第二十一話 まだ知らない友人
二十歳の春、カノンは雨の街で剣を抜かれた。
石橋の下は薄暗く、増水した川が橋脚を叩いていた。水路の図面を濡らさないよう外套の内側へしまおうとしたとき、物陰から飛び出した少年が行く手を塞いだのだ。
年は十七ほど。雨に濡れた前髪が額に張りつき、構えた剣の先がカノンの胸元を向いている。切っ先はわずかに震えていたが、道を譲る気はなさそうだった。
「その図を、どこで手に入れた」
「古い水車小屋だ。話すから、まず剣を下ろしてくれ」
「答えになってない。役所の人間が、あそこを勝手に調べるはずがない」
少年は図面を見たまま、さらに一歩近づいた。目つきは険しいが、剣を支える腕には疲れがにじんでいる。何日もまともに眠っていないのかもしれない。
カノンはその顔を見つめ、はっとした。
「……レオ?」
少年の眉が跳ね上がった。
「名前まで調べたのか」
「いや、そうじゃない。俺は……」
言いかけて、カノンは口をつぐんだ。
三年前、採石場で会った二十歳のレオ。その顔が、目の前の少年と重なる。あのときレオは自分を知っていたが、今の彼はまだカノンと出会っていない。
順序が逆なのだと分かっていても、こうして剣を向けられるとは思わなかった。
カノンは両手を上げた。
「説明すると長い。せめて屋根のあるところへ行かないか。このままじゃ、お互いの図面が駄目になる」
レオは初めて自分の懐を見た。雨を吸った布の端から、紙の角が覗いている。剣を下ろすまでにはまだ間があったが、やがて少年は橋のたもとの茶屋を顎で示した。
「変な真似をしたら、すぐ出ていってもらう」
「分かった。それと、剣を向けられたままだと茶が飲みにくい」
「……口だけは達者だな」
先を歩くレオの背中を見ながら、カノンは少しだけ笑った。採石場で会った男にも、こんな言い方をするところがあった。
茶屋の奥では、窓を流れる雨が外の景色をぼかしていた。向かい合って座り、湯気の立つ茶が運ばれてくるのを待ってから、カノンは三年前の出来事を話した。
自分が十七歳だったこと。採石場の閉じかけた通路で、今より三歳ほど年上のレオと会ったこと。彼が銀の花を首から下げ、アリアという少女に預かった品だと告げたこと。
レオは途中で何度も口を開きかけたが、最後まで聞いた。
「作り話にしては、やけに回りくどいな」
茶を一口飲んでから、彼は窓の外へ目をやった。
「本当なら、俺は三年くらい先まで生きてるわけだ」
「少なくとも、俺が会ったときはな」
「……ミリアは?」
カノンは首を振った。
「そのとき、お前はその女性の話をしなかった」
レオの表情が曇る。指が茶碗の縁を一度なぞり、やがて懐から小さな木の櫛を取り出した。歯が二本、根元から欠けている。
「ミリア。俺の妹だ。三年前、川沿いに現れた白い道へ入って、帰ってこなかった。あのとき、まだ十二だった」
レオは櫛を掌で裏返した。
「いなくなる前に喧嘩したんだ。俺がこれを壊したのを隠してた。貸してくれって言われても誤魔化して……帰ってきたら謝ろうと思ってた」
櫛には、何度も指で触れたらしい艶が残っていた。
カノンは言葉を探した。銀の花を預かってから三年。自分もまた、アリアのいない時間を数えながら歩いてきた。こんな小さな品を手放せない気持ちは、痛いほど分かる。
「俺も探している人がいる。アリアっていうんだ」
「恋人か?」
「……そういう話じゃない」
「否定するのに時間がかかったな」
カノンが睨むと、レオの口元が少し緩んだ。
重くなりかけた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。カノンは机に図面を広げ、川の東岸から旧水路へ続く線を示した。
「ミリアが消えた場所と、この分岐が重なってる。俺が追っている銀の花の印も、この先の集落で見つかった」
レオは紙へ身を乗り出した。自分の持つ図面と照らし合わせ、川の曲がり角に指を置く。
「そこへ行くなら、北の土手を回った方がいい。橋の下流は今の季節、水が深い」
「土地を知ってるんだな。一緒に調べないか」
レオは顔を上げたが、すぐには答えなかった。三年も一人で探してきた場所に、初めて会った人間を連れていくのは簡単ではないだろう。カノンにも覚えがあった。
「古い水路の記録は俺が持ってる。川のことはお前が詳しい。互いに足りないところを補えると思う」
「随分と上から言うな」
「今さっき剣を向けた人には言われたくないな」
レオは吹き出した。茶をこぼしかけ、慌てて器を置く。
「分かったよ。まずは明日だ。お前の図面が本当に使えるか、見せてもらう」
「じゃあ、朝にここで」
