道へ進んだ。