店を出ると、雨は小降りになっていた。レオは櫛をしまいながら、少し先を歩く。未来の彼と話したときには知らなかった歩き方を、カノンは初めて覚えた。
翌朝から、二人は川沿いの水路をたどった。
水位が下がる時期にしか現れない目盛りを探し、橋の裏へ降り、膝まで水に浸かって古い石の刻みを写した。川底には五本の線が彫られた石があり、アステリアで見た水路の印とよく似ていた。
夕方、借りた小屋で濡れた靴を火にかざしていると、レオがカノンの銀時計を覗き込んだ。
「それで、次に行く場所が分かるのか?」
「場所というより、道がつながる日付だ。どちらへ歩けばいいかは、図面を見ないと分からない」
「便利なのか不便なのか分からないな」
「俺も最初は方角を教えてくれると思ってた。目盛りだけ頼って廃坑を歩いて、丸一日無駄にしたことがある」
「丸一日?」
レオは遠慮なく笑った。悔しいので水に濡れた彼の靴を見やると、今度は自分の足元へ引っ込められた。
翌日からレオは、カノンが時計を開くと必ず図面も広げるようになった。まだ知り合って数日だというのに、役割分担だけは早く決まっていった。
三日目、川沿いの集落で銀の花の印を見つけた。
橋の支柱の根元、古い水位の目盛りのそばに、五枚の花弁が刻まれていた。先端の小さな切れ目まで、アリアが描く花に似ている。
カノンが裏へ回ると、木肌に浅い文字が続いていた。
『ここまで来たなら、戻って』
「……またか」
声に出してから、カノンは指を止めた。
「何だよ。嫌われてるのか?」
レオが隣から覗き込む。
「そういう意味じゃないと思う。少なくとも、そう決めたくはない」
「理由は分かってるのか」
「いや。もう二年も、似た言葉を追ってるのに」
探さないで。まだ来ないで。見つけても連れて帰らないで。
アリアの声も、彼女が残した品も見つかった。それなのに、どうして遠ざけられるのかだけが分からない。
レオはポケットの櫛を取り出し、欠けた歯を親指でなぞった。
「ミリアから『戻って』って書かれても、俺なら追うと思う」
「ああ」
「でも、俺が危ない場所にいたら……あいつには来てほしくないとも思うだろうな」
カノンは改めて支柱を見上げた。雪の村で老人二人を助けたときも、どちらへ行くかを決めるまでのわずかな時間が、ひどく長かった。もしアリアが誰かを守るためにこの文字を刻んだのなら、戻ってほしい理由は彼女自身のこととは限らない。
「集落の人にも聞いてみよう」
橋を管理する老人は、花を刻んだ少女のことを覚えていた。
雨が強い夜、橋の床板を直す手伝いをしてくれたという。細い糸を持ち歩き、道の印を布に写していた。名は聞かなかったが、翌朝には別の日付へ向かう一行とともに去っていったらしい。
「糸を持っていたんですね」
「ああ。ほつれた板の継ぎ目まで写そうとする、妙に熱心な子だったよ」
カノンは修理された橋を渡った。踏むとわずかに沈む板が一枚あり、裏側をのぞけば新しい釘が打たれている。アリアもこの川の匂いを嗅ぎ、住人たちと雨の中で板を押さえていたのだろう。
花の印だけが彼女の痕跡ではなかった。こうして人の暮らしの中に残った仕事も、確かに彼女のものかもしれない。
橋の向こうでは、レオが欄干に腰かけていた。
「ミリアも、何か直したら黙って戻すんだ。俺が気づくまで何も言わない」
「アリアも似てるよ。礼を言われると、照れて別の話を始める」
「だったら、橋を直したことも言わずに出ていったのかもな」
カノンは頷いた。橋の老人が教えてくれた日付を、手帳へ書き写す。こちらの暦では十年以上も前の夜だ。アリアはまた、自分の知らない時刻を先に歩いていた。
彼女だったと断定するには、まだ確かめたいことがある。それでも、五枚の花と青い布の話を合わせれば、可能性は高い。レオにも分かるよう印を写して見せた。
「……アリアの足跡だと思う」
「なら、次はこの一行がどこから来たかだな」
レオは支柱の文字を指した。カノンはその横に、刻みの深さと木材の傷を記録した。
旅はそこで終わらなかった。
二人は南の谷へ下り、帰り道が閉じてしまった宿を調べた。空き家の床下からは、ミリアの名が書かれた荷札が見つかった。紙は湿気で変色していたが、レオはその字を見るなり動かなくなった。
「……ミリアの字だ」
荷札を何度も裏返す。指に力が入り、薄い紙が折れそうになったので、カノンがそっと下敷きを差し入れた。レオは何も言わず、やがて片手で顔を覆った。
宿の地下には、水の抜けた細い通路が残っていた。レオは荷札を手にしたまま暗がりへ降りようとする。
「待て。時計には向こうの日付が出てる。でも、戻る側の印がない」
「……ここを通ったかもしれないんだぞ」
「分かってる。ただ、戻れるか確かめずに入れば――」
「お前は、三年先の俺を見たんだろ?」
レオの声が低くなった。
「だから今も大丈夫だって言いたいのか」
カノンは言葉を失った。さっきまで、自分が未来のレオを知っていることを、安心の材料にしようとしていた。
「違う。安全だって決めつけたくないんだ」
「なら、俺にも選ばせろ」
レオは一段だけ降り、壁の刻みへ手を伸ばした。奥へ進むのかと思ったが、彼は小さな紙を取り出し、印の形を写し始める。
「今日はこれを持って帰る。中へ入る道具も足りない」
カノンは息を吐いた。自分の言うことを聞かせたのではない。レオが危険を確かめ、自分で決めたのだ。
「明日、道具を借りてこよう。俺も手伝う」
「その前に図面を見せろよ。今度は俺にも説明してくれ」
「分かった。最初からな」
レオの口元が少し上がった。その顔を見て、カノンもようやく笑えた。
荷札には川を渡った日付と、同行した商人の印が残されていた。二人はその商人を追い、二日かけて隣町で見つけた。
すっかり年を取った商人は、当時のことを一つずつ思い出してくれた。ミリアが荷台から降りるときに足をくじき、しばらく歩けなかったこと。旅の途中で出会った家族に助けられ、その人たちと別の道へ向かったこと。
「最後に見たとき、歩けていましたか」
レオが尋ねると、商人は頷いた。
「痛そうにはしていたが、自分で礼を言って歩いていったよ」
それだけ聞くと、レオは深く頭を下げた。店を出てもしばらく何も話さず、櫛を握った手を外套の中へしまっていた。
カノンは、採石場で年上のレオから「アリアは生きていた」と聞いた日のことを思い出した。あの短い答えに、どれだけ救われたか。今のレオも、妹がその日を確かに生きていたと知ったのだ。
春から夏へと季節が移るころには、カノンはレオが寝言で妹の名を呼ぶことを知っていた。レオも、カノンが銀時計を開く直前、ほんの一瞬だけ息を止める癖に気づいていた。
雨宿りをする場所を探し、帳面の頁を分け合い、道を間違えれば互いに文句を言う。夕食の席で話すのは捜索のことばかりではなくなった。レオが川辺で釣りをしていたころの話も、カノンが兄の短剣を落として叱られた話も、何度か繰り返すうちに笑い話になっていた。
未来のレオが自分を知っていた理由は、もうその事実だけでは説明できない。目の前の少年と歩いた一日一日が、二人の間に積み重なっていた。
夏の終わり、カノンは古い水路で濡れたまま長く歩き、宿へ戻ってから熱を出した。
翌朝には開く道がある。先の集落で銀の花を見たという証言も届いていた。カノンが寝台から身を起こそうとすると、レオが肩を押して戻した。
「無理するな。俺が聞いてくる」
「でも、あそこは入口が分かりにくい。地図も――」
「半年、お前の隣で見てきたんだぞ」
カノンが時計を差し出そうとすると、レオは首を振った。
「帰る時刻を確かめるつもりはない。証言を聞いて、水路の位置を写して戻るだけだ。時計はお前が持ってろ」
レオは必要な頁だけ写した紙を持ち、外套の襟を立てて出ていった。
夕方、泥だらけの靴で戻ってきた彼が持ち帰ったのは、人違いだったという報告と、村の水路が干上がる時期の記録だった。アリアの居場所には結びつかなかったが、ミリアを捜すにも使えそうな情報だ。
「悪かったな。肝心の少女は別人だった」
「謝ることじゃない。助かったよ」
「じゃあ、次に俺が寝込んだら聞き込みを頼む」
「ああ。その代わり、今日はお前も休め」
「それ、俺の台詞のはずなんだけどな」
カノンは言い返さず、レオが差し出した水を飲んだ。三年前に会った男の言葉ではなく、今日、今のレオが自分のために歩いてくれたことが嬉しかった。
秋の終わり、ミリアの荷札と同じ商人の印が、谷の奥にある古い水門で見つかった。
石の縁には白い線の痕跡が残り、銀時計は次の朝の短い間だけ入口が開くことを示していた。
「……ここかもしれない」
レオは水門に手を置いた。川に洗われた石は冷たく、継ぎ目には古い苔が詰まっている。
カノンは時計を開き、つながる日付を確かめた。自分には別の道をたどって帰る方法がある。だが、レオが入ろうとしている入口には、戻る側の印が見つからない。
二人が並んで通れるほどの幅もなかった。
日が落ちるまで周囲を調べたが、別の出口は見つからなかった。そこで二人は水門の前に火を起こし、夜を明かすことにした。
小さな炎を挟んで向かい合うと、レオが櫛を取り出した。折れた歯を親指で撫で、しばらく黙っていた。
明日の朝、どちらが向こうへ進むのか。二人で歩いてきた道の先に、初めて一人分しかない入口が現れた。
そのとき、水門の奥から石を二度叩く音がした。




